◆九◆

 

 びゅんっと音が鳴ると同時に、俺のすぐ目の前を風が吹き抜ける。素早く動き回るソレは、自らが走り抜けた跡を残像として残しながら、俺が描いた術円の中から抜け出せずにただただ走り回っていた。
「響」
 突然真横で声がして勢いよく顔を上げると、神野がソレから決して目を離さずに少し首を傾げて俺に囁きかけていた。
「もう一匹を探せ」
 落ち着いた声で神野はそう命令すると、少し顎を上げて術円の中を走り回る物の怪を見つめた。俺はちらりと神野を確認してから、術円から目を離す。それから一つ深呼吸すると、双眼を閉じた。
 目を閉じると、まず視覚が消える。次いで聴覚が消え、嗅覚も感覚も消え去る。何もない無の状態で俺は辺り一帯を探る。
 しばらくの間そうしていると、不意に右側で何かがうごめく気配がした。それに反射的に瞳を見開くとその場所を見つめた。すると徐々にその場所から何かの姿が浮かび上がってくる。小さな丸い真っ青な何か。
 神野はそれに気付くと、姿を現した物の怪に近付く。物の怪は怯えたようにその場で動けずにいる。神野はその様子を気にも留めず、さっさと物の怪を術円の中へ追いやった。
 今、術円の中に物の怪が二匹。あるはずのない脱出場所を探して必死に走り回っていた。
 神野はその様子を淡々と見つめてから、小さな声でぶつぶつと術を呟くと右手で素早く空中に五芒星を描いた。すると空中に描かれた五芒星は白い光を発し、その光は閃光のように煌めいて一瞬にして辺り一帯を呑み込んだ。それとともに凄まじい勢いの突風が術円の辺りに突然前触れもなく吹き荒れる。その光と風に反射的に目を細めると、次の瞬間には、辺りは夜の静寂に包まれた闇の空間へと戻っていた。
 俺は素早く術円が描かれていた場所へ目を走らせる。けれどそこには、いつもどおりアスファルトの地面があっただけだった。存在感を放っていた術円が消えて、中で必死に走り回っていた二匹の物の化さえも消え去っていた。
「終わったのか?」
 目の前に広がるいつもどおりの風景にほっと溜め息を吐きながら、俺は神野を見上げる。神野は返事のかわりに軽く頷いて見せると、さっと踵を返した。
 今日の仕事は、物の怪同士のいざこざを収めるためのものだった。先程、術円の中を必死に走り回っていた二匹の物の怪は、簡単に言うと、派手に喧嘩をしながら、町のあちこちを壊してしまっていたのだ。電信柱とか、塀とか。
 神野はその情報を手に入れると、住民に被害が及んでいないことを確認して、二匹の物の怪をあの世へと送ることに決めた。神野の話によると、あの二匹は最低でも半年はこの世に戻ってこれないそうだ。神野曰く、あの程度なら人間に危害を加える勇気もないし、半年もすれば大人になってくだらないことで喧嘩しないだろう、とのことだった。――いつも思うんだけど、神野は割合適当に処置を決めていると思う。もしかしたら神野の中ではかなり吟味されてるのかもしれないけど。
 俺がそんなことを考えながら、苦笑を浮かべて神野の背中を見つめていると、不意にくるりと神野が振り返った。
「いつまでそこにいるつもりだ? 帰らないのか」
 神野は眉間に皺を寄せながら俺を促すと、また前を向いて歩き出した。俺は神野の言葉に我に返って、急いで神野の後を追った。

 

 

「最近、あの子の様子はどうだ」
 いつもどおり、仕事が終わった後に神野の屋敷へ寄って、お茶を啜っていた時だった。隣に座る神野が、思い出したようにそう呟いた。俺は横目で神野を確認すると、神野もいつもどおり池に映る夜空を見つめながら湯呑みをすっぽりと両手で包んでいて、何一つ普段と変わった様子はなかった。
「別に、変わらないけど」
 神野の口から桜井の話題が出たことに少々驚きながら、言葉短く答える。
 あの日、桜井をここまで連れてきて以来、神野は桜井の動向を一切気にした風を見せなかった。傍目から見れば、桜井の存在を失念していると言っても頷けるほどだったのだ。
「珍しいな。神野が桜井のことを気にするなんて」
 今度は神野の横顔をじっと見つめながらそう言う。口調に少し刺があるのは気のせいではない。それに気付いたのか、神野は面倒そうに俺へ視線をよこすと、深い溜め息をついた。その行動に俺は少しむっとして神野を見つめ続ける。
「あの子のこと、忘れていたわけじゃない。むしろ覚えていたし、気にもかけていた」
 神野は淡々とそう言うと、湯呑みを口元まで運ぶ。ゆったりとした動作は、気を緩ませると男の俺でも見惚れてしまいそうなほどだった。
「お前は信じないかもしれないが、私はあの子を気にかけている」
 神野はもう一度そう繰り返すと、俺の瞳をじっと見つめた。
「あの時、私が言ったことを覚えているか?」
「え? ……俺が桜井を守れって言ったこと?」
 突然の神野の質問に、なんだか試されているような気がして、俺は口ごもりながら答える。神野は俺のその様子には気にも留めず、俺の言葉にただ頷いた。
「あれを少し訂正する。何か事が起これば、すぐに私のところへ来なさい。自分一人であの子を守ろうとはするな」
 神野はじっと俺を見つめながらそう言い終えると、すぐに顔を背けた。俺はその神野の言動が理解できずにそっと首を傾げた。
 一体どういう意味だろう。俺では桜井を守りきれないっていうことだろうか。それぐらい俺の力が弱いとか? それとも俺では手に負えないほどの物の怪との問題を桜井が抱えているとか……?
 頭の中でいろいろな考えが浮かんでは消え、また浮かんでは消えていく。俺は空を見上げた神野の横顔を見つめながら、ただただ神野の言動の意味を探っていた。

 

 

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