部屋を満たす柔らかな空気を瓦解させたのは、廊下から響いてきたどすんという大きな音だった。
「真咲ー! どうして何もないところでこけるの!?」
「廊下に滑って……」
 芳香さんの絶叫に混じって、真咲さんの弱々しい声が聞こえる。廊下から聞こえてくる声だけの一連の騒ぎにさっと顔色を変えた蒼士さんが、部屋を飛び出して行った。
「真咲! こけたって――」
「あっ蒼士。大丈夫、ちょっと滑って――」
「滑るとか可笑しいでしょう! どうしていつもいつも真咲は……」
 呆れた二人の声と、あははというどこか頼りない笑い声が相次いで聞こえて、その声の主たちは真っ直ぐ聖黒さんの部屋にやってきた。
 蒼士さんは溜め息を吐きながら、芳香さんは気疲れした様子で、そして当の真咲さんは笑顔で部屋に入ってくる。
「大丈夫ですか? こけたって……」
 真咲さんを見上げて言うと、真咲さんは軽く手を振って、
「大丈夫です。少し膝を打ってしまいましたが、顔を打つ前に芳香が支えてくれたので」
 と爽やかな笑顔で答えた。
 そんな真咲さんを見つめている朱兎さんと輝石君は「そう……」と乾いた笑みとともに零した。
「それで、お二人は一体何のご用です?」
 聖黒さんがいつもどおりの穏やかな笑みで二人を迎えながら訊ねる。芳香さんはすかさず真咲さんを肘で突いて、しゃんとさせた。
「はい、美月様を探しておりました。お部屋に伺ったのですがいらっしゃいませんでしたので、蒼士、朱兎さんと順番にお部屋を伺わせていただいたのです。お二人のお部屋にもいらっしゃいませんでしたので、聖黒さんのお部屋にいらっしゃるのだろうと」
「そうですか」
 真咲さんの受け答えに頷いた聖黒さんは、私へ視線を送る。私も頷いて、腰を下ろした真咲さんと芳香さんを見つめた。
「ごめんなさい。手間をかけさせてしまって。それで、私に用ですか?」
「はい。闇音様から伝言を言付かりました」
 真咲さんは微笑んで言った。けれど私は「闇音」という名前を聞いた瞬間に、驚いて目を瞬いてしまった。
 闇音から伝言だなんて、どんな内容なのかまったく想像がつかない。悪いことではないといいけれど、と思っていると芳香さんは私の心を読んだかのように柔らかく微笑んだ。
「そんなに身構えなくても大丈夫ですよ?」
 楽しそうに笑う芳香さんに、私は身体の力を抜くと少し笑って見せた。それから真咲さんに視線を戻す。真咲さんは小さく頷いてから笑みを崩さずに、けれど真面目な表情を浮かべて言った。
「本日より美月様とお二人で朝食を召しあがりたい、と闇音様が申しております。つきましては、大広間ではなく別棟の方へ足を運んでいただきたく存じます」
 恭しく告げられた言葉とその内容に、私は目を見開いてまじまじと真咲さんを見つめてしまった。
「闇音が、私と二人で、朝食を食べたい――って言ったんですか?」
 告げられた内容をまさか信じられるはずもなく、途切れ途切れになりながら私は必死で言葉を紡いだ。
「ええ。まあ、あの……色々あったんですが、とにかく闇音様が仰ったことには間違いありません。美月様と闇音様の朝食は、今後は別棟に運ぶ旨を伝えてありますから」
 芳香さんは苦笑を浮かべて、そう言った。
 確かに色々あったのだろう。でなければ、闇音が自ら進んで私と二人で朝食を、などとは考えられるはずもなかった。
「私は別にそれでも構わないんですけど、お義父さんたちにはもう断ってあるんですか?」
「いいえ。闇音様は『いちいち総帥に通す必要はない。俺が決めることだ』と仰っておいででした」
 芳香さんは闇音の声真似をしながら話す。私は闇音そっくりの声で――芳香さんの言い方も声もよく似ていた――告げられた内容にさらに焦った。
「それで本当にいいんですか?」
「いいんです。総帥にも奥方にも一切通す必要はありません。そう闇音様が仰っている限り、必要はありません」
 慌てる私を宥めるように、真咲さんが言う。いつもの天然ボケな真咲さんとは打って変わって、落ち着いていて頼もしい声と話し方だった。
「それとですね、闇音様は他にもご所望がありまして――それは美月様が嫌ならば構わないと仰っていたのですが」
 真咲さんは一瞬のうちにいつもどおりの真咲さんに戻ると、聖黒さんに視線を走らせた。私もつられて聖黒さんを見つめると、聖黒さんは困ったように微笑んだ。
「私ではなく、美月様がお決めになることでしょう? 私を見ていても何もなりませんよ、真咲」
「あ、いえ。聖黒さんが筆頭ですので、一応ご了承をと思ったのですが」
「ああ、そういうことですか。私は美月様のご判断に誤りはないと考えておりますので、美月様のご決断に従うまでです」
「そう言い切られてしまうと、少し荷が重いんですけど」
 聖黒さんのきっぱりとした断定口調に、私は肩身が狭くなる。私だって過ちは犯すだろうし、私の判断が必ず正しいなんて、自分でも言い切れないのに。
「……とにかく、話を聞かなくちゃ始まりませんよね」
 ぽつりと私が零すと、蒼士さんが後押しするように頷いてくれたのが見えた。
「それで、闇音は何て言ったんですか?」
 背筋を伸ばして真咲さんの言葉を促す。真咲さんはひとつ頷いてから口を開いた。
「闇音様がお仕事をなさっている間のことですが、美月様にはお部屋にいていただきたいと仰っています。自分が仕事をしている間は、美月様には同じ部屋で傍にいていただきたいと」

 

 

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