13


 目を覚まして、自分の部屋の天井を見上げる。
 綾人が事故に遭うのは、今日。それが無事に回避されれば、新しい未来が築かれることになる。
 そっと手をかざしてみて、私は思った。
 これが私の最後の日になるだろうな、と――。

 

§
 

 いつもと変わらない朝食の風景。父も母もいつもどおりだ。何も変わったところはない。
「綾加。どうした? そんなに人の顔をじろじろ見て」
 父は苦笑を浮かべて私を見た。その隣の母に視線を移してみると、母も父と同じように困ったように笑っていた。
「え? あぁ……」
 私は言葉を濁してそう言ってから、思い直して両親の顔を真っ直ぐ見つめた。
「あのさ――」
 綾人に言ったの。死なないで、と。だから未来は変わる。そうすれば私は消える――。
 そう頭の中で繰り返すように考えて、それから私は首を振った。
「何でもない」
 不思議そうな表情の両親を真っ直ぐ見つめて、私は微笑んでそう言った。

 

§
 

「ごめんね、綾加。私は役員会議あるから」
 美菜は申し訳なさそうにそう言う。
「しょっちゅう役員会議あるんだねー。まあ、頑張って」
 美菜の顔に向かって私はいつもどおり笑って、忙しなく走っていく美菜の背中を見送った。
 小さく溜め息を零してから、ペンケースとルーズリーフを鞄にしまう。それからゆっくりと席を立って、歩き出した。
 久々に部活に顔を出そうか、と考えながら廊下を歩く。授業が終わったばかりの廊下は活気があって、これから部活に向かう生徒や帰宅する生徒、帰りの挨拶を告げる教師で埋め尽くされている。
 その中を上手くすり抜けて、歩を進める。ずっと避けてきた「初恋」というテーマに、今なら臨むことができる。もちろん、書き終えられるかどうかは別問題だけれど。
 階段を上って四階に出る。四階は通常教室がないためか、先程までのざわめきは一切ない。突然静かになった廊下に、私の足音だけが響く。
 授業が終わったばかりのこの時間に部室へ行っても、まだ朝倉先生は来ていないだろう。鞄を肩に掛け直して、窓の外に広がる空を少し見上げる。それは美しく晴れ渡る青空だった。
 ぼんやりとしながら窓の外を眺めていると、ふと教室の中から物音が聞こえた。反射的に足を止めて、ドアの上にかかるプレートの文字を読む。
「美術準備室」
 小さく声に出してみる。
 この時間に準備室から物音がするということは、美術部員だろうか。
 そう考えてすぐに綾人を思い出す。綾人がコンクールで銀賞を取ったこと。そして次のコンクールのために絵を描きに出掛けて事故に遭ったこと。
 1987年の姫治西高の生徒、綾人は素晴らしい絵を描いていただろう。それなら2010年の美術部員は、一体どんな絵を描いているのだろう?
 私は足音を立てないように注意しながらドアの前に立つ。準備室の中にいる人も、そして私も悪いことはしていないのに、なぜだか相手に気づかれたくなかった。こんなに人気がない中で、目が合ったりしたら気まずくてやっていられない。
 それなら覗き見なんてしなければいいだけのことだ――と自分で思いながらも、そっと中を覗いてみた。
 決して広いとは言えない準備室の中に、古びた絵が飾ってある。その絵をどこかで見たような気がして、そうしてすぐに思い出す。
 三人で写っていた写真。表彰状を持つ綾人の後ろ、そこに飾られていた絵――。
「あの絵っ!」
 思わず口に出してドアを開ける。大きな音を立てて開いたドアに、広がる視界。隔てるものなく目に入ってきた綾人の絵。
 そして続けて視界に入ってきたのは、驚いて私を振り返る一人の男の子の姿だった。
 彼の姿を捉えた瞬間、綾人の絵を見つけた時よりも激しい衝撃が脳天から爪先まで一気に駆け巡った。
 高い身長に、すらりと均等の取れた身体つき。艶のある黒髪、すっと通った鼻筋に形のよい唇。柔らかな印象の瞳に長い睫毛が影を落としているその様は、独特な中性的な美を醸し出している。
 そしてその美しさは、何度も写真で見た、あの切ない美しさとそっくり同じだった。
 綾人。
 そう言葉をかけそうになって、私は慌てて唇を結ぶ。
 綾人は1987年に17歳だった。今、私の目の前にいる男の子が、綾人のはずがない。
 呆然として彼を見つめていると、向こうも同じように私を見つめて呆然としていた。
 時計の針の音が部屋に響く。じっと息を呑んで彼から目を逸らせないでいると、彼の方が先に動いた。
 びくりと身構えた私に、彼は一枚の絵を差し出して見せた。固い表情のままその絵に目を落として、私は再び固まった。
 彼が持つキャンバスに描かれていたのは、私だった。
 いや、もしかしたら清加≠セったのかもしれない。けれど母にしてはそぐわない印象がある。
 綺麗な長い髪の女の子、その子の顔立ち。それは間違いなく母が高校生の頃の姿だ。けれど彼女の活発そうなその笑顔は、母というよりは父に似ていて――そう。それは、私の姿とそっくりだった。
 着ているものも制服には違いないけれど、それは1987年のセーラー服ではない。かといって2010年のブレザーとまったく同じモデルでもない。ただ、彼女が着ているのはブレザーで間違いはなかった。首元には大きなリボンがある、特徴的なブレザー。
「ねえ」
 彼は私に絵を差し出しながら、少し首を傾げた。その声が、綾人とそっくり同じだった。
「もしかして、君が絵のモデル?」
 確かめるようにそう言う彼に、私は何と答えればいいのか分からなくてただ黙っていた。
「いや……そんなわけないよね。この絵が描かれたのは1987年なんだし」
 彼は私が答えずにいるのにも気を悪くせずに、優しく微笑んで納得したように頷く。その姿に、私は堪らずぎゅっとスカートの裾を握った。
「その絵……」
 小さな声で呟く。すると彼は「この絵?」と言って、顔の高さにまで掲げて見せた。私は真っ直ぐ絵を見つめて頷く。
「その絵、いつ描かれたのか分かる? 1987年の、いつだったか」
 まるで懇願するように私が言うと、彼は黙ってキャンパスを裏返す。汚れがついていたのかそっと手で擦って、彼は目を細めた。
「えっとね――1987年7月12日。全国の美術コンクールで金賞を受賞した作品なんだよ。タイトルは未来=v
 彼はそう言うと目を上げて、にっこりと微笑んだ。その笑顔が懐かしくて、そして新鮮で、私もつられて微笑んだ。
「ねえ。もしかして君のお母さんって、この高校の出身者じゃない?」
 絵を大切そうに机に戻しながら、ふと何かに気がついた様子で彼がそう言った。私はその声に我に返って、的確な指摘に目を白黒させた。
「何で?」
「だって、やっぱりどう見てもこの絵のモデルにそっくりだし」
 彼は当然のことのようにそう言う。私はそっと眉をひそめた。
「そう、だけど。……何で?」
 もしかして――そんな言葉が頭を過る。
 いや、出来過ぎている。そんなわけ、あるはずがない。
 自分で作りだした疑問に、自分で否定する。けれど彼はそんな私の否定を打ち砕いてしまった。
「僕の父親ね、この高校の出身者だったんだ。だから、もしかしたら君のお母さんと知り合いだったのかもしれないって思って」
 彼はそう言うと「あっ」と小さく呟いて付け足した。
「この絵を描いたのは僕の父親なんだ。あの絵も――」
 彼は言いながら準備室に飾られている、綾人の絵を指差した。銀賞を受賞した、あの絵を。
「父さんが描いたんだ」
 そして誇らしげに微笑む。
 1987年7月12日――綾人、あなたはその日、生きていた。あなたはその日、絵を完成させた。それが知れただけで、私は満足だ。
 けれどそうなると疑問が残る。どうして、私は生きているの?
「来週から僕、ここに転入するんだ。時期外れなんだけどね。父さんが地元に戻りたいなって言いだして、いい機会だからもう家族で戻ろうっていうことになって」
 彼は私を見つめながらゆっくりとそう告げた。そう言われてみて初めて、彼が制服を着ていないことに気がついた。
「制服、まだできてないの?」
「あぁ……やっぱり着てこなくちゃ駄目かな……でもまだ仕立てが終わってなくて。明日できる予定なんだけど、今日こっちに着いたから早く高校見学してみたくて」
 少し困ったように微笑みながら、彼は頭を掻く。その姿は、何度も思い描いた綾人とそっくりだ。
「何年生に転入するの?」
 私は何となく答えを予感しながら訊ねる。彼は私に一歩近づいて距離を埋めた。
「2年生。君は何年生?」
 私も彼に一歩近づいて、距離を埋める。
「私も2年生――2年D組」
 私が言うと、彼は少し首を傾げて顔立ちの美しさが際立つ笑みを浮かべた。
「僕もその組に転入できるといいな。友達が既に一人できたし」
 そう言って笑う彼は、もう綾人とは違う人に見えた。
 そう、彼は綾人ではない。綾人は生きている。母への想いを、きっと私のために捨てて。私が消えないように、きっと彼は自分の気持ちに蓋をして――そうして、私の願いを叶えてくれた。生きて欲しいという、願いを。
 切なく痛む胸に、私は小さく息を吐き出した。彼はそれに気がついたのか、優しく慰めるような声で言葉を紡ぐ。
「名前、聞いてもいい?」
 目を上げて彼を見上げると、私は小さく笑って見せた。
「保城綾加」
 彼は私の答えにまるで満足したように笑って、私に向かって手を差し出した。私がその手を取ると、彼は安心したように優しく目を細めた。
「僕は奥見優人(ゆうと)

 

 

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