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 私の部屋で、クッションに顔を乗せて美菜は言った。
「恋、ね」
 美菜は難しそうな顔で私をじっと見つめる。私はその視線から逃れるように目を伏せた。
「まさか綾加の口からそんなことを聞く日がくるとは」
 美菜はそう言って、小さく息を吐いた。
「しかも絶対に実らない想いだ――なんて」
 美菜は悲しげに呟く。
 美菜に全部を話したわけじゃない。綾人が1987年の姫治西高の2年生だということも、両親の親友だったことも、事故で亡くなったということも、話していない。
 ただ、絶対に想いが伝わらない人を救うべきかどうかという相談をしたのだ。そのことによって予想していなかった負の連鎖が起きてしまうかもしれない、とも。
「どうすればいいのか、分からない……私、どうすればいいんだろう」
 零れ出す言葉に、涙まで滲んでくる。
 俯いて涙を拭うと、美菜の温かい手が背中に触れた。
「綾加はどうしたいの? それも分からない?」
 優しい声と一緒に、ゆっくりと背中を擦ってくれる。私はゆっくりと首を振って、それから思い直して頷いた。
「分かってる、自分がしたいことは。私は助けたい――助けたいの」
 言葉を紡ぐ度に涙が溢れてくる。私は目を抑えて次から次へと溜まる涙を抑えようとした。
「でも、それが正しいのか分かんないんだよ……私がそうすることで今あるものが壊れちゃうかもしれないんだよ」
 私は消えるかもしれない。そうすると美菜の親友は私じゃない他の子になる。
 綾人と母は結婚するかもしれない。そうすると二人の間には違う子が生まれる。
 父は母への初恋を失くして、違う人と結婚するかもしれない。きっとそこにも私が生まれることはない。
「助けたいのに、助けられないんだよ――そんな自分が嫌」
 綾人に生きていて欲しい。でもそのことで私が消えたら、私の綾人への想いも消えてしまう。
「綾加。大丈夫だよ。もし壊れても、私は綾加の傍に絶対にいるから。だから綾加は、綾加が正しいと思うことをした方がいいよ。そうしないと綾加がこの先一生、後悔することになるから」
 美菜は静かに慰めるようにそう言う。そして温かい手で、ずっと背中を擦り続けてくれた。
 この手が私の隣から消えてしまうなんて、嫌だ。でも、綾人が死んでしまうという運命も、嫌だ。

 

§
 

 6月20日、日曜日。22時30分。
 着信音を奏でる携帯を手に取って、私は迷いながらも通話ボタンを押した。
「もしもし、綾人?」
『もしもし。アヤカ、綾人です』
「昨日はごめんなさい」
 深々と頭を下げながら言う。綾人は私を心配してくれたのに、私はぶつりと電話を切ってしまったのだ。居た堪れなくなったという理由だけで。
「私、すごく失礼なことした。本当にごめんなさい」
 頭を下げたまま言うと、綾人は小さく息を吐いてから言った。
『先を取られちゃった』
「え?」
 綾人から零れ出た予想外の言葉に、私は顔を上げてぽかんとした。
『僕も謝ろうと思ってたんだ。……ごめん、アヤカ』
「何で綾人が謝るの?」
 驚いて弱々しい声で訊ねると、綾人は小さく唸った。
『だって昨日の僕、見境なくなっちゃって。優也がお父さんだって聞いたら、びっくりしてアヤカの気持ちも考えずに一人で突っ走っちゃって』
「そんな、綾人が謝ることじゃないのに」
『でも嫌でしょう? 僕が優也のこと話すのって』
「嫌じゃないよ。むしろお父さんのこと知れて嬉しいし。私、それが嫌なわけじゃなくて――何て言うか、本当にごめん」
 上手く言葉にできなくて、私はもう一度謝る。
 綾人に親友の子どもとしてしか見てもらえなかったことが辛かった、だなんて口が裂けても言えない。
『本当? そう言ってもらえると助かるよ』
 綾人はほっとしたような声でそう言う。受話器の向こうで、胸に手を当てて安堵した顔の綾人が思い浮かんだ。
『あの、それでアヤカには申し訳ないんだけど、もう一つ聞きたいことがあるんだ』
「何?」
 私が促すと、綾人は少し躊躇った様子で口籠る。それでも辛抱強く綾人が話し始めるのを待っていると、やがて綾人は静かな落ち着いた声で言った。
『お母さんの名前、最後に聞いてもいい?』
 綾人の言葉に思わず固まりそうになって、私はすぐに自分を叱咤した。
「何で?」
 なるべくいつもどおりを装う。すると綾人は言った。
『もしかして知ってる人じゃないかなって思ったんだ』
 鋭い。本当に綾人は鋭すぎる――地味に嫌がらせをしたいほどに。
「知らない人だと思うよ?」
 苦し紛れに言ってみる。それでも綾人は『でも聞いてみないと分からないでしょう?』と言って引かない。私は溜め息を吐いてから、言った。
「綾人はまだ知らない人だよ。……前に聞いたの。お父さんはお母さんとは大学時代に知り合って結婚したって。だから、まだ綾人は私のお母さんのことは知らないよ」
 すらすらと嘘が紡がれる。綾人は私の答えに少しの間、沈黙してから『そうなの?』と確かめるように言った。
「そうだよ。まだ知らないの」
 念を押すように言うと、綾人は小さく笑った。
『そっか』
 その声に私はほっと胸を撫で下ろして、それから罪悪感が胸に一杯に詰まっていくのを感じた。
 綾人が事故に遭うまであと3日。
 私はこのまま迷い続けて、何も言わずにいるのだろうか。綾人をこのまま死なせてしまうのだろうか。

 

 

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