08
「いい匂い」
リビングに入って台所に立つ母に言うと、母は包丁を持つ手を止めて振り向いた。
「綾加、帰ってたの?」
柔らかく微笑む母の笑顔は、どこまでも優しい。この優しさに、綾人は惹かれたのだろう。
「今日のご飯は何?」
手元を覗いて訊ねると、母はくすくすと笑った。
「炊き込みご飯に、コールスローに、肉じゃがに、鱸のムニエル」
「手伝おうか」
私が腕まくりをして言うと、母は「先に手を洗ってね」と言った。私はそれに苦笑して頷くと、流し台で手を洗う。
それから母に代わってキャベツを細かく刻む。母は小さく鼻歌を歌いながら、鱸に下味をつけていた。そんな幸せそうな母の横顔を暫く見つめて躊躇った挙句、結局私は口を開いた。
「……お母さん。聞いていい?」
「何?」
「奥見綾人さんのこと」
私が綾人の名を告げた瞬間、母の手はぴたりと止まって、持っていた胡椒の瓶が手から転げ落ちた。私が慌ててそれを拾い上げると、母は我に返った様子でにっこりと微笑んで私の手から瓶を受け取る。その笑顔が強張っていた。
「話したく、ないこと?」
そっと訊ねると、母は目を伏せて悲しげに微笑んだ。
「綾加は気になるの? 綾人君のこと」
「うん」
きっぱりと告げると、母は私を驚いたように見つめて、それから小さく頷いた。
「何が聞きたいの?」
意を決したような、胆の据わったような母の声に後押しされて、私は言った。
「お母さんはどう思ってたの? 綾人さんのこと」
母は小さく息を吐いて、胡椒の瓶をそっと置く。そして私の方へ身体を向けた。
「大切に思ってた――親友だって」
「……それだけ?」
小声で訊ねると、母は一瞬間を置いてから、ゆっくりと首を振った。
「ずっと、好きだった」
愛しげに、大切に紡がれた言葉。綾人が母の名を紡いだ時と同じ響きだった。
「ずっと好きだったの。中学生の頃に綾人君と知り合ってね。それからずっと好きだった――初恋だったの」
母は懐かしそうに目を細めて遠くを見つめる。その瞳が淡く輝いて、それでいて切なく悲しげだった。
「ずっとね。でも、結局言えないままだった」
「……後悔してる? もし綾人さんが事故なんかに遭わずに、ずっとお母さんの傍で生きてたら、綾人さんに好きって伝えてた?」
綺麗な横顔を見つめて訊ねる。その顔には私の知っている母ではない、高校二年生の笠波清加が確かにそこにいた。
母はそっと目を閉じると、頷く。
「きっと言ってたと思うわ。好きですって――でも、きっと叶わなかったって思うの。綾人君には友達以上に思われてなかったって思うから」
母はそう言うと、目を開けて悲しげに微笑んだ。
そんなことない。
そう言いそうになる自分を抑えて、私は最後にそっと訊ねた。
「今でも、好きなの? 綾人さんのこと」
母は少しだけ目を見開いて、それから優しい笑顔で首を振った。
「好きよ。でももう過去のことだから、高校生の時のように好きなわけじゃないわ。今は優也が――あなたのお父さんが大切なの。一番、大事に想ってる。優也を愛してるわ」
母はそう言って微笑んだ後も、どこか遠くを見つめるようにしていた。
§
6月18日、金曜日。22時30分。
ベッドに突っ伏していた私は、突然耳の近くで着信音が鳴って飛び起きた。ディスプレイを確認すると「番号通知不可能」と表示されている。綾人からの電話だ。
顔を歪めて、携帯の画面を見つめる。忠告すべきなのかどうか、私には分からなくなっていた。
それでも着信が止むのが怖くて、綾人との繋がりが絶たれてしまうのが嫌で、私は通話ボタンを押していた。
「もしもし」
『もしもし、綾人です。アヤカ?』
「うん。こんばんはー」
わざとだらしなく語尾を伸ばす。綾人はそれに笑った。
『あっ。今日は清加、見れた?』
そっと訊ねてくる綾人に、私は再び顔を歪める。清加なら――母なら、毎日見てる。けれどそれは綾人が知っている清加≠ナはないだろう。
「見てきたよ。ちゃんと載ってた。安心?」
少し意地悪く言ったのに、綾人は真面目に受け止めたのか『うん、よかった』と誠実そうに答えた。
『それで、どうだった? 綺麗だったでしょう?』
綾人はきっと微笑んでいるのだろう。その声が、とても切なく私の胸に届いた。胸がちくちくと痛んだ。
「綺麗だった。すごく」
丁寧に答えると、綾人は照れくさそうに笑った。
私と同じ顔のはずの母は、私とは大違いで美しい。きっと内面から滲み出ているものが違うからなのだろう。綾人はきっと、同じ顔の清加と私を並べても、私ではなく清加を選ぶ。
「きっと、綾人とお似合いなんだろうね」
思わず小さく呟くと、綾人はすっと息を吸い込んで止まった。それから妙な間を置いて、綾人は小さな声で言う。
『そんなことないよ。清加には、僕よりも僕の親友の方がお似合いだから』
「どうしてそう思うの?」
『二人はね、幼馴染だったんだ。僕は中学からの付き合いで――二人の仲を邪魔してるんじゃないかって、ずっと心配してるんだ』
綾人は少し寂しそうにそう言った。それを聞いた私は、思わず勢いで言っていた。
「そんなこと思ってないよ!」
言ってしまってから、しまったと思って口を塞ぐ。短気のバカ、どうしてこんなところが似てしまったのだろう。
綾人は驚いたのか息を呑んで、それから恐る恐る訊ねてくる。
『どうしたの? アヤカ』
「……きっと、そんなこと思ってないと思うよ。綾人の親友でしょ? 綾人はすごくいい人だし、優しいし。そんな人の親友が、そんな意地悪なこと思わないよ」
私が一生懸命そう言うと、綾人は『そっか』と言って小さく笑う。
綾人――あなたの恋は、実るはずだったのに。事故にさえ遭わなければ、実っていたのに。
そう思うのに、私の口は言葉を紡がない。紡げない。
綾人に言えない――6月23日に外出しないで、と。
それは、思ってしまったからだ。綾人が事故に遭わずに生きていたなら――母は綾人と結婚したのではないかと。そうすると、父はどうなるのだろう? そして私は?
綾人に生きていてもらいたい。それは嘘偽りないはずなのに、私は言えない。母は幸せになるのに、どうしても言えない。
綾人が無事だったら、父の気持ちはどうなるのだろう? 私はこのまま、消えてしまうのだろうか?
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