◆十六◆

 

 突然強く腕を引かれた反動で、思わず転びそうになった俺の体を支えたのは、桜井の華奢な腕だった。桜井は息を切らしながらも、踏ん張って俺を支えて体勢を整えさせると、息を継ぐひまもなく俺の腕を引っ張って物の怪との距離を取った。
「大丈夫?」
 桜井は苦しそうに途切れながらそう言うと、俺を見上げた。俺はそれに慌てて頷くと、物の怪と対峙している神野に視線を走らせる。
 今まで一度たりとも、神野が怒りの感情を浮かべているところを見たことはなかった。しかし、先程一瞬だけ見えた神野の表情は、間違いなく怒りに身を任せたものだ。鳥肌が立つようなその迫力に、物の怪だけではなく俺すらもたじろいでしまうほどだった。
 思わず、先程掴まれた右腕に手を当てる。強く引かれはしたけれど、不思議と痛みはなかった。
 それから神野と物の怪へ視線を移す。
 物の怪は神野を見上げたまま、一歩も動けずに傍目から見ても分かるほどにがたがた震えながら、目を大きく見開いている。神野は物の怪から目を逸らさずにそのまま無言で物の怪との距離を詰めて行くと、右手をおもむろに上げて、ゆっくりと空中に五芒星を描いた。
 次の瞬間、五芒星は眩い光を発して辺り一帯に柔らかく広がった。それと連動するように辺り一帯に冷たい風が巻き起こる。そして、次の瞬間には物の怪は消えていた。
 俺の隣では、桜井が息を呑んでその光景を食い入るように見つめていた。その表情はどこか血の気が引いていて、神野の存在に圧倒されているようにすら見て取れた。
 当の神野は暫くの間、その場に立ち止まったまま先程まで物の怪がいたその場所を眉根を寄せて見つめていた。それから力を抜いて肩で息を吐くと、辺りに散らばっていたブランドのロゴが入った買い物袋をすべて拾い上げる。そしてくるりと体を反転させて俺をじっと見据えた。その瞳には先程の燃えるような怒りとは違う、静かな炎が宿っている。
 神野は視線を外さずに俺の元まで歩いてくると、少し顎を上げてから俺を見下ろした。俺は初めてみる神野の高圧的な態度に戸惑って、思わず神野から視線を逸らした。
 その様子をはらはらしながら見つめていた桜井が口を開いたのが横目で目に入った。
「あの、波多野君も無事で良かったですよね? それと、神野さんもありがとうございました」
 桜井はなんとかその場を繋ごうと一生懸命にそう言って、神野に丁寧にお辞儀をした。
 桜井の声につられて俺も神野へ視線を戻してみると、神野は桜井をちらりと見やっているところだった。
「私が波多野君に言われて神野さんのお家へ向かっている途中にね、神野さんが急いでこっちに走ってきてるところに出くわしたの。気配で波多野君が危険だってわかって、掛けつけようとしてくれてたのよ。だからこんなに早く戻って来れたの」
 桜井は今度は俺を見つめて、そう少し早口でまくしたて終えると、ふっと息を吐いた。声は明るい調子を装っているけれど、その瞳はおどおどとしている。
 その様子に俺は――桜井には申し訳ないけれど――気が抜けて、優しく微笑みかけると口を開く。けれどその前に、神野の声が響いた。
「帰りなさい」
 神野は桜井を淡々とした表情で見下ろしながら、短くそう言い渡す。
 その言葉の意味が分からなかったという様子で、桜井は神野へ視線を向けると、ぽかんとした表情で小さく首を傾げた。
「知らせに来てくれて助かった。けれど、君はもう帰りなさい」
 神野は言いながら手に持つ買い物袋を桜井にぐっと押し付けた。桜井は押し付けられた買い物袋を慌てて受け取ると、困惑気味で神野を見上げた。
「あの……」
「君は襲われない。だから安心して帰りなさい」
 桜井の言葉を遮るようにして、強い調子で神野はそう言う。それから桜井を気迫で圧すようにじっと見据えてから、問答無用とでも言わんばかりに踵を返した。――俺の腕を掴んで。
 神野に掴まれて引きずられるように歩き出した俺は、たった今し方目の前で起こったことに驚きを隠せずに、足をもつれさせながらも後ろを振り返る。すると桜井が呆然とした様子で、神野と俺を見つめているのが目に入った。その姿を見て胸が締め付けられた俺は、なんとか神野の腕を振り解こうともがいたけれど、思った以上に神野の力が強くて振り解くことはおろか、その腕を動かすことすらできなかった。
 そのまま引きずられるように角を曲がった俺の耳に、ばさりと買い物袋が地面に落ちる音が届いた。

 

 そのまま神野は屋敷の前まで俺を引っ張ると、門の中へ俺を放り投げるようにして入れる。その後に続いて自分が敷居を跨ぐと、固く門を閉じた。
 やっと神野から解放された俺は、腕をさすりながら神野をきつく見据えると口を開いた。
「助けてくれたのは感謝する。だけどさっきのはいくらなんでもひどいんじゃないか? あんな言い方ないし、もし桜井が――」
「小刀はあの子が持っていたのを見たが、霊符はどうした」
 神野は俺の言葉を遮るとそう問い掛ける。その言葉に俺は勢いをそがれて言葉を詰まらせると、神野は呆れた様子で溜め息を吐いた。
「前にも言ったはずだ。自分のことを疎かにするなと。それをよもや忘れたわけではないだろうな」
 神野は責めるでもなく淡々とそう言うと、懐から小刀を取り出して俺に見せた。
「小刀はあの子から受け取った。今から私の気を入れ直すから、屋敷の中で待っていなさい」
 神野の淡々とした言葉に、憤りが再び心の中に芽生える。
 どうして神野はこうも淡々としていられるんだ。もしかしたら、桜井は今にも襲われそうになっているかもしれないというのに。
 そう思うと、俺は再び神野を睨み据えて口を開いていた。
「どうしてそんなに冷静でいられるんだ? 桜井が一人で帰ってるところを物の怪に襲われたらどうするんだよ。桜井が襲われないっていう確たる証拠でも――」
「いいか、響」
 声を荒げて神野に突っかかる俺の言葉を遮って、神野は俺を見据えて低い声で言った。
「あの子は襲われない。絶対に、だ」
 神野は静かな炎をその瞳に灯して、静かな声でそう言う。その声の迫力に、出かかっていた言葉は舌の上で消える。神野を責める言葉をそのまま呑みこむと、神野はその瞳の炎を消し去って俺を見つめた。
「……どうして言い切れるんだよ」
 神野への怒りは驚くほどすんなりと治まったけれど、それでも納得がいかずに口を挟む。すると神野は静かな声で俺の問いに答えた。
「あの物の怪はお前を狙っていたからだ」
 何の迷いもなく神野はそう口にすると、すたすたと歩き出した。
 その言葉に驚いて、暫く歩き出した神野の後姿を見つめる。それからはっと我に返って、神野を追い掛けてその隣に並ぶと口を開いた。
 しかし、その前に神野が話し始めた。
「あの物の怪は、あの子ではなく最初からお前に目を付けていたのだろう」
「でも、それならどうして最初から俺を狙わなかったんだ? 桜井が神野を呼びに行って初めて、アイツは俺を見つけた様子だったのに」
「お前の目の前であの子を襲えば、お前はあの子を庇う。そしてあの子に私を呼びに行かせるだろう。そうしてお前を油断させるつもりだったのではないか」
 神野は俺を見ずに真っ直ぐ前を向いて、少し足早に歩きながら淡々とそう言った。
 その神野の言葉に、俺は思わず足を止める。
 それはつまり、計画的に俺を狙っていたということだろうか。桜井はフェイクで本当の狙いは俺だったということだろうか――。
 一瞬のうちにその考えが頭に瞬くと、次いでぼんやりとした頭の中で一つの考えが浮かび上がった。それは決して認めたくないものだけれど、この考えが正しいなら、微かな力しか持たない桜井がなぜ物の怪に襲われるのかという疑問が解ける。
 桜井と俺にはほとんど接点なんてなかったけれど、物の怪の中には頭が良いヤツもいる。何かのきっかけで、桜井と俺が知り合いだと知ることもあったのかもしれない。
 その証拠に、桜井は言っていたじゃないか。俺が桜井を助けたあの時、初めて物の怪に襲われたと。
 前を無言で歩く神野の後姿を見つめる。その背中はただ沈黙だけを纏っている。
 どうしてこんな簡単なことに気付けなかったのだろう。神野が桜井と俺の距離を遠ざけたがったのは、このことに気付いて桜井を守らなければならないと考えたからじゃないのか?
 桜井は、俺がいるから襲われるのだ。俺と知り合いだから、今は俺が片時も離れずその傍にいるから、桜井は襲われるのだ。俺を狙う物の怪に、俺を油断させる道具として桜井は使われている。
 ――桜井が物の怪に襲われる理由は、俺だ。

 

 

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