騒動から一夜明けたばかりの早朝、私は目を覚ますと急いで支度を済ませて聖黒さんの部屋を訪ねていた。
「聖黒さん?」
 開け放たれた蔀戸から遠慮がちに顔を覗かせて、中へ声を掛ける。聖黒さんは読みかけの本から顔を上げて私を見つけると、どこか罰が悪そうに微笑んだ。
「今、いいですか?」
 駄目だと言われても乗りこむつもり満々だけれど、ここはやはり確認を取るべきだろう。聖黒さんは私がそんな礼儀知らずなことを考えているのを見透かしているのか、困ったように微笑んだ。
「ええ、どうぞ」
 聖黒さんは読みかけのページに栞を挟んでそれを脇へ置くと、すっと背筋を伸ばした。私は「お邪魔します」と告げてから中へ進んで、聖黒さんの前に腰を下ろした。
「聖黒さんのことだから、私がどうしてここに来たのか分かっていると思いますけど」
 じっと聖黒さんを見つめる。綺麗な顔の中に、手当てを受けた傷がある。それに思わず眉を寄せると、聖黒さんは私の視線に気がついたのか着物の袖で傷を隠した。
「お見苦しくて申し訳ありません」
 聖黒さんはいつもどおり柔らかく微笑むけれど、その笑みに覇気はなかった。
「……どうして避けなかったんですか? 聖黒さんなら、簡単だったと思うんですけど……いくら相手が輝石君でも」
 私は自分でも知らない間に聖黒さんに訊ねていた。
 聖黒さんや輝石君の実際の強さは知らない。けれど、二人ともとても強いのだろう。いや、二人だけではなく四神はみんな強いのだろうとその空気から感じられる。そして、その強い四人の中で、特に際立っているのが聖黒さんだと常々思ってきた。玄武で四神を率いている聖黒さんなら、たとえ輝石君が攻撃してきても簡単に避けられたはずだ。そんな確信が私の中にあった。
「避けなかった理由は、あなたには分かっているのでしょう? 美月様」
 そっと手を下ろして、聖黒さんは断言する。微笑みながら、けれど強い瞳で。それに言葉を詰まらせると、聖黒さんは私から目を逸らした。
「両親に口止めされたわけじゃなかったんですね。私のこと」
 そっと訊ねると、聖黒さんは目を逸らしたまま頷いた。その答えに私は少しだけ目を伏せてから、再び前を向いた。
「悪役は、必ずしも必要だとは思いません」
 聖黒さんの静かな横顔を見つめる。私の小さな声に、聖黒さんは哀しげに微笑んだ。
「いいえ、必要です。特に今の輝石や朱兎、それに蒼士にとっては」
「だからって、聖黒さんがそうなる必要は――」
「いいえ。私がなる必要があったのです」
 聖黒さんは私に顔を戻すと、真剣な目で私を見据えた。
「この理不尽な状況下で、誰にもどこにも気持ちのやり場がない。怒りを向ける矛先が必要です」
 ぎゅっと強く手を握って私は俯いた。聖黒さんの静かな言葉が、頭の中に大きく響いている。
「美月様、あなたはこの定められた運命について受け入れる他ありません。ですが彼らは違います」
「……彼らはたとえ私が死んだとしても生き続けるから、ですか?」
「そうです」
 毅然とした聖黒さんの声に顔を上げる。淡々とした声音とは違って、聖黒さんの顔は酷く辛そうに見えた。
「あなたにもしものことがあったとしても、私たちは生き続けます。この先、何十年と――あなたを追って死ぬことは、私たちには許されていませんから」
 聖黒さんはそっと目を閉じた。その顔に浮かんでいた辛さが少しだけ和らいだように見える。
「あなたの運命は私たちには変えられない。私たちには憤りを向ける矛先がない――ですから、私がその矛先を作ったのです」
 聖黒さんが作った矛先は、聖黒さん自身。私が抱える力≠ニいう問題について固く口を閉じていた理由は、聖黒さんがあらかじめ自分自身に落ち度を作っておくことによって、彼らが抱くだろう理不尽な思いを聖黒さんにぶつけさせるため。そうして、彼らの気持ちを少しでも晴らすため。四神の当主である四人は、絶対に斎野宮に逆らえないだろう。だから、聖黒さんは自分が悪役≠ノなって蒼士さんの拒絶も、輝石君の拳も、朱兎さんの冷やかな視線も受け止めたのだろう。
「これで、一時的に彼らの気持ちが落ち着くのには役立つでしょう」
「でもそんなのを三人が望んでいるとは思えません」
「でしょうね」
 聖黒さんは珍しく弱々しい調子で呟いた。
「聖黒さんは、何でもかんでも自分で背負い込みすぎです。どうして三人に何も言わないんですか? そんなの、みんな悲しいと思います」
 目を伏せて呟くと、聖黒さんが微かに微笑んだ気配がした。
「私は四神筆頭ですから」
 その言葉の重さを、私はちゃんと理解できていないのだろうか。それとも、理解しようとしていないのだろうか。四神の筆頭だから、すべて自分で解決しようとしている聖黒さんが、すべての事柄を背負いこもうとする聖黒さんが、悲しく見えた。
「それに美月様がそこまで心配なさることはありませんよ。輝石も、朱兎も、そして蒼士も――彼らは賢い子たちです。すぐに私が取った行動の意味を悟るでしょう――輝石は『すぐ』かどうかは怪しいですが」
 聖黒さんはいつもどおり、少し悪戯っぽく微笑む。その笑顔には覇気が戻っていた。
「仲直り、できますか?」
「ええ。おそらく」
 その笑顔と物言いにほっとして、胸を撫で下ろす。それから何度か呼吸を繰り返してから、私は少し微笑んで言った。
「それならよかったです。みんなには、ずっと仲良くしていてもらいたいですから」
 さらり、と聖黒さんの長い髪が背中を流れる音がした。そんな微かな音が聞こえるほど、部屋の中は静まり返っていた。
「……そんな風に言われてしまうと、困ってしまいますね」
「ど、どうしてですか?」
 聖黒さんの困惑したような声に、私は驚いて聖黒さんの顔をまじまじと見つめてしまった。
「まるで遺言のような言い方ではないですか」
「そんなつもりじゃ――」
「あなたを簡単に死なせるつもりはありませんよ」
 念押しするような、それでいて言い聞かせるような声に、思わず口をつぐんだ。
 闇音にも同じことを言われたけれど、その言葉の響きがまったく違うことに胸が詰まった。
「……私も簡単に死ぬつもりはありません」
「ですが、弱気になっていらっしゃいますね」
 確かにそうだ。死ぬつもりはない、でも心のどこかで無理ではないかと思っている。このまま死んでしまうのだろうという諦めが、確かにそこにある。
 その心の内を言い当てられて、私は再び言葉に詰まった。
「不安なのはあなただけではないのですよ」
 そっと宥めるような声音に、じわりと涙が滲んだ。そのことに自分でも驚いていると、いつの間にか聖黒さんが私の前まで来ていた。
「蒼士はもちろん、輝石も朱兎も、そして私も、皆が不安です。この先どうなるのか分からない恐怖で。ですが忘れないでください。私たちはあなたの傍で、あなたを守り抜きます。たとえその相手が死≠セとしても」
 私の顔を覗き込む聖黒さんの瞳は、果てしなく真摯で、限りなく頼もしかった。他の三人の気持ちまで代弁してくれたのだろうその言葉が、すっと胸に染み込んだ。
 常識的に考えて、それは不可能なことだ。いくら四神とはいえ運命を変える力を持ち合わせているはずがない。けれど、すんなりと信じられた。――信じたいと、願った。
「頼りにしても、いいですか?」
 そっと訊ねた私に、聖黒さんは優しく微笑んで頷いてくれた。

 

 

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