12


 6月22日、火曜日。
 綾人に事故のことを忠告するチャンスは、今日しか残されていない。けれど昨日の今日だ。綾人が電話をかけてきてくれるという保証はない。
 そわそわしながら、時計が22時30分を差すのを待つ。ベッドに倒れ込んでみたり、音楽を聴いたりしてみるけれど、どれも気を逸らせるには不十分だった。
 結局私はクローゼットを開けて、父が残していったアルバムを引っ張り出した。父と母と綾人のアルバムを。
 ページを捲る度に出てくるのは、楽しそうな三人の写真ばかり。綾人の綺麗な顔立ちに浮かぶ笑顔が、眩しかった。この笑顔を、近くで見てみたかった。綾人に触れてみたかった。
 そっとアルバムを閉じて、目を閉じる。
 信じている。綾人が死ぬという運命の方が間違っていたのだと。
 信じている。私がここにいる現実の方が間違っているのだと。
 だから綾人。電話をかけてきて。もう二度とあなたの声を聞けなくなっても、構わないから。
 そっと目を開けた途端、携帯が鳴り始める。時計を確認すると、22時30分を差している。携帯を手に取ってディスプレイを見ると「番号通知不可能」の表示がされていた。
 通話ボタンを押して、そっと耳に携帯を当てる。綾人の小さな息遣いが聞こえた。
「もしもし、綾人」
『もしもし、綾加? 綾人です』
 いつもどおりの丁寧な挨拶に、受話器を持って律義に頭を下げる綾人が頭に浮かんだ。
『綾加。今日は一言だけ伝えたくて、電話したんだ』
 冷たくはないけれど感情が籠っていないような、淡々とした声で綾人が言った。そんな声を初めて聞いた私は、驚いて一瞬息を呑んだ。
『もう、電話はかけないよ。今日で最後にする』
 綾人の決心したような声に、私は頷くことしかできなかった。
『それだけ伝えたくて電話したんだ――じゃあ』
 そう言って綾人は電話を切ろうとする。私は我に返ってぎゅっと強く携帯を握った。
「待って、綾人!」
 大声を出して引き止める。そのまま電話が切れてしまうかもしれないと覚悟しながら息を凝らして待っていると、暫くして綾人の息遣いが戻ってきた。それにほっとして胸を撫で下ろしてから、私は携帯を持ち直した。
「綾人、お願い。もう電話しなくてもいい。明日からはもう、綾人の電話を待たないから……だから最後に、私の話を聞いて。私の言うことを聞いて、お願い」
 切望を声に乗せて、話す。綾人は小さく息を吐いた。
『……分かった。どうしたの? 綾加』
 優しい綾人の声。ぎゅっと左手で拳を作って目を瞑る。
 今日が最後のチャンスだ。これに懸けるしかない。
 そう自分に言い聞かせて、そして自分を奮い立たせながら、私は口を開いた。
「綾人にお願いがあるの。明日――1987年の6月23日に、学校から帰ったら、どこにも出掛けないで」
 震えないように気をつけながら、ゆっくりと告げる。綾人は受話器の向こうで黙ったままだった。
「お願い。最後に私のお願いを、聞いて」
 綾人にそんな義理がないことは分かっている。けれど、どうしても聞き入れてもらいたい願いだ。
『どうしていきなりそんなこと……』
 綾人は少し戸惑った様子でそう呟いた。私は自分に向かってひとつ頷いて、もう一度自分を奮い立たせた。
「綾人は今、コンクール用の絵を描いてるでしょ?」
『え、うん』
 訊ねると、たどたどしく綾人は答える。どうして私がそんなことを知っているのか分からないという声だった。
「その絵を描きに、明日出掛けるつもりだったでしょ?」
『うん』
「出掛けないで」
『……どうして?』
 純粋な疑問だけを乗せた声に、涙が滲む。その涙が零れる前に拭って、私は真っ直ぐ前を見つめた。
「私、綾人に嘘吐いたの」
 私が静かにそう言うと、綾人は『うん』とだけ答えた。
「綾人は、1988年の卒業アルバムに、載ってなかった」
 続けてそう言うと、綾人は今度は何も答えなかった。
「載ってたのは保城優也と笠波清加の二人だけで、もう一人の親友は載ってなかった」
『うん』
 少しずつしか話せない私に、綾人は優しく促すように言った。きっと、私がこれから何を話すのか、勘の鋭い綾人は気がついているだろうに。
「両親に訊いたの。そしたらこう言ってた。綾人は1987年の6月23日に、学校から帰ったあと次のコンクール用の絵を描きに出掛けて、そこで交通事故に遭ったって」
『……うん』
「綾人はそのときに、死んだって、聞いたの」
 途切れ途切れにそう言うと、涙がどっと溢れた。鼻を啜って嗚咽を堪えていると、綾人がもう一度『うん』と言ったのが聞こえた。
「だから、お願い……私から、一生のお願い――綾人。死なないで」
 願いを込めて告げる言葉。
 父は私を恨むだろうか――。そう自問してみて、すぐに否定する。
 父はきっと、綾人が生きていてくれたならいいと思ってくれる。そう考えるのは私の独りよがりだろうか。でもなぜか確信できた。父は綾人と母なら、きっと祝福するだろうと。
 息が詰まりそうな沈黙の中、じっと綾人の言葉を待つ。綾人は小さく呼吸を繰り返して、やがて言った。
『綾加は、それでいいの?』
 とても淡々とした言葉。
 綾人の言いたい意味を量りかねて、私は身じろぎせずに次の言葉を待った。
『僕は死ぬ運命なんだと思うんだ。それなのに僕がこのまま生き続けてしまったら、未来が変わるかもしれない』
「うん。分かってる」
『僕は清加に想いを告げずに死んだんだ。それなのに僕がこのまま生き続けたら、清加に想いを告げる日が来るかもしれない』
「それも分かってる」
『清加が僕の想いに応えてくれるって思っているわけじゃないよ。でも、きっと何かが変わる。何かが――壊れてしまう』
「そうかもしれない」
『そうなると、綾加。君はもしかしたら……』
「消えてしまうかもしれない?」
 綾人が言えなかった台詞を代わりに言う。すると綾人は躊躇った様子で『うん』と小さく呟いた。
 こんな時まで、私を気遣ってくれるのか。綾人の方が、絶対に辛いのに。自分が死ぬという話を、私にされているというのに。
「親友がね、言ってたの。今ある現実よりも、その人が死ぬ運命の方が間違ってるかもしれないじゃないって。それで私はこう考えたの。綾人が死ぬ運命の方が間違っていたんだって。私が今いるこの現実の方が、間違っているんだって」
『そんなことないよ!』
 珍しく綾人が声を荒げた。驚いて涙が引っ込む。きゅっと唇を結ぶと、綾人が何度か深呼吸する音が聞こえた。
『……どうして、そんなこと言うの? 綾加がいることが間違っているなんてそんなわけないでしょう』
「でも――」
『でもじゃない。間違ってなんていないんだ。君がそこにいることは、正しいんだよ』
「だとしても、私は綾人に生きてて欲しいんだよ!」
 綾人が言ってくれていることも、間違っているわけじゃないことは分かっている。けれどそれは認められない。
「私は、綾人に生きてもらいたいの! 両親だって――優也と清加だって、それを望んでる。綾人が死んで、どれほど二人が傷ついたか知ってるの? 今でも二人が傷を癒せていないこと、綾人は知らないでしょ!」
 思い浮かぶ、母の寂しげな微笑み。遠くを見つめるまなざし。父の赤点の答案用紙。父の苦しげな表情。
 怒鳴りたいわけじゃないのに、怒鳴ってしまう。こんなときに発揮される短気さが、酷く恨めしい。
 こんなに父に似ているのなら、外見も父に似てしまえばよかったのに。声も父に似てしまえばよかったのに。そうすれば、綾人はきっと清加≠ェ母だと気がつかなかったはずなのに。
「何で分かってくれないの? 綾人に生きててもらいたいんだよ。綾人が清加≠ニ結婚したって構わない。私、消えてしまってもいい。いなくなっても構わない――綾人が生きててくれるなら」
 一気にそう告げて、私は涙を拭う。手の甲が涙で濡れていた。
 綾人は静かに呼吸を繰り返している。そしてそのままお互いに数分間、沈黙したまま時が過ぎた。受話器から時計の針の音が微かに聞こえた。
『どうして……』
 聞き逃してしまいそうなほどの綾人の声に、私は流れる涙を拭った。
『どうして、そこまで言ってくれるの? 僕はただの、両親の親友なのに。僕が死んでしまった方が、綾加にとっては楽なのに。僕が事故に遭うことなんて、黙っていればよかったのに』
 ぽつりぽつりと紡がれる、切ない言葉。私は震える唇を押さえて、目を閉じた。
『どうして?』
 綾人の声に、手を放して口を開く。
「綾人。私――」
 あなたが好きなの。好きだから、生きてて欲しいんだよ。
 そう言いそうになる唇を噛み締める。言ってはいけない。言ったところで、綾人を困らせるだけだ。
 だから代わりの言葉を紡ぐ。嘘ではない、私の気持ちを。
「綾人、昨日言ってくれたでしょ。私は綾人の大切な親友の娘で、それで今は綾人の親友だって」
『うん』
「――私も、同じなの。私にとって綾人は、私の大切な両親の親友で、それで今は――私の親友なのよ」
 大切な言葉を告げる。それに綾人は黙り込んだ。
「親友を助けたいと思って、何が悪いの? 私のこの思いは、間違ってる?」
 問い掛けに綾人は答えない。けれど私は、続けて言葉を継いだ。
「綾人、生きて。それで未来を紡いでいって。私はそれで十分」
 一生のうちにこんなに泣いたことなんてないというほど涙を零して、私は言った。これがきっと、綾人に話す最後の言葉になるだろうと感じながら。
 暫くして綾人は言った。
『ありがとう』
 それが、綾人が言った最後の言葉だった。
 2010年と1987年を繋いでいた電話は、切れた。

 

 

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