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「外れか」
 闇に紛れさせていた身体を月の光の中に踊らせて、闇音は溜め息と共に吐き出した。
 かねてから黒月家に恨みを抱いていたという人間を見つけた、という真咲と蒼士からの知らせに黒月邸を飛び出したのが十時間前。既に日が変わろうとしている時刻になってやっと相手が術を使ったと思えば、その紋様は外れ≠セった。第一、恨みといっても逆恨みも甚だしく、客観的に考えて闇音に的を絞って殺そうとするほどの理由でもなかったのだ。
「俺だったら総帥をやるな。四年前、総帥の自分勝手な判断で起こったことなのだろう。俺を殺そうとする理由は見当たらない」
「……闇音様。そのような物騒なことを」
「何がだ? 総帥の勝手な判断で引き起こされたこと、がか? それとも、俺を殺そうとする理由が見つからない、というところか?」
「敢えて言葉にされなかったところです」
 真咲の苦い表情を見下ろして、闇音はふんと鼻を鳴らした。
 別に、実際に殺そうというのではないのだ。単なるたとえ話にすぎない。それに、闇音に総帥を殺す気など毛頭ない。
 あれでも父親だ――吐き気がするようなことを、心が壊れてしまいそうなことを、無表情の内に、無慈悲なまでに、やってのける人間だが。
「だが、あの総帥を黙らせたいと思ったことはある。俺がこの人間を排さなければならないと。それが都のためになる、と」
 闇音は過去を頭の中で回想させながら呟いて、思い出した。
 そうだ。自分が総帥を父と思わなくなったのは、ちょうどあの頃だ。あの出来事があってからだ――。
 急に袖を強く引かれて、闇音は我に返って振り向いた。そこには真咲が心配そうな表情で佇んでいた。
「どうなさったのです? もうここには用はないでしょう。早く黒月へ戻りましょう」
 真咲の声に、闇音はいつの間にか詰まっていた息をゆっくりと吐き出した。
 不意に過去に戻った感覚が、現実に戻ってくる。闇音は真咲の手を乱暴に振り払わずに、そっと退ける。真咲はそれに驚いた様子で瞠目したが、それに反応するほどの気力は闇音に残っていなかった。
「戻るぞ」
 闇に紛れる声で呟くと、真咲が頷いた気配がする。それを確かめてから一歩、足を進める。過去に迷いこまないように、前へ進める。
 あのことは、もしかしたら今起きている出来事と関わりがあるのかもしれない。
 唐突に頭に過るその考えに闇音は頭を振り払って消し去ろうとするが、思い留まって顔を上げて歩き続ける。消し去ろうとするにはあまりにも強い直感に、闇音は思わず自分の右腕を掴んだ。
「真咲」
「はい」
「一人の人間が、異なる紋様を使い分けることはできないか?」
「異なる紋様、ですか?」
「一つは公の場で使用する紋様。これは家のものでも師から受け継いだものでも何でもいい。もう一つは、公にはせずに使用する紋様。自分の力で、自分の紋様を作る。それらを状況に応じて使い分ける。可能か、否か」
 立ち止まって振り返ると、真咲が困惑したように眉根を寄せて考え込んでいた。暫く何も声を掛けずに答えが出るのを待っていると、真咲ははっとした様子で顔を上げた。
「あっ申し訳ございません。つい、考え込んでしまって」
「いや、それはいい。答えは出たのか」
 静かに問いを重ねると、真咲はさらに困った表情を見せた。
「理論的には可能かと思います」
「理論上、か……」
「はい。一人の人間が一つの紋様しか使用できないとは決まっておりませんし。頑張れば可能かと」
「頑張る≠ニは抽象的な表現だな」
「すみません。ですが、そうとしか言いようがなくて……普通に考えれば自分の紋様を作り出すこと自体が難しいことです。力が強くなくてはできないですし、術を深く理解している必要もあります。ですが逆に言えば、それらを満たせば自分の紋様を作ることは可能ですし、おそらくそのような人間ならば紋様を使い分けることも可能かと」
 真咲の答えに、闇音は首肯だけ返すと踵を返して歩き出した。
 状況に応じて使用する紋様を変えることは理論として矛盾はなく、可能だと結論を出せる。
 だが、それだけの力と頭脳がある人間が、簡単にいるものか? 仮にいたとして、その人間が都合よく闇音の傍にいるだろうか?
「たとえば」
 ぽつりと独り言のような小さな声で呟くのにも、真咲は律義に「はい」と返事を返した。
「紋様を使い分けることができる人間だとするなら、お前も対象に入るな」
「えぇぇ!? なぜです!」
 真咲はこの場にそぐわない素っ頓狂な悲鳴を上げて、闇音に掴みかからんとする勢いで袖を引いた。闇音はそんな真咲を冷たく見下ろして、続ける。
「紋様を使い分けるなんていう高度なことをするんだ。性格を使い分けることくらい簡単だろう」
「そんな、酷いです! 私はずっと闇音様を」
 真咲が言い募ろうとするのを手を上げて制止して、闇音は絡みつく真咲の手を自身の腕から解いた。
「たとえ話だ。何もお前を疑っているわけではない」
「……その根拠は?」
 慎重に伺うような声音で訊ねてきた真咲に、闇音は意表をつかれて足を止めた。そして苦笑を零すと、伊達に三大筆頭ではないなと思い直す。
「お前のことは幼少の頃からずっと知っている。お前は俺に人生を渡した男だ。そうでなければ、三大筆頭の役目を与えたりはしない」
「――つまり闇音様が過去を知らない人間が対象である、と?」
「そういうことだ」
「では四神も全員外してもよいのでは? 聖黒さんも朱兎さんも輝石君も、皆ご存知でしょう? 蒼士は下界におりましたから、あの三名よりも蒼士の方が対象に入ってもよいほどです」
「言っただろう。青龍は美月を傷つけられない人間だ。対象には間違っても入らない。だが、三神は分からない。腹の底で何を考えているのかも、それに彼らの過去をお前のことのように事細かに知っているわけでもない。どこで誰と接点があるか、どこで誰とどんな話をするのかなど、俺は知らないからな」
「では、彰は外してもよいのではないですか。芳香は――彼の過去は分かりません。一般家庭で育ちましたから。ですが彰は悒名家の跡取りです」
「確かに彰は悒名家の一人息子だ。だが悒名当主は彰が生まれる頃、ちょうど西国に派遣されただろう。何十年も一家揃って西国で暮らしていた。俺が彰と面識を持ったのはあいつが三大候補に挙がったときだ。それまでのあいつの人生を知らない。その点では芳香と同じだ」
「……仰るとおりです」
 真咲は顔を俯けて、絞り出すように答えた。真咲の気持ちが分からないわけではない。何年も共に生活をし、仕事をした仲間を見張るような行為を続けている自分を、裏切り者だと感じているのだろう。それを慰めてやれればよいのかもしれないが、生憎闇音にそんなつもりはなかった。
 再び歩き出した闇音に遅れて、静かな足音が続く。その足音が不意に途絶えたかと思うと、今度は急き込むように闇音を追ってくる。闇音が肩越しに振り返ると、何かを思いついたような切羽詰まった表情で、真咲が闇音を一心に見上げていた。
「思い当たる人間が、いるのですか」
 おそらく意図して抑揚のない声で訊ねたのだろう真咲が、闇音を射抜く。闇音はもう一度歩を止めて、それから顔を背けた。
 顔も知らない、だが家庭環境だけは知っている、その人間。
 思い出す、あの日。
 晴天の陽射しが降り注ぐ中、闇音の手を振り解いた小さな手。落ちていった小さな身体。その後を追うように零れ落ちていった闇音の涙。大きな音が響き渡った瞬間に、広がった絶望。
 それら一切に蓋をするように固く瞳を閉じた闇音は、それからゆっくりと目を開けた。
「調べて欲しい人間がいる」

 

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