◆十五◆

 

 湖塚家の敷地内にひっそりと佇んでいる蔵の扉は、神野の屋敷の門のように特殊なものらしかった。「湖塚の血を引く者以外は開けられない」と柊は説明してから軽く扉を押して、俺を中へ入れてくれた。
 その蔵の中で埃まみれになっていた書物を一冊、丁寧に抜きだした柊はそれをそっと俺の手に載せた。
「これ、読んでみてください」
 ずしりと重いその本は、見た目からして年季が入っている。少しでも雑に扱うとばさばさとページが抜けてしまいそうだった。
 柊の顔を見て、それから本に目を落とす。
 相当古い文書らしい。背表紙を開いて題名を読もうとしたけれど、色褪せた紙と薄くなった墨、そして続け字で記されていることもあって断片的にしか読み取れなかった。
「えっと……狐……録?」
「狐塚録です。善狐と野狐(やこ)について書かれています」
 善狐は神野の話に出てきたから名前は聞いたことがある。詳しいことは分からないけれど、その血が柊に流れているということも知っている。でも「野狐」というのは聞いたことがない。
 じっと文書の表紙に目を落としていると柊が続けた。
「それには湖塚家の直接の祖先善狐≠ニ、もうひとつ野狐≠ノついて記されています。善狐≠ニいうのは妖狐じゃないんです。その名の通り、善良とされている狐で、湖塚家のルーツはそこにあるんです」
 柊は俺の手の上にある本を数ページ捲って、そこに書かれている文章をそっと指でなぞっていく。そこには素人目でも分かるほど流麗な文字があって、どうやら善狐のことが書かれているようだった。
「湖塚の先祖は神道系の白狐(びゃっこ)と仏教系の金狐(きんこ)銀狐(ぎんこ)が混ざり合った特殊な善狐でした。白狐は有名だから先輩も知ってるんじゃないでしょうか。稲荷神社に祀られてる狐は白狐がほとんどで、人々に幸福をもたらす存在です。そして金狐は日を、銀狐は月をシンボルとした狐で、他の狐とは特性がまったく違う精霊という存在です。その三つの狐が混ざり合って、神聖な善狐となっていたんです。でも――」
 柊はまたぱらぱらと数ページ捲って、再び文章を指でなぞった。
「いつしか狐塚の血に悪しきものが加わりました。それがいつだったのか、何がきっかけだったのか、今となっては何も分かりません。とにかく、それが入ってしまった」
「もしかして、それって野狐=H」
 俺が問いかけると、柊は厳しい瞳で頷いた。
「妖狐と総称されるそれが、狐塚の血に入り込みました。それまで神野家に仕えていた狐塚でしたが、これがきっかけで神野家から契約を切られたと伝わっています」
「そんな一方的に?」
「それが普通ですよ。神野と狐塚の間にあったのは忠誠じゃない。お互いの利害を考えての契約だったんです。だから使い勝手が悪くなったら切る、それだけですよ。多分、狐塚だって逆の立場なら同じことをしたはずです」
 柊はまるで諭すように言う。今さら何百年も昔のことに口を挟むつもりも文句を言うつもりもないけれど、不要になったらすぐに切り捨ててしまうなんて、やっぱりどこか納得がいかなかった。
「神野との契約を打ち切られた狐塚は、それまで神野の神気によって守られていたすべてを失いました。だから狐塚は野狐≠フ血という悪しきものを封じ込めるだけの力を失ってしまったんです。このまま狐でいれば、いずれ野狐の血を色濃く引いた妖狐が生まれる。だからそれを封じるために、狐塚は狐の名を捨てて人間と同化することにしました。名字も狐の字から湖の字に変えて、善狐としての一切を捨てました。長く生きれば仙狐(せんこ)にもなれただろうに、野狐のせいですべてを捨てたんです」
 柊は文章をなぞり終えると、長く息を吐き出して目を伏せた。
 埃っぽい蔵の中。差し込む光の中で舞う埃がきらきらと輝いていた。それは決して美しい光景ではなくて、ただ息の詰まるような空気でしかなかった。
「それで、それが柊とどう関係あるんだ? ……ごめん、理解力なくて。でも狐塚は湖塚になって、それで人間と同化したんだろ? 今の話が間違っていなければ」
 小さく問いかけると、柊は目を伏せたまま頷いた。本当に微かに首が揺れただけで、まるで肯定することさえ辛いかのように見えた。
「ときどき、湖塚の中でも力の強い人間が生まれることはありました。善狐の血を濃く引いてるが故に、善狐の力を多少なりとも持っている人間が。でもそれはあくまで人間≠ナあって完全な善狐ではなかったし、ましてや野狐でもありませんでした」
 柊はそう言うと、唐突に掌を俺の目の前に差し出した。
 何? と訊ねる前に、柊の掌からぽっと火の玉が上がる。青白いそれは柊の掌から数センチ浮いた場所で煌々と燃えていた。
 驚いて目を見開いたままの俺を柊はちらりと見ると、その炎の中にもう片方の手を迷うことなく入れた。
「何してるんだよ!」
 驚いて青白く燃える炎の中から柊の手を出す。その手は当たり前に火傷していた。柊は無表情で出していた火の玉を消すと、淡々と火傷を負った自らの手を見下ろした。
 見るからに痛そうで、すぐに手当てをしないと痕が残ってしまいそうだった。
 慌てた俺は、蔵周辺の景色を必死で頭に思い起こした。程なくして、この蔵の近くに井戸と、さらにその近くには水道もあったことを思い出して少しだけほっとする。そのどちらかで水をかければ取りあえず応急処置になるだろう。
「手当てを――」
 柊の腕を引いて蔵の外に引き摺ろうとすると、柊は力強く俺のジャケットを引っ張って、人差し指を立てて唇の前に当てた。
 こんなときに悠長に何をする気なんだと焦る心で柊を見つめ返すと、柊は俺の目の前に火傷を負った手を差し出した。
「火傷してるのに、早く手当てしないと――」
 俺は言い出したはいいけれど、最後まで言葉を紡ぐことは出来なかった。
 蔵の中には先程と変わらず、冷静な柊と目を見開いた俺が佇んでいた。
 俺が言葉を発しているうちに、見る見るうちに柊の火傷は治っていく。数秒経つと、火傷はおろか、その痕すら残っていない綺麗な肌に戻っていた。
「傷を癒す力。これを僕は小さな頃から持っていました。自分の傷だけじゃなくて、他人の傷も癒せるんです。僕はこの力は当たり前にある力だと思ってた。でも違うってあるとき気がついたんです。まだ子どもだったころ、一緒に遊んでた友達がこけて、僕はこの力でその傷を治してあげた――その日以来、その子と一緒に遊んでいません」
 柊は自分の手をじっと見つめる。その瞳が切実な悲哀を語っていた。
 しんと空気が静まり返る。蔵の外で木々が揺れる音だけが微かに聞こえてくるのみだった。
 何と声を掛ければ良いのか分からない。今この瞬間、柊に掛けて良い言葉が見つからなかった。
 きっと何を言っても柊を傷つけてしまう。彼の古い傷をえぐってしまう。そう思えて、何も出来ない自分が酷く恨めしかった。
「この力がおかしいんだって気がついて、僕はこの蔵で必死になって探したんです。自分の正体を。結果、これは湖塚家に稀に見られる善狐の力を多少なりとも持っている人間≠ネんだって、そう行き着いたんです。そうに違いないって」
 柊は顔を上げて真っ直ぐ俺を見つめた。何か俺の顔から助けを探し出すかのような、そんな瞳を向けて。
「でも違った。僕は人間≠カゃないんです。僕は人間の形をした野狐=\―妖狐だったんです」

 

 

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