◆十六◆

 

 舞台の幕が下ろされたかのように、辺りは水を打ったように静まり返った。目の前の柊が嘘を吐いているようには見えなくて、でも彼が言った言葉が真実だなんて信じられなくて、俺は呆然と彼を見つめていた。
「妖狐なんです。僕は人間じゃない」
 柊は静かに言う。まるで諦めているような、既に何の希望も抱いていないような、空虚な瞳で。
 俺はそれに耐えきれなくて、首を左右に振っていた。
「どうして? 善狐の力を持ってる人間だっていう可能性がある。火の玉が出せるのも、傷を癒すことができる力も、全部善狐の力かもしれないだろ?」
 俺がそう言っても、柊は暗い瞳のまま俺を見つめ返すだけだった。
「だって、まだ善狐だっていう可能性があるじゃないか。まだ野狐だって決まったわけじゃない」
 俺の言葉に柊は俯く。その肩が小刻みに震えていた。
「今の湖塚家でこんな力を持ってるのって僕だけなんです。僕以外の家族は、みんなもう人間と同化していて何の力もない。僕だけが……僕だけがこんなバケモノみたいな力を持ってる。こんな力を……」
 柊の強く握られた拳が震えている。俺はそれ以上どんな言葉を掛ければ良いのか分からなくなって、強く口をつぐんだ。
「先輩。先輩は本当に僕の力になってくれるんですか? 僕が人間じゃなくても。僕が妖狐でも」
 その問い掛けに、なんと答えれば一番良かったのか俺には分からない。でも、答えなんて一つしかなかった。
「柊が望むなら」
 小さな声で、でも信頼してもらえるようにしっかりと、俺は言った。
 柊は顔を上げると、潤んだ瞳で俺を見上げて言った。
「僕が野狐だっていう証拠を見せても?」
「柊が望むなら、俺は力になるよ。もしかしたら何の力にもなれないかもしれないけど、そのときは柊の傍にいるよ。柊が望むなら、傍にいる」
 ゆっくり告げると、柊は小さく頷いてから俺の傍を離れた。微かに柊の周りに異質な空気が混じり始めたとき、柊はそっと目を閉じた。
 途端に蔵の中に強風が吹き荒れる。驚いて入口を確認するけれど、扉は閉じられたままだった。外から風が吹き込んでいるわけじゃない。じっと風の動きを読んでいると、それは柊を中心に外側へ向かって渦を巻いていることが分かった。
「柊――!」
 いくら大声で叫んでも、言葉は風で掻き消されてしまう。柊へ近付こうとしても、風が邪魔をして足を踏み出すことすら出来ない。
 この強風を柊が生み出しているのなら、こんなに慌てることはないのかもしれない。でも風の中心にいる柊が、どこか遠くへ行ってしまいそうで、嫌な胸騒ぎがした俺は必死になって柊の傍へ行こうとしていた。
「柊!」
 柊の方へと片手を差し出す。そのまま風に逆らって柊に一歩ずつ近づいて行く。あと数センチで指の先が風の先端に触れるというときに突然、後ろから腕を強く引っ張られた。その反動でバランスを崩した俺は、風の勢いも手伝って思いきり後ろに倒れ込みそうになった。
 このままでは後頭部を地面に強打してしまうと思った俺は、咄嗟に頭を手で覆ったけれど、ぶつかったのは地面ではなく柔らかな着物だった。
 え? と思ってそのまま上を辿っていくと、厳しい顔つきの神野がそこにいた。
「神野? どうして――っていうか、どうやって?」
 蔵の扉は閉じられていたのに、どうやってここまで入ってきたのだろう。そんな疑問が頭に浮かんで、けれど神野は俺の質問に答える気はないのか、眉根を寄せて風を見つめていた。
「響、これ以上あの風に近付くな。風に当たれば腕を吹き飛ばされるぞ」
 神野は強風から俺を庇うように、俺を後ろに押しやる。
「腕を――? じゃあ、柊は? 柊があの風の中にいるのに!」
 神野の後ろでじたばたともがく。けれど神野は肩越しに振り返ってため息を零しただけだった。
「あの風を引き起こしているのは湖塚柊だ。風を巻き起こしている本人が傷を負うはずがないだろう。あいつは無事だ」
 神野が冷静に言ったと同時に、風は徐々に勢いを失っていく。風が止んでいくのと同時に、その中心にいる人物の人影が浮かび上がってくる。だんだんと鮮明になっていくその場所にいたのは、柊であって、柊ではなかった。
 柊の髪はいつもの茶色ではなく白髪になっていて、耳が額の少し上にある。その耳は人間の耳の形ではなくて、ふさふさとした毛に覆われた狐の耳だった。柊の背後に、まるで生きているかのように揺れているふさふさとした白いものが見える。俺の見間違いでないのなら、あれはよく妖狐の絵に描かれているような狐の尻尾だ。そして、その尻尾が高速で動いているというわけではないのなら、俺の目には八本あるように見えた。
 柊は神野を見つけたのか、驚いたように目を見開く。そして、そのすぐ後ろに匿われるようにして立っている俺と目が合うと寂しそうに俯いた。
「これが、僕が野狐である証拠です」
 柊は消え入るような声で呟いた。
「この尻尾――八本あるでしょう? 善狐なら尻尾の数は少ないんです。狐塚だったころ、僕の先祖たちの尻尾の数は二本とか三本、あっても四本でした」
 柊はゆらゆらと揺れる自身の尻尾を見下ろした。
「この尻尾の数、僕が中学生の頃までは一本でした。こんな狐の姿になれるから、きっと僕は人間じゃないんだろうってその頃からずっと思ってました。だから僕は善狐≠ネんだって、その頃は信じてた。でもだんだんと尻尾の数が増えてきて――」
 柊はそこで言葉を切ると、両手で顔を覆う。
「この尻尾の数が九本になったら、僕はどうなるんだろうって、ずっと思ってた」
 柊はくぐもった声で、切々と訴える。
 その声を聞いた俺は、神野が静止するのも聞かずに前に進み出る。狐の姿になった柊を前にして、俺は目を逸らさずに彼を見つめた。
「野狐だろうとなんだろうと関係ない。柊は柊だろ。それ以外の何者でもない。俺は君が望む限り、傍にいるよ」
 柊の白い髪に手を乗せて、俺は続けて言葉を紡ぐ。
「見捨てたりなんてしない」

 

 

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