2. 約束


「セイコ、おかわり!」
 ヤーコは勢いよく客用の茶碗を天高く掲げた。
「はいはい。ヤーコちゃんはよく食べるのねぇ」
 呑気に、セイコと呼ばれた母さんが差し出された茶碗を受け取って立ち上がる。僕はそれを横目に見て、思い切り眉をひそめた。
 おかしい。おかしすぎる。
 我が家の食卓に、通常なら有り得ない第5の人物がいるというのに、誰もおかしいと思わないなんて、おかしすぎる。
 これが暗示の力なのか、と僕は力なく思う。
「なんだ、ヒナタ。何か言いたいことがあるなら言えよ? 溜め込むのはよくないぞ」
 僕を見てヤーコが能天気に言う。誰のせいで言いたいことがあるのか、ヤーコには分かっていないらしい。
 ヤーコに昨日の晩御飯の残りを持って行ったあと、ヤーコは突然元気を取り戻して意気揚々と階下へ下りていった。そして母・聖子と妹・青葉を前にして、暗示とやらをかけたのだ。僕には一瞬、何が起こったのかよく分からなかったけど、気がついたときには母も妹もヤーコをすっかり受け入れていたというわけだ。ちなみに、父・(ケン)が帰ってきたときにもヤーコは同様のことをして、すっかり松ノ杜家の一員のようになっていた。
「ヤーコちゃん、どんどん食べてね。たくさんあるから」
 母さんは言いながら、一杯にご飯を盛った茶碗をヤーコに渡す。
「うむ。ワタシは今、腹が減っているからな。言われずとも食べるぞ」
 ヤーコはご機嫌に、にこにこと満面の笑みを浮かべている。
 ヤーコの箸が進むのに比例して、僕の箸は進まなくなる。
 いとも簡単に訳の分からないちょっと頭の抜けた地球外生命体に暗示をかけられてしまった家族を思うと、僕はいたたまれなくなった。こんなことなら僕にも暗示をかけてくれればよかったものを、と心底思う。
「お兄ちゃん、どしたの? 食欲ないの?」
 ヤーコの華麗な箸さばきが踊る隣で、青葉が不思議そうに首を傾げた。
 それを見た僕は、罪悪感にまみれる。
 お兄ちゃんが不甲斐なくてごめん。非日常の極致のような状態に巻き込んでごめん。……いや、もとはといえば青葉がヤーコ(黒ネコの姿のとき)を拾ってきたのだった。いやいや。もっとよく考えれば、そんな捨てネコのような姿で街を歩いていたヤーコが悪いのだ。そんなところを青葉が見かければ、拾わずにはいられなくなるのだから。……自分でもあまりに妹贔屓の考えだとは思うけど。
「アオバの言うとおりだぞ。ヒナタ、食欲がないのか?」
 誰のせいで食欲がないのか、ヤーコはまたしても分かっていないらしい。
「もしかして病気か? ケン! ヒナタが大変だ!」
「疲れでも溜まったのか? 大丈夫か?」
 ヤーコの心配そうな声を受けて、父さんが言う。父さんも母さんも、ヤーコに呼び捨てにされても気を悪くしないのだろうか? まったく、僕の方が気になってしまうじゃないか。
「別に病気じゃないよ。ただちょっと食欲がないだけ」
「食欲がないということは病気じゃないか!」
「どういう方程式なの、それ」
 ヤーコの断言に僕はすかさず返す。
「じゃあ何か嫌なことでもあったの? じゃなくちゃ食欲ないなんてことにならないよね?」
 青葉は聡く言った。こういうところの洞察力の鋭さは、僕も負けてしまう気がする。
「いや……うん」
「はっきりしないヤツだなぁ。結局どっちなのだ?」
「嫌なことがあったけど逃れられなくてため息、って気分だよ」
 僕が言うと、ヤーコは不敵ににやりと笑んだ。
「どうした、日向。学校で何かあったのか?」
 父さんが心配そうに僕を覗き込む。僕はすぐに頭を振って、じっとヤーコを見つめた。
「学校はいつもどおりだけどね」
 暗に「ヤーコがいることが、いつもどおりじゃない」ということを匂わせてみるけど、暗示にかけられた状態の家族にはまったく伝わらない。結果、
「ヤーコちゃんと喧嘩でもしたの?」
 という青葉の的外れな台詞が返ってきてしまった。
 僕はこれ以上抵抗を試みても無駄だと判断して、席を立つ。ヤーコの豪快な食べっぷりを見ていただけで、なんだか十分お腹が一杯になってしまっていた。
「あら? もういいの?」
「うん。もうお腹いっぱい。お風呂入ってくるよ」
「風呂! この星にもあるのか!」
 僕の言葉を聞くや否や、ヤーコは嬉しそうに言った。
「ワタシも! ワタシも入る!」
「はいはい。僕が入ったあとでね」
 僕は軽く流してヤーコを席に無理やり座らせると、ダイニングを後にした。背中に「ずるいぞヒナタ! 一番風呂をワタシから奪うなんて!」というヤーコの不満たらたらな台詞を浴びせられながら。
 真っ直ぐ洗面所に向かいながら、僕は深く息を吐き出した。
 本当に厄介なことになってしまった。まさか自分がこんな非日常な事態に巻き込まれることになるなんて。
 ヤーコは人間を征服する、なんて物騒なことを言っていたけど、具体的に何をするつもりなんだろう? 夕方に訊ねたときには、具体的な計画も勝算も何もないようだったけど。
 でもヤーコには暗示能力がある。僕の家族に暗示をかけたのと同じように、世界中の人に暗示をかけていけば、人間征服も夢じゃないかもしれない。ただし、かなりの労力と時間を要するけど。
 僕は服を脱いで風呂に入ると、手早く頭、顔、体の順に洗っていく。普段ならシャワーだけで済ませるけど、今日は精神的にどっと疲れがきていることを考慮して、湯船にゆっくり浸かることにした。
 思い切り手足を伸ばして暖かいお湯に肩まで浸かる。ほっと安心したのと同時に、少しだけ疲れが癒された気がした。

 

 

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