今日は何とか無事に終わりそうだ。でも明日はどうなるのだろう。明日から本格的に、ヤーコの「無計画な人間征服」が始まるのだろうか。もし万が一、あんな考えなしに人間が征服されたとしたら、この星は破滅の一途を辿るだろう。僕の頭に、確信に満ちたそんな考えがちらついた。
 僕はため息と一緒にその考えを吐き捨てて、風呂からあがる。タオルで髪と体を拭いて、Tシャツとジャージを身に付ける。暫くドライヤーで髪を乾かすか悩んだあと、結局面倒くさくなってやめることにした。タオルを洗濯かごに放り投げて無事に入ったことを確認してから、洗面所のドアをスライドした。
「遅いぞ!」
 ドアの真ん前でヤーコが着替えを抱えて腕組みしながら、仁王立ちで立っている。ドアを開けたとたんにヤーコの迫力あるしかめっ面が目に入ったので、僕もさすがに驚いて身体をびくりとさせてしまった。
「な、何? こんなドアの真ん前で待つのやめてよ」
「遅い! 私はもう優に十五分はここで待っていたぞ!」
「普通廊下で待たないでしょ……」
「では押し入ってもよかったのか?」
「いや、それは絶対ダメだけど。入ってきたら本気で通報するけど」
 真顔のヤーコに僕も真顔で返す。どうやらかなりご立腹な様子だった。
「ワタシは風呂が好きなのだ。そのワタシの風呂を横取りしたのだぞ、ヒナタは」
「お風呂って横取りできるものじゃないからね」
 冷静に僕が返すと、ヤーコは言葉に詰まったのか、むっとした様子で「とにかく!」と言った。
「そこをどけ。ワタシは風呂に入る」
「まずヤーコがそこをどいてくれないと、僕もここから出られないんだけど」
「むぅ。ああ言えばこう言う……」
 それはこっちの台詞だ。
 僕は思いながら、一向に退こうとしないヤーコを見て、仕方なく三歩後退してヤーコが洗面所に入れるようにしてあげた。ヤーコはそれに気を良くしたのか、にっこりと笑顔を浮かべて、まるでスキップするように洗面所に入る。
 僕は廊下に出て後ろ手でドアを閉めた。
 それからふと気付く。ヤーコの言っている「風呂」と、僕が入ってきた「風呂」は果たして同じものだろうか。
 僕は回れ右してドアに手をかけてから、そこで思い留まった。もう脱衣していたら困る。僕の方こそ通報されてしまう。仕方なく僕は廊下からヤーコに呼び掛けた。
「ヤーコ、そこにいる?」
 何の返事もない。もう中に入ってしまったのかもしれない、と思った僕は少しヤーコを心配してから踵を返した。
「なんだ? 呼んだか?」
 廊下を数歩歩いたところで、洗面所から声が聞こえてきた。僕は振り返ってから引き返す。自分から声をかけたくせに、確かめること自体がもう面倒になっていた。
「ごめん、引き止めて。あのさ、ヤーコの星のお風呂とこの星のお風呂って同じなの?」
 僕が訊ねると、ヤーコの唸り声が微かに届いた。
「見たところ、違うようだ」
 どうやらヤーコは風呂の扉を開けて、じっと中を観察しているようだった。
「ワタシの知っている風呂は、こんなにモワモワしていない」
 ヤーコはしょげたように言う。「モワモワ」とは湯気のことだろうか。
「まあ、違って当然だろうね」
 僕は少し可哀想になって、優しく諭すように言っていた。
「でも機能は一緒なんじゃない? 風呂っていうくらいだから、体の汚れを落としたりとかってことでしょ?」
「うむ。ワタシの知る風呂の機能はまさしくそれだ。では、この星の風呂もそうなのか?」
「うん」
 僕が手短に答えると、次に聞こえたのはヤーコの嬉しそうな声だった。
「それなら安心だ。ワタシはなんせ丸三日、風呂に入っていないのだからな」
 僕はヤーコの台詞に思わず頬を引き攣らせた。仕方がないことだとは分かっている。分かっているけど、気持ちがついていかないというあれだ。
 でも改めて思い返してみても、ネコ姿のときも人間の姿のときも、ヤーコはまったく不潔そうには見えなかった。もしかすると、違う星の生物だから人間と同じようには汚れないのかもしれない。
「そう。じゃ、ゆっくり入っておいで」
 あまり引き止めておくのもヤーコに悪いだろう。僕はそう言葉をかけるとリビングへ引き返した。
 ドアを開けると、キッチンで母さんが果物を切り、ダイニングテーブルでは父さんが新聞を黙々と読んでいた。青葉はというと、ソファに座って夢中でバラエティ番組に見入っているところだった。僕もソファに腰をおろして、暗示にかけられている以外におかしなところはないか、それとなく青葉を注視する。
 青葉は僕の視線に気が付いたのか、テレビから視線を外して不思議そうな顔で僕を見た。
「なぁに?」
 屈託のない顔で改めて質問されると困るということをこのときに学んだ。
「ううん。別に何でもない」
「そう? でもお兄ちゃん。今日は何か変だよ。本当に何かあったの?」
 何かあったことに気が付いていないのは青葉の方なんだけど。という言葉は何とか飲み込んだ。
「別に。ほんとに何でもないよ」
「ふぅん? だったらいいんだけど」
 青葉はそれでも納得いかなそうに眉をひそめた。それから僕の頭を見つめて、眉間のしわを深くする。
「あっ! お兄ちゃんってばまた髪乾かしてない! 毎日あれほど言ってるのにー」
 青葉は僕の濡れたままの髪を軽く引っ張った。
「どうせ癖っ毛だし。乾かしても乾かさなくても明日の朝起きたら同じになってる」
「いつもそう言うけど、全然違うんだからね? ちゃんと乾かせば少しはマシになるんだから。それに濡れたままだと髪によくないんだよ!」
「その情報、どこで手に入れたの」
「テレビ」
 このテレビっ子め。
 テレビで見たことをそのまま鵜呑みにしてしまうのが青葉の特徴だった。
「それにお兄ちゃんの癖っ毛はすごく緩い癖っ毛じゃない。ちゃんと乾かせばそれなりにパーマかけたみたいになるんだから、ちゃんとすべきだよ」
「パーマかけたみたいになってもね……」
「なぁに? 青葉の言うことに不満でもあるの?」
 青葉は偉そうに言うと、僕の髪をばさばさと撫でた。濡れた髪がばしばしと顔に当たって痛い。されるがままになっていた僕も、さすがに耐え切れなくなって身を引いた。
「青葉ね、ずっと不思議に思ってることがあるんだけど」
「何?」
「どうして癖っ毛って水に濡れると真っ直ぐになるの?」
「そんなの僕が答えを知ってるとでも?」
「えー。癖っ毛のくせに知らないの?」
 何という言いがかりだろう。
 非難めかして言う青葉に呆れた視線を投げかける。
「知らないよ。じゃあ聞くけど、どうしてストレートの人は濡れてなくてもストレートなの?」
「そんなの青葉が知ってるわけないでしょ」
 ストレートの髪を揺らしながら青葉が答えた。
「その理由と一緒でしょうが」
 僕は唇を尖らせている青葉を軽く見て言った。
 まったく、現代の小四女子は面倒くさい。……それでも妹を可愛いと思ってしまうのは、血のせいだ。まったくもってそれ以外の理由はないと僕は思う。

 

 

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