◆十五◆

 

 重い。
 そう心の中だけで呟いて、俺は両手の荷物を持ち直す。隣で軽やかに歩くのは、上機嫌な様子の桜井だ。どうやら桜井はここ一カ月強、外へ出掛けられなかったストレスを、今日一日ですっかり解消させたらしい。その代わり、俺がこうして荷物持ちをしているわけだけれど。
「ねえ、波多野君。次はどこに行く?」
 きらきらと輝く笑顔で、桜井は俺に問いかける。
 両手に大きな紙袋、しかもかなりの重さのあるそれを持って、疲労困憊の俺は、その桜井の言葉に心の中で溜め息を吐いた。桜井が悪魔に見えてくる。
「どこに行きたいんだ?」
 なるべく疲れを隠そうと試みた声は、結局失敗に終わる。ありありと疲れの色を映し出した俺の沈んだ声が、人気のない道に響いた。
 桜井はその声を聞くと、苦笑を浮かべて頭を振った。
「冗談だよ。さすがに疲れが見て取れる波多野君をこれ以上連れまわしたりしないよ」
 桜井はそう言うと、俺の手から荷物を取った。けれどほとんど反射的に、俺がその手から荷物を取り返す。
「良いよ、持つ」
「でも悪いよ。ずっと持ってくれてるし、それに私が買ったものなのに」
 桜井は困ったようにそう言うけれど、俺はそれを無視して荷物をしっかりと握った。これは母さんに(しつ)けられたおかげで、否応なく身に着いたものだ。小さい頃から母さんの買い物に付き合うとき、耳にタコができるぐらい聞かされた。
 ――響、女の子が重い荷物を持っていたらすぐに助けるのよ、と。それがしっかり体に染みついている俺は、桜井が次々に荷物を増やしていくのを見かねて、助けたというわけだった。
「今日はありがとう。すごく楽しかった。……と言っても、楽しかったのは私だけだったと思うんだけど」
 桜井はそう言うと、俺の顔を覗き込む。その表情は悪戯っぽく口元が緩められていた。
 俺はそれに思わず苦笑を浮かべて、桜井の顔から視線を外した。
「波多野君って優しいよね。今まではあんまりそう思ったことなかったんだけど」
「桜井って相変わらず直球だな。プラス剛速球」
「……それっていい意味じゃないよね?」
 桜井はそう言うところころと笑う。それを横目に見て、俺は小さく笑う。
 空気を満たすのは、平穏な一時。少し日が傾きかけた冬の午後に二人で歩いている、そんな平和な時間が流れている。
「そう言えば、そろそろ学期末試験だよね。もう私、憂鬱だよ」
 他愛もない話をしながら、まっすぐ桜井の家へ向かっている途中、桜井は思い出したようにぽんっと手を叩いてそう言った。その言葉に、学期末試験の存在を思い出した俺は視線を漂わせながら軽く返事をする。
「いいよね。波多野君って成績良さそうだし」
 俺が軽く受け流したのを不満に思ったらしい桜井は、俺を軽く睨みながら口を尖らせた。
「え? 別に俺、成績良くないけど」
「頭いい人ってそう言うんだよね」
「いや、そうでもないと思うよ」
 俺はある人を思い出しながらそう言う。その人は物凄く頭が良い。嫌味なほどだ。
 テスト前のある日、俺は試験勉強が面倒くさいとその人に話した。すると帰ってきた答えは「試験前に勉強する必要があるのか? そんなもの授業を聞いていれば満点取れるはずだ。たとえ授業を聞いていなくても、教科書を見れば十分だろう」だった。――その人というのは、御多聞に洩れず神野なわけだけれど。
「そうかなあ……。いや、やっぱりそんなことないと――」
 ぼんやりと神野のことを思い出しながら、桜井の言葉を耳に入れていた俺は、急に桜井の声が遠くなった気がした。
 ――何か変な気配がする。
 そう思いついて咄嗟に足を止めた俺は、辺りを探るように見渡す。
 桜井はなおも一人問答を続けていたけれど、俺が急に足を止めたことに気付いて自分も立ち止まった。それから不思議そうに首を傾げて俺を見つめる。
「波多野君?」
 桜井は俺に呼び掛けるけれど、その声さえ微かに耳に届いた程度だった。
 俺は必死でその気配を掴もうと集中するけれど、途切れ途切れに届くその気配は掴みどころがない。
 何メートルも離れた場所で気配がするかと思えば、次の瞬間には鼻先で気配がする。けれどその次の瞬間には気配がぱたりと消える。
 その繰り返しで混乱しだした頭を落ち着かせるように深呼吸する。そしておろおろとし出した桜井を見つめて、口を開いた。
「桜井、すぐにここから離れた方が良い」
 早足で歩き出しながらそう伝えると、桜井は怯えたような、それでいて毅然とした表情で頷いた。どうやら桜井も何かを感じているらしかった。
「波多野君、これは――」
 桜井が俺に追い付いてそう言いかけた時だった。
 桜井の頭が不自然に横に倒れて、それと同時に鈍い音が響く。
 何かに頭を強打されて桜井は小さく唸り声を上げると、今し方何かがぶち当たった頭を左手で抑えた。そしてそのままの勢いで倒れこみそうになった桜井を見て、俺は思わず両手に持っていた荷物を手放すと桜井の体を抱え込んだ。
「桜井!」
 桜井は腕の中で小さく唸ってから顔をしかめてゆっくりと目を開く。それから真っ青な顔で辺りをきょろきょろと見渡した。
「波多野君、今の何なの?」
 桜井は冷静さを失いかけながら、瞳を大きく開いて辺りを見渡す。そして、桜井はそのまま一点をじっと見つめると、見る見るうちに血の気が引いていった。桜井の視線の先を追って、俺もソレを見つけて眉根を寄せた。
 ソレは小さな子供の姿をしている。けれど子供であるはずがない。
 ソレの顔は緑っぽく、服から出ている首や手足も同様に緑色をしている。顔には狂気に満ちた歪んだ笑みを浮かべて、ただ桜井だけを見据えていた。
 物の怪だ。
 そう瞬時に判断した俺は、神野から渡されている小刀を取り出すと、それを桜井の冷え切った手に押し付けた。桜井は視線がはがせないようにその物の怪をじっと見つめたまま、けれど俺が押し付けた小刀を反射的に強く握りしめた。それを認めた俺は桜井の耳元に顔を寄せて小さく囁く。
「ここから神野の家まで走れば二、三分でたどり着ける。そこまで行って神野を呼んできて欲しい。それまでここは俺が何とかするから」
 俺の言葉を聞き終えると、桜井は顔面蒼白で俺へ視線を移した。それから深く頷くと、物の怪を視界に入れないように立ちあがって、よろけながら走り出した。
 物の怪は桜井が走り出したことに気付いて、風のように素早くその後を追うけれど、桜井が手にしている小刀の気配に気付いてぴたりと足を止める。その顔は憎らしいという感情をむき出しにした怒りに歪んでいた。
 物の怪は燃えるような目で走り去っていく桜井をじっと見つめたかと思うと、不意に振り返って俺を直と見据えた。
 それから暫く俺を値踏みするように上から下まで見ると、見る見るうちにその顔に狂気に歪んだ笑みが広がっていく。その様子を見て取って、俺はこの物の怪が俺の血に惹きつけられたことを理解した。
 この物の怪はいつも相手にしている低級とは違う。姿を見ればわかる、こいつは中級だ。中級ともなれば動きは素早く、霊符もタイミングを合わせて発動させなければ上手くあの世に送れないだろう。
 俺は手に汗を握るのを感じながら、物の怪から視線を外さずにじりじりと後退した。
 すると物の怪はその距離を詰めるように、同じようにじりじりと前進する。
 いつ飛びかかってきてもおかしくない距離だ。けれど霊符を発動させるには距離がある。タイミングを計りかねながらも、俺はポケットに手を突っ込んだ。
 そして全身から血の気が引いていく思いがする。
 霊符がない。ポケットの中で手をまさぐってみても、霊符が手に触れることはなかった。
 それから焦りを顔に出さないように、努めて冷静な表情を(つくろ)って頭をフル回転させる。そしてすぐに制服のポケットの中に入れっぱなしなのだと行きあたった。
 普段出掛けることがないのが仇になったらしい。今日出掛ける時、小刀は確認したけれど霊符にまで頭が回らず、入れ替えるのを忘れていたのだ。
 霊符はない。小刀も桜井が持っている。神野は恐らく数分でここに来てくれるだろうが、それまでは何としてでも自分一人で持ちこたえなければならない。ここで襲われて無残な姿を(さら)すわけにはいかない。
 そう思い俺は強く物の怪を睨みつけた。物の怪は楽しそうに笑いながらじりじりと距離を詰める。それからとんっと軽やかに俺との距離を一気に詰めると、俺を威すように満面の笑みを浮かべる。
 急に詰められた距離の分だけ俺も飛び退くと、心の中に陰惨な思いが渦巻くのが分かった。
 ――まるでなぶり殺しだ。しかも相手はそれを楽しんでいるときている。思わず心の中で毒づくと、物の怪はそれを聞き取ったかのようにさらに笑みを広げる。
 じりじりと睨みあうだけの攻防が続く。
 いっそ何か行動を取ってくれたら楽なのに、と思い出したその時、物の怪は狂気の笑みを浮かべて、軽やかにジャンプする。そのまま俺との距離を詰めると、鋭い牙をむき出しにして、俺の首元へ食らい付こうと飛び付いた。しかし次の瞬間、物の怪は緑色の顔を見る見るうちに青く変えて行き、一気に飛び退いた。
 そのまま首を噛まれると身構えていた俺は、いきなりの行動の転換に目を丸くして飛び退いた物の怪を見つめる。一体何事かと怯えた様子の物の怪を見据えていると、突然後ろから強い力で勢いよく腕を引かれた。
 その刹那、見えたのは見慣れた灰色の着物の袖と、見慣れない怒りの表情を浮かべた顔だった。

 

 

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