◆十四◆

 

「え?」
 神野の言葉に耳を疑うように、俺は思わず聞き返す。
「だから、当分仕事はない」
 あの後、頑張って誤魔化し続ける桜井に免じて「悪い意味ではなかった」ということで納得して、無事に桜井を家まで送り届けた俺は、その足で神野の屋敷までやってきていた。
 神野はいつもどおり飄々とした様子で俺の問いかけに返すと、マイペースに湯呑みを口元へ運び、茶請けの菓子に手を伸ばした。
「仕事はないって、つまり何も問題が起きてないってこと?」
 神野の言葉にいささか驚きながら俺がそう言うと、神野は桃山をゆっくりと頬張って呑みこんだ後、再び口を開いた。
「そうだ」
 神野は短くそう言った後、少し考えるように視線を空中に漂わせる。それから俺へ視線を移して口元を緩めると首を傾げて見せた。
「物足りないか?」
 神野が珍しく微笑んでいるのを見て、俺は少しどぎまぎしながら慌てて首を振った。
「最近は物の怪も大人しい。別段悪さもしない。――この状態に疑念の余地がないわけではないが」
 神野は俺がたじろぐ様子を横目に見ながら、先程まで浮かべていた笑みを消して、考え込むように顎に手をやる。
「疑念って?」
 神野の言葉にすかさずそう問いかけると、神野はゆっくりと目を伏せて湯呑みを口元まで運ぶ。
「そのままの意味だ」
 神野は短く答えると、顔を逸らして庭を見つめる。
 ――まただ。最近の神野はこうして答えをはぐらかす。俺に伝えられないことなのか、それとも俺に伝えても無駄だと判断したのか、それは分からないけれど、こういう態度を取られるとさすがに気分が悪い。こうして答えをはぐらかすのなら、わざわざ口に出して言わなければ良いのに、と思ってしまう。
 俺は眉間に皺を寄せながら、神野の横顔を見つめた。神野は俺の視線に気付いたのか、俺の方へ顔を向けると、先程と同じように首を傾げた。
「それでもお前は注意しなければならない。今、何事も起こっていないからといって、明日もそうだとは限らない。特にお前の場合は」
 神野はそう言うと、念を押す様にじっと俺の瞳を見据えた。
「分かっているな」
 神野は真剣な様子でそう言うと、小さく息を吐いてもう一度茶請けへ手を伸ばした。
 俺は神野の様子に気圧されて、神妙な顔つきで黙って首を縦に振る。
 神野と出会う前は、毎日と言っても過言ではないほど物の怪につきまとわれていた――つい最近では命も狙われたことがあったけれど――俺は、神野と出会ってからは全くと言って良いほど手を出されていない。けれどそれは、俺が神野の仕事を手伝ったり、神野の小刀や霊符をいつも肌身離さず持っているからであって、物の怪自体が大人しくなっていたわけではない。事実、俺につきまとわないでも物の怪たちは絶えずどこかで問題を起こしていたし、その処理に神野は奔走していたのだから。
 物の怪が大人しくなったということは、俺にとっては喜ばしい事態だ。面倒事が減るし、少なくとも今までよりも安心して過ごせる。
 けれど、それは本当に喜ばしいことなんだろうか。物の怪が何の理由もなく大人しくなるとは考えにくい。なら、この状況には何かしらの理由があるということになる。そして、神野の言う「疑念」とは、今俺が考えついたことと同じなんだろうか。
 俺が黙って考えに耽っていると、神野が唐突に口を開いた。
「響、あの子の様子で変わったことはないか」
 俺は神野の声にびくりとして体を硬くしてから、息を吐き出した。
「いきなり話しかけるなよ。びっくりする」
 俺は眉根を寄せてそう言うけれど、神野は全く気にした風もなくお茶を啜った。俺はその様子にさらに眉根を寄せて口を開く。
「俺にはあの日、桜井には深入りするなって言ったくせに」
「確かにお前にはそう言った。けれど私にとっては違う」
 神野は淡々とそう返すと、じっと俺を見つめて質問の答えを促した。それを見て深い溜め息を吐くと、俺はもう一度、固く閉じそうになる口をしぶしぶ開いて言葉を発する。
「別に、変わらないよ。特に問題なし。あの日以来、物の怪に襲われるってこともないみたいだし。――そう言えば神野から忠告を受けた日、桜井が変な気配を感じたって言ってた」
 俺が思い出してそう付け加えると、神野は思いっきり顔を歪めた。けれどもともとが端正な顔立ちということもあって、その顔は美しさを保ったままだった。
「変な気配とは、具体的にどういう気配だ?」
「さあ、詳しいことは俺も分からない。とにかく変な気配だって」
 神野の問いかけに俺が困ってそう答えると、神野はじっと俺の顔を見つめてから息を吐いた。
「お前に深入りするなと言っても無駄なようだな」
 神野は唐突にそう呟くと目を伏せて、小さな声で続ける。
「お前があの子を気にかけている理由を、私も理解しているつもりだ。もちろん、私とお前の立場は違う。だから全てを理解できるとは思わない。その点、あの子はお前とは?同士?だ。余計お前もあの子が気にかかるんだろう」
 神野はそう言うと、突然視線を上げて俺を強く見据える。その瞳は強い意志で塗り固まっていた。
「だが忘れるな。あの子はあの子だ。お前とは違う。お前ではない」
 神野は強い調子でそう言った。
 俺は突然放たれた言葉に呆然として、ぼんやりと神野を見つめ返す。神野の言葉の意味が分からなかった。
「お前はあの子の中に自分を見ている。自分と同じ物の怪が見える者として、そして自分と同じように苦しんできた者としてだけ、あの子を見ているのではない」
 呆然とした様子の俺に、ゆっくりと諭すように神野は続ける。その声は先程の強いものとは違って、どこか優しげだった。
「あの子に昔の自分を重ねている。誰にも理解されず、けれど誰も巻き込まないように必死で努力し、たった独りで物の怪と向き合っていた頃の自分を」
 神野はなおもゆっくりとそう言うと、少しの間沈黙して俺の言葉を待った。けれど俺が何も返せないでいるのを見て取ると、またゆっくりと口を開いた。
「あの子はお前ではない。お前とは違う。あの子が経験した苦しみは、お前のそれとは全くの別物だ。お前とあの子は全く別の人間なのだから」
 俺は神野の言葉に胸をえぐられるような衝撃を受けた。神野のストレートな言葉は、俺が知らず知らずのうちに、心の中でずっと考えていたことだった。
 物の怪がいると話して、一体何人の人がそれを信じてくれただろう。血の繋がった祖父母でさえ、俺を受け入れられずに見捨てたのに。誰も巻き込みたくないと独りで耐えていても、それを誰が気遣ってくれただろう。やっと見つけた理解者は、神野たった一人だったのに。
 どうして桜井と自分を重ねて見ることができたんだろう。桜井は違う。俺のように周りと壁を作って独りでいたわけではなかったのに。
 俺が知る限り、桜井はいつも笑顔で明るくて、たくさんの友達に囲まれていた。たとえ物の怪が見えたとしても、桜井はそれで周りとの接触を絶つことなどしていなかった。俺とは全然違うのに、どうして桜井は自分と同じだと押しつけがましく思ったのだろう。どうして、桜井も今までの俺のように辛いのだと、そう勝手に決め付けて押し付けることができたのだろう。
「お前があの子を気遣うのは分かる。だが、お前とあの子は別なのだとしっかり自分で理解しなさい。そして自分のことを(おろそ)かにしてはいけない」
 言葉を失って空中を見つめる俺に視線を送りながら神野はそう静かに言葉を締めると、労わるように初めて俺を優しく見つめた。

 

 

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