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 静かに部屋に入ってきた真咲に顔は動かさずに、闇音は視線だけを向ける。肘掛けにゆったりと腕を乗せて膝を崩した闇音は、小さく溜め息を吐いた。
「美月様は夕食をこちらで食べられて、それから自室へお戻りになりました」
 真咲の報告を耳に入れるだけは入れて、軽く頷く。はっきり言って、闇音にとって美月の動向はどうでもよかった。
「それで?」
 言葉短く、背筋を伸ばして膝を正している芳香に向かって闇音は促す。
 改まって闇音の部屋までわざわざ来ているのだ。何か――恐らくは美月に関することについて、芳香は芳香なりの話があるのだろう。そう察しての催促の言葉だった。
 芳香は真っ直ぐ顔を上げて、闇音の表情を窺うようする。一瞬だけ芳香の顔に苛立ちのようなものが見える。けれど闇音は頬杖をついてそれ以上は何も言わない。芳香はそんな闇音の様子を見つめてから、端正な顔に戸惑った様子は見せず毅然と口を開いた。
「美月様と向き合ってください」
 静かな、それでいて決して弱くはない声。その言葉の意味を量りかねた闇音は、眉根を寄せた。
「今まで闇音様は、お仕事という理由に(かこつ)けて美月様を避けてこられました。それも、もうかれこれ三ヶ月です。いい加減、美月様と向き合ってくださいませ。あなた様の奥方です」
「――死にかけている奥方、だろう。芳香」
 闇音の口元に酷薄な笑みが宿る。その酷く妖艶な笑みに、芳香は身震いした。
「九ヶ月後には死ぬかもしれない娘だから、同情して、可哀想だと思ってやって、そして傍にいてやれと言いたいのか? お前は」
 闇音の唇は美しい微笑を形作っている。だがその瞳は限りなく冷やかだった。それでも芳香は前を向いて、闇音から視線を外さない。
「違います。美月様のお力を発現させるためです」
「俺が美月と向き合うことで、力が発現するのか?」
「そうは言っていません。ただこの三ヶ月間、美月様のお力は現れませんでした。それでしたら、残り九ヶ月間をこれまでと同じように過ごされては意味がないのではないですか?」
「だから俺が美月を手伝ってやれと?」
 闇音のぞんざいな態度に、芳香が目に見えて嫌悪の表情を露わにした。
「――違います。あなた様が直接、美月様のお力になれることはないかと」
 きっぱりとした芳香の台詞に、闇音はどこか満足そうに微笑んだ。
「では俺が美月と向き合う必要はないだろう」
 しんと静まり返った部屋の中に、愉悦に似た闇音の声が響く。その声に、口を閉ざして事の成り行きを見守っていただけの真咲が、背筋を伸ばして闇音をきつく見つめた。
「闇音様」
 低い、戒めのような声を出した真咲に、闇音が鬱陶しげに視線を走らせた。
「美月様に万が一のことがあった時に、傷つかれるのはあなたです。闇音様」
 真咲の凛とした物言いに、芳香が驚いたように目を見張った。いつも頼りない黒龍臣下三大筆頭の、その役目に相応しい姿だった。
「なぜ、俺が傷つく?」
 ゆっくりと、確認するような、問い質すような、そんな闇音の声が響いた。
「闇音様は美月様を避けていらした。それは大事に想わないようにするための予防線でしょう? だから、美月様が亡くなられたらあなたが傷つかれるのです」
「――俺が? まさか本気でそんなことを言っているのか?」
 真咲の拍子抜けするような返答に、闇音は思わず笑ってしまう。その笑みが段々と無慈悲に温度を下げていくのにも、真咲は動じなかった。
「俺はもう、誰も愛さない。誰も想わない」
 確かめるように、言い聞かせるように、闇音がはっきりと零す。
「だから、あの娘が死のうがどうなろうが知ったことではない」
「だとしても、あなたは黒月の繁栄を望んでいるはずです。それでしたら、他の方法が見つからない今、芳香の提案を受け入れるのが妥当ではないですか?」
 真咲が言葉を継ぐ。その言葉に、決して届かぬ願望が秘められている気がした。
「このままでは、美月様は死にます」
 行燈を消し去った部屋の中、空から舞い込む月明かりだけが部屋を明るく照らしていた。不吉な未来を、その光が浄化してくれることを願うような真咲の声。闇音は小さく嘆息して同意する。
「確かに、このままではまず間違いなく死ぬだろう」
「それでしたら、何か行動を起こしてください。美月様のために――その理由が気に入らないというのなら、黒月家のために」
 家の繁栄だけを願って美月と婚儀を交わした。その闇音にとって、このまま美月に死なれては困る。彼女の死はただの無駄死にとなって、闇音のこれまでの時間もまた無駄になる。その事態を避けたいというのは、嘘偽りない本音だ。
 何が何でも美月に力を発現させてもらわなければ、この家の繁栄は手に入らない。十四年前、兄から受け継いだ跡取りという立場と、この家を守るためにも――。
「――彰は何と言っている。お前たちの意見と同じか?」
「彰も美月様の力を発現させるために尽力する、と」
 闇音の確認に答えたのは、芳香だった。それに軽く頷いた闇音は、空に浮かぶ月を見上げる。けれどその光を目にする前に、厚い雲によってその姿が隠されてしまった。
「……お前たちは臣下三大≠ニいうよりも、四神と同じ役目を負っているように思えるな」
 斎野宮の姫を護るための四神。芳香も彰も、闇音のためというよりは美月のために動いている。
「美月にそれほどの魅力があるのか? こうしてわざわざ、俺に直談判しにくるほどの魅力が。あいつを死なせないために力を尽くそうと思えるほどの、何かが」
「あります」
 闇音の疑いの声は、躊躇いのない声で一瞬にして掻き消される。堂々と闇音を見据える芳香の顔に、信念に似た何かがちらりと垣間見えた。
「闇音様は、それを見てこようとしなかっただけです」
 定められた視線を重苦しく感じて、闇音は目を逸らす。すぐに自分の行動に腹立たしさを感じて、闇音は心の中で舌を打った。
「いいだろう。お前たちの言うとおり、美月と向き合ってやろう。それで力が発現するというのなら、その可能性が少しでも高くなるというのなら、それくらいしてやってもいいだろう――黒月のために」
 そして、今は亡き兄のために――。

 

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