09


 土曜日の授業は午前中で終わる。
 早くに帰宅した私は、自分の部屋のクローゼットを整理していた。出てくるのは小さな頃の自分のアルバム。幸せそうに笑う私を抱く優しげな父と、その隣で柔らかく微笑む母。
 いつも綾人の話を聞くばかりの私は、今日は自分の話をしたいと思っていた。
 それは小さな足掻き。綾人に少しでも6月23日のことを忠告するのを先延ばしにしたいがための、抵抗。
 溜め息を零して、アルバムを傍らに置く。
 何をしているんだろう、私は。もうとっくに綾人に話しているはずだったのに、綾人を救うために動いているはずだったのに、実際の私は何もしていない。ただ6月23日が迫ってくるのを黙って待って、傍観しているだけ。
 でも、どうすればいいのか分からなくなってしまったのだ。言うべきなのか、言わずにいるべきなのか――。
 そう思いながらアルバムの一つに手を伸ばす。そして不審に思って首を傾げた。
 私の小さな頃のアルバムには、すべてラベルが貼ってある。「綾加 1歳」とか、「綾加 10歳」とか。けれど私が手に取ったアルバムには何のラベルもなく、その上表紙は薄汚れていた。
「誰のアルバム?」
 小さく疑問を呟いて表紙を捲った途端、私の思考は一瞬で停止した。
 古びた写真の中で、微笑む三人の姿。全員、まだ新しい姫治西高の制服を着て、カメラに向かってピースサインを作っている。三人の後ろには、桜並木が広がっている。
 じっと目を凝らす。少し格好つけて写真に写る父、桜の花も霞んで見えるほど美しい微笑みを湛えている母、そして綺麗な顔立ちの、上品な雰囲気のもう一人の男の子。
「綾人……」
 彼が綾人だと示す、確かな証拠はない。けれど確信した。
 電話越しに聞く綾人の声、綾人の持つ雰囲気、それが両親と一緒に楽しげに写真に写っている男の子とぴったり一致する。まるで、抜けていたピースが嵌るように。
 ページを捲る度、出てくる三人の高校生の姿。
 浴衣を着ている母と綾人に、一人だけラフな格好の父が不貞腐れている写真。その下には父の字だろう、少し乱雑に「仲間外れにされた」と書かれている。父がこれを書いたときのぶすっとした表情がすぐに思い浮かんだ。
 三人がキャンプ用のテントの前でしゃがみ込んで、串刺しにされた焼き魚を美味しそうに頬張っている写真。写真の下には今度は母の綺麗な字で「夏合宿で釣り」と書かれていた。
 父と綾人が揃って体育祭の借り物競走に母を借り出そうとして、ジャンケンをしている写真。写真の下には「優也は幼馴染=@僕は親友≠フ借り物」と丁寧な文字で書かれていた。両親の字とは違う文字――綾人の字だ。
 次々にアルバムのページを捲っていく。けれどアルバムは完成されていなかった。このアルバムは半分と少し進んだところで、ぱたりと写真が貼られなくなっていた。
 最後の写真は1987年6月8日。綾人が美術コンクールで銀賞をとったことを表彰された時のものらしい。綾人は絵の前で表彰状を手に持ってはにかんで、そんな綾人を真ん中にして父と母が綾人以上に誇らしそうに笑っていた。
「綾加? 一人で大掃除か?」
 開け放たれたドアから、父が小さく顔を覗かせる。そして私が手に持つアルバムを見て、表情が固まった。
「これ、私のアルバムに混じってたの――三人の、アルバムだよ」
 私はアルバムを閉じて、父に差し出す。父はゆっくりと部屋に入ってくると躊躇いながら、けれど懐かしそうに目を細めてアルバムを受け取った。
「懐かしいな……」
 そう呟いて、父はゆっくりとアルバムを捲った。そして父は、写真の中で笑う綾人の顔をそっと撫でた。
 その切ない行動を見て、私は父の顔を見上げた。
「実は綾加の名前は、綾人から貰ったんだ」
 父の静かな言葉に、私は驚いて目を見張る。父はそんな私を優しく見下ろした。
「綾人の綾=\―それを綾加に付けた。綾人のように、優しく綺麗な女の子に育って欲しいと願って」
 父はそう言うと、私の髪をそっと撫でる。私はその手を感じながら、思わず苦笑を浮かべた。
「それは叶わなかったね――私、誰に似たのか短気になっちゃったし」
 本当は父に似たのだと知っているけれど、それは黙っておく。父は私を見下ろして、同じように苦笑いをした。
 そんな父の顔を見つめて、私は小さく首を傾げた。
「お父さんは綾人さんのこと、どう思ってた?」
 そっと訊ねると、父は写真をじっと見下ろして、口を開いた。
「親友。あと……ライバルかな」
 父はそう告げると、悲しげに微笑んで私を見下ろした。
「清加は綾人が好きだったんだよ。それに、綾人も清加が好きだった」
「えっ」
 思わず呟くと、父はひとつ頷いた。
 父は知っていたのか。当の本人たちは気づいていなかったことに、父は気がついていたのか。
「綾加も知ってると思うけど、母さんと父さんは幼馴染でね。父さんは物心がついたときから、ずっと母さんが好きだった。いわば初恋だ」
 父は遠くを見るように、窓の外に広がる空を少し見上げた。
「中学生になって綾人と知り合って、友達になった。母さんもすぐに綾人と仲良くなって、よく三人で過ごすようになった。それで気がついたんだ。綾人は清加を、清加は綾人を、好きになってるって」
 父はそう言うと、目を閉じて切なく微笑んだ。
「父さんは最初、清加と綾人を知り合わせなければよかったって思った……酷いよな」
 父は目を開くと、自嘲気味に笑う。その横顔が、とても切なくて胸が痛んだ。
「でも二人を見てると、そんなこと小さなことだって思ったんだ。きっと二人は、結ばれる運命なんだってそう思った。だから、二人を見守ろうって」
「――でも、綾人さんは死んだ」
 私が小さく零すと、父は驚いたように目を見開いてから、頷いた。認めたくないような、そんなたどたどしさで。
「綾人が死んで、清加が苦しんでる姿を見て、父さんは思った。守らなければといけないと。綾人がいない今、清加を守れるのは自分だけだって――エゴかもしれないけど、そう思ったんだ」
 父はそう言って、アルバムをそっと閉じた。それをそのまま私に手渡すと、立ち上がる。私は思わず父の背中に問い掛けていた。
「お父さん。もし、綾人さんが生きてたらって思うことあった? 生きてて欲しいって、思うことあった?」
 私の言葉に父は歩を止めて、振り返る。その顔はとても苦しげなのに、光を求めるような、希望を求めるような、直向きな瞳だった。
「何度も思った。綾人が生きていてくれればって――もし、綾人を救えることができたならって、今でもずっと思ってる」
「でも綾人さんが生きてたら、お父さんはお母さんとは結婚できなかったかもしれないよ……それでも、そう思うの?」
 これは酷な質問だ。けれど父は私から目を逸らさずに、頷いた。
「それでもいい。綾人を救えるのなら」
 父は最後にそう告げると、部屋から出ていった。その背中を見送ってから、私はそっとアルバムを開く。
 どれもが幸せそうな写真たち。じわりと涙が滲む視界の中、父がしたように微笑む綾人の小さな顔を、すっと指で撫でる。
 父は、綾人に生きていて欲しかったと思っている。そのことで、自分の初恋が実らなくても。
「綾人……私はどうすればいい? あなたは私に、どうして欲しい……?」
 笑顔の綾人に問い掛ける。けれどもちろん答えなんて返ってくるはずもない。
 綾人。あなたに触れられたなら、どれほどよかっただろう。あなたと同じ空間にいられたなら、どれほど楽しかっただろう。
 ああ、神様――どうして私だけ、2010年にいるのでしょうか?
 すっと頬に涙が伝った。そして気づいた。
 私は綾人が好きなんだ、と。
 母が初恋を捧げた相手に、私も同じように初恋を抱いている。その想いは、決して実ることなどないのに。

 

§
 

 6月19日、土曜日。22時30分に鳴り響いた携帯を手に取って、通話ボタンを押す。
「……もしもし」
 少し間を置いて告げるけれど、相手はいつもどおりに挨拶を返してくる。
『もしもし。綾人です』
「うん。元気?」
『元気だよ。アヤカは元気?』
 少し笑いながら綾人は言う。その言葉に身じろぎしてから、私は小さく頷いた。
「元気」
 嘘ではなく身体は元気だ。心が痛むだけで。
 綾人の声を聞くと、胸が切なく痛む。両親の思いが頭をちらつくと、罪悪感で満たされる。
 綾人を救いたい。生きていて欲しい。そう思えば思うほど、考えてしまう。綾人が生きていたなら、綾人は清加≠選ぶ。父の初恋は実らない。代わりに綾人と母の初恋が実る。
 そして別次元で綾人を想っている私の初恋も、決して実らない。
 今日は綾人には話さない。どうすればいいのか自分の気持ちの整理がついていないから、というのを言い訳にして。
『ねえ、アヤカ。僕、今日気がついたんだけど』
「何?」
 明るい声の綾人に思考の波から引き戻される。私はその声を愛しく思いながら、ゆっくりと目を閉じた。
『アヤカは僕の名字、知ってるよね? 奥見綾人って言うんだけど――僕はアヤカの名字を知らないなって』
 綾人にそう言われて、私はそっと目を開ける。
「内緒」
 考えるまでもなく私はそう口にしていた。すると綾人は『えっ』と小さく言って黙った。
「私の名字は内緒」
『……どうして?』
 小さな声で、綾人は不思議そうに言う。その声に、私は眉間に皺を寄せた。
 言えるはずがない。保城綾加だなんて。
『僕、思ったんだ。アヤカは姫治西高に通っているんでしょう? だったら、もしかしたらアヤカのご両親は僕の知り合いかもしれないって。名前を聞いたことがあるかもしれないって』
 綾人はなんて鋭いのだろう。本当に――少し怒ってやりたいくらい鋭すぎる。
「そんなことないと思うけど」
『どうして? 聞いてみなくちゃ分からないよ』
「そんなことないって私が言ったら、そんなことないのよ」
 きっぱりと私が言うと、綾人は一瞬だけ黙って、それから笑い声を上げた。
『やっぱりアヤカは似てるよ、僕の親友に』
「ジャイアン的な親友なのね……」
 お前のものは俺のもの、俺のものは俺のもの。そういう強引さが私の台詞にはあったのに、綾人は笑っている。そして私も苦笑しながら、若かりし頃の父を思い浮かべた。
『とにかく。僕は知りたいんだよ、アヤカの名字――というか、僕はアヤカってどう書くかも知らないよ。アヤカは僕の名前、どう書くか知ってる?』
「うん。『オク』は大奥の『奥』、『ミ』は見るの『見』、『アヤ』は綾取りの『綾』、『ト』は人間の『人』でしょ?」
 間髪入れずに私が答えると、綾人は少し驚いたように息を吸い込んだ。そしてそれを吐き出しながら言う。
『そうだよ。すごいね』
「すごくないわよ。卒業アルバム、見たし」
 本当は卒業アルバムで知ったのではないけれど。
『じゃあ、やっぱり僕も知らなくちゃ。アヤカだけ知ってるなんて不公平だよ』
「未来にいるんだから仕方ないでしょ」
『でも知りたいよ』
「何でそこまでこだわるわけ?」
『アヤカこそ、どうしてそんなに拒むの?』
 静かな綾人の声に、言葉に詰まる。それから私はぎゅっと目を瞑る。
『アヤカ?』
 突然黙り込んだ私に心配になったのか、綾人は優しい声でそう言う。
 そんな声を出さないで――もっと、辛くなる。もっと、好きになってしまう。
『アヤカ? 大丈夫? どうかした――』
「保城」
『えっ?』
 綾人の声に、私は言ってしまっていた。一度言ってしまえば、もうどうしようもない。驚く綾人に畳みかけるように私は続けた。
「保城よ。ホウジョウアヤカ。漢字は適当に当てておいてよ」
 綾人は小さく『ホウジョウ』と呟く。その声を聞きながら、もうどうとでもなれと思っていた。
『ホウジョウって……もしかして保つ城≠チて書く?』
 綾人は急き込んだ様子で話す。短くまとめられた自分の名字を表す言葉に、私は悲しくなって頷いた。
「そうよ」
『じゃあもしかして、アヤカのお父さんの名前って――優也、だったりする?』
 やはり綾人は気がついた。それも当然だ。保城優也は綾人の親友なのだから。
「――うん」
 認めたくないと思いながらも、結局は自分が撒いた種だったので私は肯定する。私の答えに綾人は驚いた様子で、けれど嬉しそうに言った。
『本当? すごくびっくり――あっ。優也はね――じゃなくて、アヤカのお父さんはね、偶然なんだけど僕の親友なんだ。ほら、前に話したでしょう? 男の親友の方』
「そうなんだ」
 少し驚いた声を装ってみる。それは自分で聞いても完璧に失敗していたのに、綾人は興奮しているのかそんな私の声にも気がついていないようだった。
『すごい、本当にびっくりだよ……アヤカが優也の子どもだなんて。すごい偶然――すごいね』
「ほんと、偶然ね」
 いや、これは絶対に偶然なんかじゃない。私は綾人の親友たちの子どもだから#1580≠ネんていう出鱈目な番号でかかってくるこの電話を受け取ることができたのだ。なぜだかそう思った。
『すごい。じゃあ僕、今親友の子どもと話してるんだ』
 綾人は感嘆したような声で言う。その台詞に、私は胸がぎゅっと押し潰されたような気がした。
 そうだ。忘れてはいけない。綾人にとって私は、ただの未来人で、ただの親友の子どもなのだ。間違っても恋愛対象に入ることなんて、ない。
「ごめん。もう切る。疲れた」
 まだ興奮した様子の綾人に、私は冷えた声で言ってしまっていた。綾人が『大丈夫? アヤカ』と心配そうな声で話してくれている最中に、私は電源ボタンを押した。
 一体私は何を期待していたというのだろう? 綾人が自分を想ってくれるなんて浅はかな希望を抱いていたのだろうか?
 私はただの未来人で、親友の子どもにすぎないのに。

 

 

back  1987年の思い人トップへ  next

 

小説置場へ戻る  トップページへ戻る

 

Copyright © TugumiYUI All Rights Reserved.

inserted by FC2 system