「あ、闇音……」
 庇う――というよりは、聖黒さんから私を覆い隠すように、闇音の黒い単衣が目の前に広がっていた。
「少し目を離すと余計なことを美月に吹き込まれるということはよく分かった」
 闇音は一言そう零すと、流れるように蒼士さんへ目を遣る。私は首を最大限に上げて、闇音の険悪な横顔を見つめた。
「私に当たられましても」
「当たってはいない」
「ではそのように睨みつけないでください」
「目付きが悪いのは元からだ」
「嘘を吐かないでください。第一、私は何の忠告も美月にしていません」
 蒼士さんはあくまで冷静に闇音を受け流す。それにさらに腹を立てたのか立てていないのか。闇音はざっと風を起こすほどの勢いで私を振り返った。方膝をついて目の高さを私に合わせてくれた彼に、私は訳が分からず少し首を傾げてみせる。
「美月」
「何?」
 闇音は暫く私と目を合わせて、それから唐突に溜め息を零した。
「どうかしたの?」
「いや――」
 闇音は一瞬の内に気持ちを切り替えたように、真っ直ぐ私を見つめて言った。
「こっちにいたいならそれでいいが……俺の部屋に来るか? ここ数日の仕事が溜まっているからあまり相手はできないが」
「お仕事あるなら、私がいたら邪魔じゃない?」
「邪魔だと思うなら迎えに来ない」
 闇音はきっぱりと言い切ってから、私の様子を窺うようにする。私はその視線を受け止めてから、蒼士さんへ目を走らせた。蒼士さんは私と目が合うと、ただ静かに頷く。そんな蒼士さんの様子を見て、私は心のどこかでほっとしていることに気がつく。
 蒼士さんの表情を見る限り、いつもどおりだ。無理をしている風もない。先程、聖黒さんに言っていたのは本心なのかもしれない。――いや、私は本心だと思いたいのだろう。それに、そう思うべきだとも感じている。
 そんな自分の気持ちに気づきながら、それを振り払って私は闇音へ向かって頷いた。
「闇音の邪魔じゃないなら」
 闇音はただ静かな目で私を見て、それから手を取って立ち上がった。目の前の闇音には私の気持ちも、蒼士さんの想いもすべてが透けて見えているかのように、平静な瞳だった。
「あの、それじゃあ私……」
「美月様、忘れてはなりませんよ。無防備になってはいけません」
 聖黒さんはいつもどおりの笑顔でそう言う。私はそれに苦笑で返したけれど、聖黒さんの声音が妙に張り詰めていた気がした。
 それを確かめようと聖黒さんを見遣るけれど、その前に輝石君のむっとした顔が割り込んできた。その手には西家から持ってきてくれたのだろう、茶菓子の包みを持っている。
「美月さま。後でお菓子持って行きますからね!」
「美月様。輝石の言いたいことを簡単に説明すると、気を抜かないでくださいということです」
 こちらも思わず見惚れるほどの笑みを湛えた朱兎さんが、口を挟む。それに引き攣った笑顔で返してから、闇音を振り返る。闇音は少し屈んでいたのか、居住まいを正してから私の手を引いて歩き出した。
 三神が言いたい意味を、分かっていないわけではない。
 闇音が私を疎んでいた以前なら問題はなかったのだ。けれど今は状況が違うと言いたいのだろう。実際に闇音自身から、私が彼に抱いているような好意を告げられたわけではない。けれど明らかに態度の変わった闇音に、やはりどきりとしてしまう部分もあるのだ。
 今すぐどうこうなるわけではもちろんないだろうし、今はそんな状況でもないのだからそこまで闇音に対して警戒を強める必要もないとは思うのだけれど。
「何だ。体調でも悪いのか?」
「え?」
「肩の調子が悪いのか?」
 唐突に話しかけられたことに、一瞬思考が追い付かない。ぼんやりと頭の片隅で自分が今、間抜けな顔をしているだろうということを感じたけれど、それすらどうすることもできずに私は闇音を見つめ返すことしかできなかった。
「……その様子だと、そういうわけでもないみたいだな」
 闇音は呆れ顔でそれだけ呟くと、再び踵を返して歩き出した。私は慌てて闇音に合わせて歩き始める。
「ちょっと考え事してたの」
「みたいだな」
 少し歩いただけで辿り着く闇音の部屋は、相変わらず簡素だ。母屋の部屋に比べると見劣りしてしまうこの部屋で、黒月家の当主は生活している。本来、当主が住まうべき部屋には、今は誰も住んでいない。
 闇音はいつものように床の間を背にして腰を下ろす。私も定位置のようになってしまった、闇音の斜め前に腰を下ろした。
 少し身体をずらして庭の方へ目を向ける。いつもと変わらない静謐な光景に、ほっと息を吐いた。
「闇音?」
「何だ」
 既に書類に目を落としていたらしい闇音は、私が話しかけるとわざわざ顔を上げてくれた。そのことに嬉しさを噛み締めながら、私は表情が緩むのを感じる。
「すごく穏やかだね」
 闇音は柔らかく目を細める。けれどよく見れば、その瞳の奥に暗く燻るものを押し込めているのだと分かった。
 あの一連の出来事に関して、きっとまだはっきりと私に話していないことがあるのだ。それを暗黙のうちに伝える闇音に、私は頷いた。
「大丈夫。私、ちゃんと用心するよ」
 私が怪我を負って以来、闇音が傍にいないときには必ず蒼士さんか真咲さんがいる。闇音は言っていた。不用意に一人になるな、自分が傍にいられないときには真咲さんか蒼士さんを傍に置け、と。
 それはもしかしたら、その二人以外とは二人きりになるな――そういう意味なのではないかと、ずっと考えてきた。それは違うと闇音に否定して欲しいけれど、思い切って訊ねる勇気はない。もしそうだと肯定されたときに、どんな言葉を返せばいいのか分からないからだ。
「お前には辛い思いばかりさせているな」
 静かに、空気に紛れてしまうようにそっと闇音から零れた言葉に、私は目を閉じて首を振った。

 

 

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