「なかなか戻ってきませんねー」
 手足を畳に投げ出した輝石君が、手持無沙汰に呟いた。その声に輝石君へ目を向けた私は、少しだけ首を傾げる。
「誰が?」
「闇音さまが」
 当たり前のように言った輝石君は、しかしすぐに顔をしかめた。今度はその反応に首を傾げた私に、輝石君は更にむっとした表情を作る。なぜこんなにも機嫌が悪くなったのか、私には見当がつかない。
「輝石。今の表情は見られたものではありませんよ」
 聖黒さんは本から目を離さずに、淡々と言った。実際に輝石君の表情は見ていないのに、聖黒さんの頭の中には輝石君の表情がリアルに描かれているのだろう。輝石君は顔をしかめたまま、聖黒さんを振り返った。
「だって美月さまが俺の思ってること全然分かってくれないから!」
「美月様のせいにするんじゃありません」
「だってさぁ」
「でも聖黒。僕もちょっと気になっていたんだけど」
 朱兎さんは輝石君の言葉を手で制止させて、悩ましげな様子でぴたりと私に視線を据える。その視線に言外の圧力があるような気がして、私は上体を微かに仰け反らせた。
「あの一件以来、闇音様はどうやら我らが美月様を好いていらっしゃるようじゃないか。僕ら四神としては美月様がお幸せになるのならいいんだけど……」
「朱兎の意見に賛成!」
 朱兎さんが言葉を濁したそのすぐ後に、輝石君が猛然と言い切った。それにがくりと肩を落としたのは蒼士さんだ。
「輝石。朱兎のどの意見に賛成なんだ? まだ朱兎は何も言ってないけど」
「だから朱兎の言いたいことが俺には分かってるぞっていう話だよ」
「あの、私には分かってないんですけど……」
 そっと手を挙げて小さな声で主張する。蒼士さんと目が合ったと思ったら、あからさまな溜め息を吐かれてしまった。けれどそれにむっとする暇もなく、輝石君の顔が唐突に目の前に現れた。畳の目を利用して滑って私の前まで移動してきたらしかった。
「美月さまは黒龍に嫁いだけど俺ら四神の姫なんです!」
「……はぁ……」
「そこで納得するな、美月」
 ぐっと輝石君を押しのけた蒼士さんが、まるで子供でも見るような目で私を見下ろした。その視線の中には呆れだけではなくて、好意的なものも混じっている。それから蒼士さんは私の肩を掴んで、とても真剣な様子で口を開いた。
「闇音様に嫁いだ以上、美月は黒月家の人間なんだから輝石の戯言には耳を貸さなくていい」
「戯言って……それは言いすぎだよ」
 蒼士さんはどうやらふざけているらしい。表情は神妙そのものだけれど、口調はどこか砕けている。それに眉を潜めると、蒼士さんはふっと笑って続けた。
「半分冗談、半分本気だよ。いいか、これは美月自身が選んだことだ。君は斎野宮には一切知らせるなと言った。本当の意味で黒月家の人間であることを選んだからだ」
「ですが蒼士。美月様の生家が斎野宮であることに変わりはありません。美月様は今でも斎野宮の第一子です」
「いいえ、聖黒さん。美月の決心を鈍らせないでください。美月は今まで曖昧な立場にいました。黒月家の当主夫人とは言え闇音様に見向きもされず、本当の意味では認められていないことを俺たちは知っていました。ですが状況は変わりました。闇音様は美月を認めています――自分の妻として。もう美月を斎野宮から解放してやりましょう」
 蒼士さんの横顔は、いつの間にか本当に真剣になっていた。鋭さと穏やかさが宿ったその表情は、とても頼もしく私の目に映った。
「どうする気です?」
 聖黒さんの静かな声は、もう蒼士さんが紡ぐ答えを知っているように聞こえた。けれど私は話についていけず、次の蒼士さんの言葉を大人しく待つ。
「斎野宮の次期当主として、認めましょう。奥方のお腹の中にいる彼≠」
 蒼士さんの言葉に、息を呑んだのは私だけだった。
 彼を認める――その話の核心をまだ掴み切れていない私は、ただじっと部屋にいる四神の顔を見渡すことしかできない。
「何で?」
 酷く低い不機嫌な声が部屋に響いた。いつもきらきらと輝く瞳を浮かべている輝石君が、今は冷酷とも言えるほどの冷めた視線を蒼士さんに注いでいた。
「それとこれとは別だろ。美月さまは闇音さまに認められた。だけど美月さまの生家は斎野宮だ。その斎野宮は第一子である美月さまを見捨てたんだぞ!」
「見捨てたわけじゃないことくらい、輝石にも分かってるだろう。あのお二人は美月を愛してる」
「愛しているということが即ち、見捨てていないということにはならないと思うけどね」
 すっと顎を上げて、畳を見下ろした朱兎さんの顔つきは彫刻のように一切の温度が感じられなかった。
 ぱたんと本を閉じる音がしたかと思うと、聖黒さんの静かな声が朱兎さんの言葉に続いた。
「斎野宮家の立場は分かっています。美月様の将来が不安定な以上、後継ぎが必要なのだと。我々の意見など斎野宮の前ではまったく力を持たないことも分かっています。ですが、それでも我々は認められないと、令様と有様の前で言い切ったのです」
 水を打ったように静寂が訪れた部屋に、ぴんと緊張した空気が張り詰める。そしてその原因が私なのだということは分かっている。
 四神が斎野宮を訪問して母の懐妊という知らせをもたらしたあの報告の時に、四神はあえて闇音と私には知らせずにいたことがあったのだ。母のお腹にいる男の子を斎野宮の後継ぎとしては認めないと、四神は言ってくれたのだ。私のために――黒月家で闇音に認められずにいた私の斎野宮での立場を確保するために。私が帰れる場所を、守るために。
「ありがとう」
 そっと言うと、全員の目が私へ注がれたのが分かった。顔を上げて、四人の顔をそれぞれ見つめる。その心に応えたいと、願いながら。
「みんなの気持ちはすごく嬉しい。まだ出会ってから長い時間が経っているわけでもない私に、そこまで気持ちを砕いてくれて。なんてお礼を言えばいいのか分からないくらいに、本当にみんなには感謝してるの」
 ぐっと胸に込み上げる思いに言葉が詰まって、続きの言葉が出てこないことに目を伏せる。膝の上に乗せていた手を握っていると、小さな吐息が耳に届いた。
「あなたにとってはそうでも」
 顔を上げると、私を見つめる朱兎さんと目が合った。
「美月様。あなたにとっては出会ってから間もなくても*lたちにとってはそうではありませんでした。僕たちはあなたが生まれた日からずっと、あなたの成長を、蒼士を通して見守ってきました。初めて美月様の姿を見たのは三ヶ月前でも、僕たちはずっとあなたを思ってきました。僕たちの主となる姫君だと」
 朱兎さんの瞳が潤んで揺れたかと思うと、次の瞬間にはその瞳は強い光を宿していた。小さく息を吐き出して、朱兎さんは静かで、荘厳な雰囲気を一瞬にして纏った。
「あなたは誰よりも幸せになるべきです。……いいえ。誰よりも幸せになって欲しいと、願っています」
 胸に込み上げて来ていた思いは、瞳に浮かんだ。涙が滲む目を閉じると、瞼が熱くなった。
 ここまで四人に思われる人間に、自分が相応しいのか分からない。けれど、相応しくありたいと思う。そのために、私には何ができるのだろう? 無条件で慕ってくれるこの人たちに。
「ありがとう。本当に、こんな言葉では足りないくらい、こんな言葉では表現できないくらい――ありがとう」
 目を開けて、改めて四人の顔を見る。四人とも、静かに私を見つめていた。その表情で、これから私が何を続けるのか分かっているのだろうことが分かった。
「私は決めたの。本当に十七を過ぎても生きられるかどうかは分からないけど、でも――信じてる。私は四人の思いを知りながら、死んだりするような人間じゃないって」
 少し笑ってみせると、輝石君がふっと笑ってくれた。けれど笑ってはいけないと思ったのか、咳払いをするとすぐに真面目な表情に戻った。それを見つめて、私は言葉を紡ぐ。
「私は闇音の隣で生きると決めたの。だから、母のお腹にいる赤ちゃん――きっと男の子なんですよね。その子を――私の弟を、斎野宮の後継ぎだと認めてください。私には闇音がいればいいの。両親を捨てるということではないけど、でももう――私に斎野宮はいらないの」
 俯かないように気をつけて、最後まで声が震えないように気をつけて、言い切った。
 両親を捨てるのではない。ただ私が選ぶのは闇音だというだけだ。私のために弟を認めないと言ってくれた四人の気持ちは痛い程に胸に届いたけれど、それを私が黙認していたのでは何も進まない。
 私は前に進んだ。闇音も前に進んだ。両親もきっと進もうとしている。
 それなら今度は、四人に進んで貰わなくてはいけないのだ。
 目の前の聖黒さんは私の言葉を聞いて少し眉を寄せて、けれどすぐに頷いた。
「美月様が望むのでしたら。令様と有様にはこう申しましょう。『後継ぎの御誕生を、四神当主一同、心よりお喜び申し上げます』と」
 ゆっくりと目を伏せた聖黒さんは、いつになく疲れたように見える。けれどそれも一瞬のことで、すぐに輝く微笑を浮かべた。
「けれどそれとこれとは別問題ですよ」
 その発言に、場の空気が一瞬、戸惑いに揺れたのが分かった。三人を見てみても、三人一様に「何を言っているのか」という目をしている。そんなことを思っている私も同じで、いきなりの話題転換に思考がついて行けていなかった。
「朱兎。先程言いかけていた話の続きですよ」
「……あっ。なんだそのことか。蒼士が話題を変えたからすっかり忘れてたよ」
 朱兎さんは綺麗な顔を今は悪戯っぽくしかめてから、私を見た。
「必要以上に闇音様と近づかないでください」
「……え?」
 唐突に言われた言葉に、またもや思考が追い付かない。きっと今私は、酷く間抜けな顔をしているのだろうと頭の片隅で思った。
「僕らが十六年間――厳密に言えば傍で見守っていたのは蒼士一人ですけど――大切に守ってきた姫君をかっさらわれた気分です」
「そうそうそうそう!」
 勢いを取り戻したのか、輝石君が再び前のめりになって私に近づいた。そのあまりの勢いに、私は後ずさりする。
「なんか知らない間に闇音さまが美月さまに優しくなってるし……いや、それはいいんだけどでも俺としてはなんか知らない間に攫われた気分……」
「蒼士はいいのですか?」
 くすくすと、聖黒さんが笑いながら言った。
 その言葉の意味にびくりと肩が震える。ゆっくりと振り返ると蒼士さんが不貞腐れたような表情で聖黒さんを見ていた。
「聖黒さんは本当に意地が悪いですね」
「おや。蒼士にそんな風に面と向かって言われたのは初めてですね」
「……もういいんです。最初から何も望んでいませんでしたし。今は美月と闇音様に幸せになってもらえれば、それで」
「まったく、そんな風になれるのは羨ましい限りですよ」
 聖黒さんは尊敬を含めた眼差しで蒼士さんを見遣った。けれどすぐに私へ目を向けると、きらきらと星が飛ぶほどの笑顔を浮かべる。そろりと目を逸らすのも許してもらえず、私は聖黒さんの目に痛いほどの笑顔を見つめてしまう。
「朱兎の言ったとおりですよ? 必要以上に闇音様に近づいてはいけません。無防備になってはいけませんよ」
「それは必要ない忠告だ」
 どこからともなく低く唸るような声が聞こえたかと思うと、私の前には黒い単衣が私から聖黒さんを遮るように立ち塞がっていた。

 

 

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