突風が吹き荒れて、木々が揺れる。さわさわと葉擦れの音が耳を撫でる。
 風薫るとはよく言ったものだ、と少年は思いながら、澄んだ空気を深く吸い込んだ。それから日の光を浴びて色鮮やかに輝く葉を一枚手に取ると、にっこりと微笑えむ。そして、ちらりと眼下に広がる人里を見下ろして、眉根を寄せて吸い込んだ空気を吐いた。


 樹齢二百年にもなろうかという巨木から、山麓の里を見下ろす少年が一人。彼は頂点に近い太めの枝に、手もつかずにゆったりと腰かけていた。
「今日もいるのは暇な人間ばっかりか」
 少年が面白くないというように、溜め息混じりに呟くのとほぼ同時に、遥か下の地上から、一人の少年が大声を張り上げた。
水泉(みぜい)、そろそろ帰ろうよー! 俺、もう帰りたい!」
「じゃあ勝手に帰ればいいじゃん」
 決して地上までは届かないだろう小さな声で呟いて、少年――水泉は里を見下ろし続ける。
 水泉が動く気配がないのを感じ取ると、地上にいた少年は、大げさに溜め息を吐いた。それから黒い翼を背中から出すと、風を巻き起こしながら水泉の元まで飛び上がる。
「水泉、いつまでここにいるつもり? ここにいたって何も変わらないってば!」
 水泉はばさばさと大きな音を立てながら、空中で羽ばたき続けている少年を面倒そうに見やると、彼の前にずいっと和紙をつき出した。
「じゃあ峻徳(しゅんとく)は良いんだ? 天狗がこんな容姿してても?」
 水泉がつき出した和紙には、真っ赤な顔に異常に長い突き出た鼻を持つ、お世辞にも美しいとは言えない顔が描かれている。しかもその顔の下にはご丁寧に天狗≠ニ達筆な文字で書き添えられていた。水泉は自分がつき出した和紙をひらりと反転させてもう一度自分で確かめると、苛立ちながらそれをぐしゃぐしゃに丸めた。
 天狗の容姿がこんな醜いなんて許せない。しかも天狗と書かれた文字が達筆なのもさらに腹が立つ。――だから人間は嫌いなんだ。
 今し方目の前につき出されていた和紙が見事なまでに小さく丸められるのを見つめながら、少年――峻徳は苦笑を浮かべた。
「仕方ないだろ? 人間は俺たちを見たことないんだから」
「だからってこれは酷いでしょ! ったく、一体どんな感覚してるんだよ」
 言いながらさらに苛々が増した水泉は、巨木目がけて力強く拳を叩きこんだ。すると巨木はそれに応えるように大きく唸りながら葉を落とす。その様子にぎょっとした峻徳は水泉を強引に掴むと、彼を無理やり腰かけていた枝から引きずりおろす。このままでは樹齢二百年のこの木が倒されてしまいかねない。
「ちょっと、何するんだよ!」
 峻徳にがっちりと掴まれた水泉は、抵抗するように手足をばたつかせる。けれど峻徳はそれにも怯まずに、しっかりと水泉を抱きかかえて地上目指して降下する。
「そんなこと言ったってどうしようもないんだって! それに俺は帰りたいの!」
 峻徳の懇願するような色が滲む声に水泉は面倒そうに溜め息を吐くと、自分の背中から漆黒の翼を出した。そして峻徳の腕から逃れると、彼を残して一人でさっさと地上まで急降下する。間もなく、軽やかに地上へ降り立つと、水泉を追って急いで下りてくる峻徳を見上げて、意地の悪そうな笑顔を浮かべた。
「遅いよ、峻徳。さっさと帰るよ」
 水泉はそう言うと、立派な黒い翼を背中にしまってさっさと一人で歩き出す。その様子に峻徳は苦笑を浮かべながらも、急いで彼の後を追った。
「でもさ、水泉。あそこで人里の観察をしてどうするつもりだったわけ?」
 峻徳は先程まで水泉が居座っていた巨木の頂点を指さしながら、小首を傾げる。水泉は後ろをついてくる峻徳を振り返りながら、歩調を緩めずに口を開いた。
「決まってるでしょ。あの絵を描いた奴を見つけ出して、ぶち――」
「あーあー! もう良いよ! 聞きたくない!」
 先に続く言葉が不吉なものだと察知した峻徳は、水泉の言葉を大声で遮りながら力の限り両手を振る。
「何? 峻徳が聞いたから答えてあげたんでしょ」
 必死に両手をぶんぶんと振る峻徳を見やりながら、水泉は満面の笑みを浮かべる。その笑顔は眩しいほどに美しかった。それを見て峻徳は再度大げさに溜め息をつくと、項垂れた。
 水泉はあまりにも美しすぎる。しかし、美しい容姿に相反してその性格はひん曲がっていると言っても過言ではない。彼の性格の悪さは、その能力と自信からやってくるものだ。
 ――ここ、天狗の里で、水泉に匹敵するほどの力を持つ天狗はまずいない。
 代々天狗の長を務めてきた家の嫡男として生まれた水泉は、幼いころからその能力を余すところなく発揮してきた。水泉の能力は、彼の父をも超えるとまことしやかに噂されているほどだ。
 そして天狗は美しい容姿の者が多い。いや、これは天狗に限ったことではなく、妖狐も鬼も、美しい容姿の者が多いのだ。なぜかは知らないが、それは脈々と受け継がれてきた血に刻み込まれたものだった。そして峻徳の目の前を足早に歩く少年――水泉は、その中でも群を抜いて美しかった。
 秀でた能力と一際目立つ美貌から、幼少の頃からちやほやされて育った少年は今、素晴らしく性格がねじ曲がってしまったのだった。
 峻徳は眉尻を下げて重く溜め息を吐くと、水泉の後を追って肩を並べた。
 すると不意に二人の後ろで、くくくっと喉を鳴らして笑いを堪える音が聞こえた。水泉は敏感にそれを聞きとると、やれやれという様子で肩をすくめてちらりと後方を確認する。
「またあんた? ほんと、暇だよね」
 先程まで人里を観察して、絵師を探し出すと言っていた自分の行動は棚に上げて、水泉はうんざりした様子で言い放った。
 その言葉を放たれた本人は、大して気にした様子もなく水泉と峻徳と肩を並べると、微笑みながら水泉を(なだ)めた。
「そんなにご機嫌斜めでどうしたのかな? 天狗の若頭さん」
 白いふさふさの尻尾を機嫌よく振りながら、彼は水泉の顔を覗き込むように言った。水泉は鬱陶しそうに彼の顔を手で追いやると、少し頬を膨らませながら無言のまま歩き続ける。
陽彗(ようすい)こそどうしたんだ? 天狗の里までやってくるなんて」
 水泉の様子をちらりと横目で確認しながら峻徳が、頭にぴょこんと生えている柔らかそうな耳を何やら真剣に確かめている妖狐――陽彗に話しかける。すると陽彗はにっこりと微笑んで、自分の耳を示してみせた。
「これ、どう思う?」
「どうって?」
 峻徳は陽彗の言葉を受けて丁寧にその白い耳を観察するが、特に異常は見受けられない。
「変わったところはないけど……」
 一通り観察を終えた峻徳は、不思議そうな表情を浮かべながら陽彗へ向き直った。すると陽彗はくくっと喉で笑って見せて、ばしっと峻徳の肩を叩く。軽く叩かれたように見えて、実はかなりの衝撃を受けた肩をさすりながら、峻徳は陽彗を軽く睨み据えた。
「それはもちろん、変わったところはないよ。ただ、この耳ってどうかな? 尻尾はふさふさで柔らかくて可愛いけど、耳が生えてるとやっぱり嫌われるかな」
 陽彗は峻徳の視線にも気を留めず、ぱたぱたと揺れる尻尾を振りながら微笑んで見せて、それから眉根を寄せて上を見つめて耳に慎重に触れる。誰に′凾れるのか、わざわざ言わなくてもすぐに察した水泉は、陽彗の様子に鼻で笑ってから愛らしい嘲笑を浮かべた。
「耳だけじゃない、尻尾も嫌われるよ」
 水泉は冷たく言い放つと、自分の黒い翼を背中から出す。そしてばさばさと風を巻き起こしながら羽ばたかせると、その翼を指さした。
「この翼も嫌われるからね」
 水泉はそう言うと、すぐさま己の翼を背中へしまう。歩道を歩くときは、大きく立派な翼は邪魔になるだけなのだ。
「人間って変な生き物だよ。こんな神秘的なものが怖いだなんて」
 陽彗は解せないという表情を浮かべて、自分の尻尾と耳と、それから今は隠されている水泉と峻徳の漆黒の翼が生えている背中を順番に指さした。そして何かを言おうと口を開いたとき、不意に後ろから物音が聞こえ、次いで弱々しい声が耳に入った。
「あの、すみません」
 その声に三人は一斉に振り向き、そこに立っている人物を確認する。見たところ十四、五の若い娘だ。身につけている着物と平凡な部類に入る容姿を見て取って、三人は瞬時に娘が人間≠ナあることを察知した。
 そんな三人の考えは露知らず、娘は不安げに辺りを見渡すと、すがるように三人を見つめた。
「私、道に迷ってしまったようで……。どの道を下りれば里へ帰れますか?」
 娘のその言葉を聞くと、三人は一斉に娘に背を向けて、お互いの頭をつき合わせるほど接近し驚きの表情で見つめ合った。
「ちょ、何で人間がいるわけ!? 天狗の里も妖狐も鬼の里も、人間は入れないはずだったでしょ!」
 水泉が小声で、けれど出来る限り声を張り上げてそう主張すると、峻徳がすかさず大きく頷く。
「第一、どうやって迷い込んできたんだろう? この里に入る道は、厳重に幻術で隠されてるから人間には見えなくなってるはずなのに」
 峻徳が不安げにそう呟くと、陽彗がこめかみを押さえて苦笑を浮かべる。その様子にいち早く気付いた水泉は、疑るような視線を陽彗へ送った。
「何か知ってることがあるなら今のうちに言っておくことだね。さもなきゃあんたの自慢の尻尾……」
「分かった、白状するよ! さっきここに来る途中、幻術を破ってしまったような気がしないでもないんだよね」
 陽彗は不穏な空気を漂わせ始めた水泉の言葉を慌てて遮って白状すると、にっこり微笑んで、ごめんね? と付け足した。その様子に水泉と峻徳は顔を引き攣らせて、陽彗へ詰め寄る。
「ごめんねだって? まさか、ごめんねで済むと思ってるわけ?」
 水泉はそう言うと、先程まで引き攣らせていた顔を、見事に誰もが見惚れる笑顔へ切り替える。しかし、その下に隠されているのは紛れもない――。
「だから、本当にごめん! 悪気はなかったんだ!」
 陽彗は瞬時に不吉な気配を感じ取って、尻尾と耳を垂れさせて、わざとらしくぶるぶる震え出した。
 三人が不穏な空気を発しながらやり取りをしていると、またもや遠慮がちに後ろから娘の声が聞こえる。
「あの……?」
 娘の声に水泉が反応して、素早く娘へ向き直ると、
「ちょっと待ってて! 今、作戦会議中!」
 と早口でまくしたて、すぐさま娘に背を向けた。
「で、陽彗をやるのは後にして、あの子をどうするかって話だよね」
 水泉はちらりと陽彗を見やると、峻徳へ視線を走らせた。峻徳はもう一度頷くと、陽彗の頭上を見上げて絶望的な表情を浮かべた。
「陽彗……! 耳と尻尾……!!」
 峻徳の声にならない声を聞いて、水泉も陽彗へ視線を走らせる。するとそこには、人間には絶対にない妖狐特有のふさふさした耳と尻尾がひょっこりと生えている。陽彗も峻徳の言葉に、自分が耳と尻尾を出しっぱなしなのに気付いて、しまった、と呟くと引っ込めさせた。
「おい! 今更引っ込めたら余計おかしいだろ!」
 ほぼ絶叫と化した峻徳の訴えに、陽彗は、
「あっ。そっか」
 と呑気に答えて、もう一度耳と尻尾を生えさせる。
 その間抜けな妖狐の行動を目の当たりにして、天狗の二人は小さく地団駄を踏むと、妖狐の考えなし加減に絶望した。そして恐る恐る娘の方を振り返る。きっと娘は恐怖の表情を浮かべているだろう、と考えながら。
 しかし、そこに見えたのは恐怖の表情でも、驚きの表情でもなかった。
 彼女が浮かべているのは、紛れもない期待に満ちた明るい表情だった。その瞳はきらきらと輝いてさえ見える。
 予想外の娘の反応に、三人はお互いの顔を見つめあって首を傾げた。
「あの、もしかして狐さんですか?」
 娘は瞳を輝かせて、少し頬を染めて三人を見つめる。すると困った様子で三人はもう一度互いの顔を見つめ合った。水泉の顔には普段は決して見せない動揺の色が浮かんでいる。
「違いますか?」
 娘は反応がない三人を不安げに見つめると、目を瞬かせる。無防備な娘の様子に三人は一斉に溜めていた息を吐くと、娘を見つめ返した。
「あのさ、僕たちを見て怖くないの?」
 水泉が娘をじっと見据えながらそう言うと、娘は不思議そうに小首を傾げる。
「どうしてですか?」
「いや、質問してるのは僕なんだけど」
 質問に質問で返してきた娘に、水泉はあからさまに眉根を寄せて不機嫌な表情を見せる。水泉は初対面の時に、言葉をオブラートに包むこともできなければ、優しい穏やかな態度で接することも出来ない天狗なのだ。
 そんな水泉を横目で見やりながら、陽彗が代わりに口を開いた。
「僕は狐だけど、この二人は違うよ。ほら、耳も尻尾もないでしょう」
 陽彗は事もなげに人間≠ノ対して簡単に狐だと名乗ると、朗らかに天狗の頭とお尻を指さした。そのいきなりのカミングアウトに水泉と峻徳は言葉を失って、代わりに鋭い視線を陽彗へ送った。しかし娘はそんな天狗の様子には気付かずに、陽彗に促されるまま彼らの頭とお尻を見やると、なるほど、と呟いて、未だ鋭い視線を送り続けている水泉と峻徳を朗らかに見つめる。
「お二人は狐さんとお友達なんですか?」
 水泉の鋭い視線にも臆することなく娘は穏やかにそう言うと、きらきらと瞳を輝かせた。その様子にさすがの水泉も唖然として、再度言葉を失った。そしてじろじろと訝しげに娘を観察すると、深く溜め息を吐いて仕方がないというように微笑んだ。
「こいつとは友達でも何でもないよ。僕らは天狗だから」
 先程までの敵対心をすっかり取り払って、事もなげに水泉までもが自分の身を明かすと、峻徳がぎくりとして肩を震わせた。
「水泉! 何で言っちゃうんだよ!」
 耳元で力いっぱい囁く峻徳を横目で確認すると、水泉は肩をすくめてみせた。
「だって、本当のこと言わないとこの子は納得しそうにないって思って」
 水泉の軽い様子に今日何度目になるか分からないほどの大きな溜め息を吐いて、峻徳は項垂れた。
 水泉は敵対心が強い。特に人間に対しては。それ故に、他の天狗よりも人間に関する興味も特に強い。そして水泉はなかなか相手を認めない性格だけど、一度でも敵わないと思った相手には、すっかり心を許してしまうのだ。たとえ相手が人間だとしても、そうらしい。
 今、目の前にいる娘は、天狗や妖狐を見てもまったく動じず、さらにはうきうきとした様子さえ見せている。その様子に水泉は敵わないと感じたらしかった。その証拠に、水泉はにっこりと邪心のない笑みを娘に送っていた。
 娘はぽかんとしながら水泉を見つめると、でも、と小さな声で呟いた。
「天狗なら翼があるんじゃないんですか?」
 娘はそう言うと、本来翼が生えているだろう背中を指さした。娘の疑問に水泉は己の背中を振り返ると、ああ、と小さく零す。
「今はしまってあるから」
 水泉は言葉短くそう答えると、左右を見渡して他の天狗の気配がしないことを確認する。ここで人間と一緒にいるところを見つかると厄介だ。いや、人間が紛れ込んでいることが知られるのが厄介なのだ。
 天狗にとって人間は有害な存在である。人間は天狗や妖狐を迫害し、忌み嫌っていた。そして天狗たちもそんな人間を下等な動物として見下している。今こうして、人間と天狗や妖狐の住む世界をすっかりと分け、人間に対して「天狗は伝承の中に生きるのみの存在」という考えを植え付けるまで、お互いがお互いを憎み合って生活していたのだ。今となっては、人間は天狗を嫌ってはいないが恐れており、天狗の方は相変わらず人間を見下している。
「ところで、君の名前は?」
 峻徳が娘を見つめてそう言うと、娘は微笑んで答えた。
(しず)です」
 娘――静がそう名乗ったのを聞くと、峻徳は頷いて見せてから口を開く。
「静、ここにいる所を見つかるとちょっと厄介なんだ。人里まで案内するから、すぐに帰った方が良い」
 峻徳はそう言うと、静をそっと促した。静は訳が分からないなりにも水泉や峻徳、陽彗が真剣な表情をしているのを見ると、ゆっくり頷いて歩き出した。
「飛んで連れてけば楽なんじゃないの?」
 一緒に歩き出した陽彗が、二人の天狗の背中を指さして指摘する。けれど二人は同時に首を振って溜め息を吐いた。
「人を抱えながら飛ぶと目立つ」
 水泉が短く答えると、峻徳も頷いて言葉を付け足した。
「まず、何かを抱えながら飛んでると仲間が怪我でもしたのかって思われて、すぐに他の天狗が飛んでやってくる。天狗は目が良いから。高度を出来る限り上げても、何かを抱えて飛んでることはすぐに分かる。で、飛んでこられて抱えてるのが人間だってばれたらまずいことになる」
 峻徳の答えに陽彗も納得したように神妙な顔で頷くと、不安げな表情を見せている静へ視線を落とす。
「可哀想に……」
「もとはと言えばあんたが悪いんでしょ」
 すっかり自分が幻術を解いたことを忘れて静を見つめていた陽彗に、水泉は事実を思い出させる。陽彗は水泉の的確な指摘に、そうだった、と言いながらぺちんと自らの額を叩いて、愉快に笑って見せた。
 静は思わず三人の様子にふふっと笑って、しげしげと彼らを見つめた。その視線に気付いた水泉が小さく首を傾げると、静が遠慮がちに口を開く。
「三人とも、仲が良いんですね。それに、三人とも想像していた天狗や狐とは全然違っていますし。なんだか不思議な気持ちです」
 水泉は静の穏やかな様子に目を細めると、不意に思い出したように眉間に皺を寄せて、不機嫌な声音を出す。
「静。君って山麓の里の娘でしょ? なら、天狗の絵を描いた絵師を知らない?」
 水泉の言葉に峻徳は、まだ諦めてなかったのかと小さく溜め息を吐いた。まったく水泉の奴ときたら、天狗というよりは蛇のようにねちっこい奴だ。
「絵師……?」
 静は水泉の言葉を小さく復唱すると、ぽんっと手を叩いてから声を上げる。
「それは、真っ赤な顔に突き出た鼻の天狗の絵を描いた者のことでしょうか?」
 先程まで水泉が手にしていた和紙に描かれた天狗の特徴を上げた静に、水泉は力強く頷いて見せた。
「そう! その絵師!」
 水泉は人差し指を静の目の前にずいっと突き出して、じっと静の顔を見つめる。すると静は水泉の顔を見つめてにっこりと微笑んで見せた。
「私の父です」
 静は笑顔を崩さずに、事もなげにそう言い切った。
 予想を裏切る静の発言に、水泉と峻徳は思わず立ち止まると、口をぽかんと開けて穴が開くほど静を見つめる。何事が起ったのか分からない陽彗と静は、歩いていた足を止めて立ち止まった二人を振り返ると、同時に不思議そうな表情を浮かべて首を傾げた。
「二人とも、どうかしたの?」
 陽彗はなおも不思議そうな表情を浮かべて、立ち尽くす天狗に問う。静も同じように不思議そうな表情を浮かべたまま、二人を見つめた。
「どうって……」
 峻徳が力の抜けた様子で呟く。その隣では、口を開けたままだったのに気付いた水泉が素早く唇をきゅっと引き結んで、不満げな表情を浮かべた。
「静のお父さんだったわけ? あんな出鱈目(でたらめ)な天狗を描いたのは」
 水泉はそう言うと、皮肉を含んだ笑みをその顔いっぱいに浮かべて静を見つめた。けれど静はそれにも臆することなく、朗らかな笑みを浮かべて水泉を見つめ返した。
「だって、私の父は今まで一度も天狗にお会いしたことがなかったんですもの。仕方がないことです」
 静は自信たっぷりにそう言い切ってから、深々と頭を下げた。
「けれど気分を害されたなら謝ります。父にも本当の天狗がどんなに美しいか、伝えておきます」
 思いもかけずあの絵師の娘と対面し、しかも謝罪されたことに、水泉も峻徳もどう対応すれば良いのか分からずに、深々と頭を下げたままの静を目の前にして、二人は顔を見合わせた。すると苦笑を浮かべた陽彗が、二人の代わりに声を上げる。
「静が謝ることじゃないよ。君の言うことももっともだ。人間は僕たちを見たことがなかったんだから、変な――失礼――本物とは違う天狗を描いても仕方がない」
 陽彗はそう言いながら、下げられた静の頭を上げさせると、にっこりと微笑んだ。出遅れた、と感じた二人の天狗は慌てて頷くと、ぎこちなく微笑んで見せる。
「さあ。もうすぐ里への道だ」
 峻徳は意味もなく大声でそう言うと、小走りで走り出した。陽彗は峻徳の後を嬉々として追う。水泉はそんな二人を面倒そうに見つめて溜め息を吐くと、微笑みながらゆっくりと歩く静の腕を掴んだ。静は自然に腕を掴んだ水泉を一瞬だけ驚きの眼差しで見つめると、すぐに瞳を細めて笑顔に戻った。
 前方ではしゃぎながら駆けていく峻徳と陽彗を見つめながら、水泉は隣で歩く静へ視線を移す。掴んだ腕からは温かな体温が感じられる。天狗とは決定的に違う、けれどよく似通った人間の姿かたちを間近で見て、水泉は不思議な気持ちを抱いた。
「人間って、普通なんだ」
 水泉がぽつりと呟くのを聞いて、静は首を傾げて彼の顔を見上げる。
「普通って?」
「つまり、僕たちとあんまり変わらないんだ、ってこと。天狗や狐とそう変わらない。僕たちと同じようにこの体は温かいし、それに生きてる」
 水泉は感慨深げにそう言うと、じっと静を見下ろした。静は水泉の言葉を理解しようと頭を捻って、うーんと小さく唸った。その様子を見て、水泉はさらに言葉を続ける。
「見た目で違うのは、翼も尻尾も、耳も角も生えてないことぐらいでしょ。もちろん、中身は全然違うけどね」
「中身は違うんですか?」
 中身という言葉が差すものが何なのか、見当もつかずに静は繰り返した。
「違う。僕らと人間は生きる時間が違うから」
 水泉は小さくそう返すと少しだけ歩調を速めて、すたすたと静の腕を引っ張って歩く。水泉の言葉に小さく眉根を寄せて、静は水泉の横顔を見つめた。
「人間は五十かそこらで死ぬでしょ。だけど、天狗も妖狐も鬼も千年は生きる。静が生きる時間は、僕たちの生きる時間のほんの一瞬にすぎない」
 水泉の言葉に静は目を見開いて、じっと彼の顔を見つめた。そして遠慮がちに口を開くが、そこからは小さな息が漏れただけだった。
「おーい! 二人とも遅いよ! 静、もう里への道に着いたよ!」
 二人の前方で峻徳と陽彗は大きく手を振りながら声を張り上げると、その後ろに見える山道を大きな身振りで示した。静は小さな声を漏らすと、大きく手を振り続ける二人へ笑顔を向けた。それから水泉を優しく見つめると、口を開いた。
「人間が嫌いですか?」
 今度ははっきりとした声がその小さな口から発せられる。水泉はそのまっすぐな言葉に柄にもなく苦笑を浮かべると、ゆっくりと首を振った。一度首を振ってから、思い直したようにすぐにもう一度首を振る。
「嫌い。でも好きだよ」
 相反するその言葉に静は困ったように首を傾げると、水泉はそれを見て、今度は馴染みある悪戯な笑みを浮かべた。
「人間はすぐに死ぬから嫌いだった。僕、こう見えても二百歳を超えてるからね。だから沢山の人間が死んでいくのを天狗の里から見てきた」
 水泉は笑みの下に寂しさを隠して、そう小さく呟いた。それから今度は本物の笑みを浮かべて静を見つめる。
「だけど、静は好きだよ。そうやって目で見たものを信じて、何事にも物怖じしない所がね」
 静は水泉の答えにほっと安堵して、それから困ったように微笑んだ。
 水泉は人間が好きだけど嫌いなのではなくて、好きだから嫌いなのだと気付いたのだ。この天邪鬼(あまのじゃく)な天狗は、きっととても優しい天狗なんだろうと、静の頭にふとそんな言葉が過った。
 水泉は峻徳と陽彗が待つ山道まで静の腕を引っ張って歩いて行くと、そこでそっと手を離した。それからおもむろに漆黒の翼を背中から取り出す。静は突然生えたその翼に息を呑んで、そして瞳を輝かせた。
「ここは幻術で閉じてしまうから、もう二度と静は天狗の里へは迷い込めないよ」
 瞳を輝かせて一心に水泉の翼を見つめる静を、陽彗は少し悲しげに見つめると静かに言った。陽彗の言葉に静はゆっくりと彼へ視線を移すと、躊躇いがちに頷く。
「生きる時間が違うから、仕方ないことですよね」
 静は先程の水泉の言葉を自分に言い聞かせるように三人に向かってそう言うと、寂しげに微笑んだ。
「人間と知り合えることなんてなかったから、静と出会えて、それにちょっとだけど話せて良かった」
 峻徳は項垂れながらそう言うと、静の顔をおずおずと覗き込んで、にこっと寂しげに笑って見せた。
 静は深々と三人にお辞儀をすると、踵を返して山道を下り始める。水泉は寂しげな静の後姿を見つめると、咄嗟に翼に手を伸ばす。水泉の行動を、疑問符を浮かべながら見守っていた峻徳と陽彗は、次の行動を見てはっと小さく息を呑んだ。水泉は顔を歪めながらその美しい羽を一枚むしり取ったのだ。
「静」
 水泉は手にした己の漆黒の羽を持って静を追いかけると、驚いて振り向いた静にその羽を手渡した。
「生きる時間は違っても、同じ時間を生きてることには違いないよ。僕はこの里に天狗として君臨し続けてるし、静は人里で絵師の父親と暮らしてる。違う場所にいても、同じ空の下にいることには変わりないでしょ?」
 水泉は静の温かな手に己の羽をぎゅっと押し付けた。
 天狗の羽――それは大切な友人に贈るもの。己の漆黒の翼を削って得る羽は、天狗にとってとても貴重なものだった。
 その意味を知らない静は、水泉の真剣な眼差しにただ黙って頷いた。そして手にした輝く羽を見つめて優しく微笑むと、水泉と、それから後ろに見える峻徳と陽彗を目に焼き付けるように順番に見つめる。そしてもう一度くるりと踵を返すと、しっかりとした足取りで山道を下って行った。


 水泉はその後ろ姿を見つめて一人思う。たとえ翼がなくても、耳も尻尾も角も生えてなくても、天狗も人間もそう変わらないのだと。生きる時間が違っても、会う機会がなくなっても、この空の下で生きていることには変わりない。
 それにこれは永遠の別れじゃない。自分が会いたくなれば、すぐにでも文字どおり飛んで会いに行けば静に会えるのだから。
 静の後ろ姿を見送りながら、水泉は優しい香りがする風を吸い込んで、優しく微笑んだ。

 

 

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