◆十◆

 

 目の前を大勢の人が遮って行く。俺はいつものように壁にもたれ掛かりながら、目の前のドアが開かれるのをひたすら待っている。
 桜井のクラスはホームルームが長い。他のクラスの生徒が校庭の門を通過する頃になって、やっと担任が締めの言葉に入るぐらいだった。さすがに最初は、早く終われと教室の中に佇む()のクラスの担任に念を送り続けていたものだったけれど、最近ではそれすらも忘れるほどにこの状況に慣れていた。ぼんやりと目の前を通り過ぎる人の波を見るともなしに見つめていると、なんとなく気持ちが落ち着くようになってきていたのだ。
 背を壁に預けて廊下に視線を落としていると、教室の中がざわめき出し、ホームルームの終了をドア越しにいる俺に告げる。それから間もなく教室のドアががらりと勢いよく開かれると、笑顔の桜井が俺の元へ走ってきた。
「ごめんね、波多野君。いつもいつも待たせてしまいまして」
 桜井はやや丁寧にそう言うと、俺を促して歩き始める。
「いや、桜井が謝ることじゃないだろ。それに待ってるの、別に嫌じゃないんだ」
 先に歩き始めた桜井を足早に追ってその隣に肩を並べると、俺は微笑みながら言う。すると桜井は少し驚いた様子を見せた後、すぐににっこりと笑顔を作った。
「うんうん。良い兆候だね」
 桜井は一人納得したように頷くと、前を見つめて歩き続ける。その歩調は心なしか弾んでいる。俺は首を傾げながらそれに続いて、笑顔を浮かべたままの桜井の横顔を見つめた。
「何が良い兆候なんだ?」
 純粋に疑問だけを映しだした俺の表情に、桜井は顔をほころばせて口を開く。
「だって、波多野君って前は人混みが嫌いだったでしょ? 私のクラスの授業が終わるのを廊下で待っているのだって、最初はすごく嫌じゃなかった?」
 桜井は俺の顔を見上げながら、ゆっくりと言葉を紡ぐ。その言葉は決して非難めかしたものではなくて、ただ淡々と桜井が思っていることを紡いでいるに他ならなかった。
「私、教室のドアを開けて真っ先に波多野君の顔が目に入るたび、思ってたの。波多野君が嫌そうな顔してるなって。だからこの表情が変われば良いのになって」
 桜井はそこまで言うと、にっこりと白い歯を見せて微笑んだ。俺は少々驚きながら、笑顔の桜井を見下ろした。失礼な話だけれど、桜井がそこまで観察眼に優れているとは思ってもみなかったのだ。にこにこ微笑む桜井の様子に、俺は心が温かくなるのと同時に、ちくりと痛むのを感じた。
「ありがとう」
 何と答えれば良いのか分からずに、ぼそぼそとお礼を呟くと、桜井は俺の顔を見上げてもう一度微笑んだ。
 こうして誰かに心配されることがありがたいことだと知ってはいたけれど、いざ温かい視線を向けられると戸惑ってしまう。誰も知らない俺の本当の心を、桜井には見透かされているような気がして、言いようのない感情に俺は目を伏せることしか出来なかった。

 

 

 いつものように桜井を家まで送り届けるために、二人でゆっくりと歩く。こういう時の話題は、昨日見たテレビだとか学校生活のことだとか、そういうありきたりなものだ。そして、大抵は桜井が楽しそうに話すのを俺が静かに聞いているという形が出来上がっていた。
「だからね、今日なんて大変だったんだよ」
 桜井は眉尻を下げながらふうっと息を吐くと、そう話を終えた。俺はそれまでうんうんと頷きながらその話に耳を傾けていたけれど、頭の中ではこの間の神野の言葉を思い返していた。あの日から、二日間ほど神野とは顔を合わせていない。
 桜井は俺が話半分に聞いていたことに気付くと、むすっとした表情を浮かべて肘で俺の脇腹を突いた。
「な、何?」
 突然脇腹に走った痛みに驚きながら、慌てて桜井へ視線を落とすと、桜井は不満そうな表情で俺を見上げていた。
「話、聞いてなかったでしょ?」
 不満げな表情とは正反対に、桜井は気遣うような声音で言葉を発した。俺はそれに申し訳なくなって小さく頷くと、ごめん、と呟く。すると桜井は吹っ切ったような表情を浮かべて、俺の顔を覗き込んだ。
「まあ、良いけどね。大した話でもなかったし。それよりも、何かあったの?」
 桜井はそう言うと、今度は聞く態勢に入って俺の言葉を待った。俺はじっと桜井の様子を確かめるように彼女の横顔を見つめると、小さくため息を吐いてから話し出す。
「神野のことなんだ」
 俺が神野の名前を出すと、桜井はやっぱりといった表情を浮かべる。それから一つ頷いて見せると、先を促す様に俺の顔を見上げた。
「この間、神野の仕事を手伝ったんだ。それで、その後に神野に言われたんだ」
 俺はそこまで話すと、言葉を切った。突然、桜井に話しても良いものか、判断がつかなくなってしまったのだ。
 桜井は続きが俺の口から出てこないことに、訝しげな表情を浮かべてちらりと俺を見やった。けれど俺はそれに気付かないふりをしてまっすぐ前を見つめる。
 神野に言われたことをそのまま桜井に話せば、桜井は不安になってしまうのではないか。俺自身、神野の言葉を理解しきれていないのに、今ここで桜井を不安がらせるわけにはいかなかった。
 そう思い立った俺は、今まで見せていた真剣な表情を拭い去り、力を抜いてにっこりと微笑んで見せた。
「神野がさ、俺も前よりは頼りになるようになったって」
 神野は口が裂けても、天と地がひっくり返っても、絶対にこの台詞は吐かないだろう。神野はそういう奴だ。俺は咄嗟に出た自分に対しての悲しい嘘を受け止めて、勝手に心を痛めた。それでも上辺だけの笑顔は崩さずに桜井を見つめる。
 すると桜井は、先程までのシリアスな雰囲気から一変した俺の様子に目を何度も瞬いた後、困ったように微笑んだ。明らかに答えに窮している様子だ。
「そう? 良かったね」
 桜井は数秒の沈黙の後、やっとのことでそう言い切ると、ほっと肩の力を抜いた。
「もう、波多野君がすごい真剣な表情してるから何事かと思ったよ」
 桜井は小さく笑いを堪えながらそう言って数歩進むと、俺が立ち止まったままなのに気付いて、さっと振り帰った。その顔は輝く笑顔に染まっている。
「私も頼りにしてるよ。波多野君」
 俺は桜井から出た言葉に思わず苦笑を浮かべると、止まっていた足を動かせて、少し前を歩く桜井と肩を並べて歩き出した。

 

 

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