◆十七◆

 

 その日の夜も、その次の日にも、桜井は何度も俺へ電話を掛けてくれた。携帯のディスプレイに桜井の名前が表示されるたび、俺は携帯を枕の下へ押し込んでいた。
 桜井が俺を心配してくれているのは痛いほど伝わってきたけれど、俺は電話に出ることが出来なかったのだ。
 自分のせいで桜井を傷つけていると、そう気付いてしまったからにはもう桜井には近付けない。俺がいることで桜井は襲われてしまう。なら解決法は簡単だ。
 俺が桜井の傍から離れれば良いのだ。もし桜井に何か危険が迫れば、きっと神野が助けてくれるだろう。他人に頼るのは申し訳ないとは思うけれど、神野なら――と思う。神野は何だかんだ言いながら、桜井をずっと気にしていたのだから。
 枕の下から再び携帯が音楽を奏でる。そのメロディーを、俺は新たな決意を胸に聞いていた。

 

 

 朝、教室の前で見覚えのある姿を見て、俺の心は揺れ動いた。
 その顔が自分の方を向く前に咄嗟に顔を逸らして、彼女が自分に気付かないうちに教室の中へ入ってしまおうとドアへ手を掛ける。そしてドアを数センチスライドさせたところで、いつも隣で聞こえる明るい声が耳に入った。
「波多野君!」
 桜井はそう言うと小さく手を振りながら俺のところへ走り寄る。
 俺は桜井に気付かれないように溜めていた息をそっと吐いてドアから手を離すと、彼女を見てぎこちなく微笑んだ。
「おはよう」
「おはよう。ごめんね、朝早くから。何度か電話したんだけど繋がらなくて、それでちょっと心配になって」
 桜井はそう言うと、心配そうな表情を浮かべて続けた。
「あの後、大丈夫だった? 何もなかった?」
 桜井の真っ直ぐな視線に、俺は思わず目を逸らしてしまった。逸らしてからすぐにしまったと思ったけれど、もう取り返しもつかず、落ち着かずに空中へ視線を漂わせる。
「ああ、大丈夫だった」
 傍から見れば、挙動不審に見られてもおかしくないほど視線が定まらない。
 桜井が不思議そうな表情を浮かべているのが雰囲気で伝わってくるけれど、それでも俺の視線は桜井へは向かなかった。
「本当に?」
 桜井は俺と視線を合わせようとして、首を傾げて俺の顔を覗き込んだ。俺はそれを横目で見て小さく息を吐くと、意を決して桜井の顔へ視線を落とした。
「ああ、本当に」
 俺はそう言って微笑んだ。桜井は俺の固い笑顔を見て一瞬だけ眉根を寄せたけれど、すぐに思いなおした様子で微笑み返してくれた。
「ならいいの。ごめんね。なんか私だけ騒いじゃって」
 桜井は少し照れた様子で右手を振ってみせる。
 それを見て俺はまた心が揺らぎそうになったけれど、すぐにその考えを振り払って桜井をじっと見つめて切り出した。
「桜井。悪いんだけど、もう家まで送れない」
 俺はゆっくりと桜井の顔を見つめてそう言う。桜井から目を逸らさないように気をつけながら。
 そうしなければ、桜井に不信感を与えてしまう。何か勘ぐられて、俺の心配をされては困るのだ。桜井は俺から離れないといけない。だからこそ、毅然とした態度を取り繕って、桜井から俺を遠ざけなくてはならない。
「だからこれからは一人で帰ってくれる?」
 続けて俺がそう言うと、桜井は驚いた様子で目を軽く見開いたまま、黙って俺を見つめ返していた。その様子を見て取りながらも、俺は畳みかけるように言葉を続ける。
「守るなんて言い出したのは俺なのに、本当にごめん。でも、桜井はもう一人で帰っても大丈夫だと思うんだ。神野も言ってたんだけど、桜井はきっと襲われる心配はないだろうって。だから安心して――」
「わかった」
 途切れなく喋る俺の言葉を、桜井は目を伏せながら遮った。廊下へ視線を落としている桜井は固く口をつぐんだまま微動だにしない。
 俺は冷静を装ってその姿を見下ろす。胸が強く押しつぶされたような感覚が広がって、一瞬が永遠に思えた。
 それから暫くして桜井は顔を上げると、いつものように微笑んで、苦笑交じりに言葉を紡いだ。
「ごめんね。私ってば毎日送ってくれるのが大変だってこと忘れちゃってた。そうだよね、波多野君だっていろいろ忙しいのに、いつまでも甘えてたらだめだよね。なんか、私ったらほんと――」
 桜井の声はだんだんと小さくなっていって、最後は聞き取れなかった。
 それを見ると、また俺の心は望んでしまう。そして、これは自分自身の勝手な望みなのだと、このときはっきりと悟った。
 俺は桜井を守りたいんじゃない。ただ自分と同じ物の怪が見える人間だから、自分の心を本当に理解してくれる人間だから、彼女の傍にいたいだけなんだと。
 その気持ちに気付いて恥ずかしくなる。俺は自分の勝手なエゴを桜井に押し付けて、それで守った気になっていたなんて、なんて最低なんだろう。
 思わず顔を歪めた俺は、そのままその表情を消すことを忘れて桜井へ視線を移す。桜井は相変わらず苦笑を浮かべながら、けれど心配するような、寂しそうな、そんな気持ちが綯い交ぜになったような視線を俺へ向けていた。
「ごめん。じゃあ元気で」
 俺は桜井を見つめてそう言うと、すぐに視線を逸らして体を反転させる。それからドアを開けて教室の中へ滑り込むようにして入ると、そのまま後ろ手でドアをぴしゃりと閉めた。振り返って桜井の顔を見れば、どうしても出てきてしまうだろう言葉を封じ込めるように。
 この状況になってさえも、未だ湧きあがってくる「何かあれば言ってくれ」という無責任な言葉を、桜井へ伝えないように、決して外へ漏らさないように、俺はドアに軽くもたれかかりながら自分の心に固く蓋をした。

 

 

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