「それでは美月様、ごゆるりと」
 そう言って戸を閉めようとした芳香さんを止めて、私は困って言った。
「あの、まだ闇音の許可は貰ってないんですよね? 本当に私が一番風呂いただいちゃってもいいんですか?」
「ああ、そんなの構いませんよ。事後報告で十分です」
 芳香さんは何てことのないように軽く告げると、にっこり微笑んで――その笑みがどこか意地悪く見えた気がした――ひらひらと手を振って戸を閉めた。脱衣所に一人取り残された私は、暫く呆然と木の扉を見つめる。髪を伝って肩にぽつぽつと雫が落ちるのを感じながら、どうしたものかと考えあぐねる。
 用意された浴布と浴衣を見て、それから湯気で曇る浴室に視線を走らせる。闇音専用の湯殿だというこの場所は、いつも闇音から微かに香る甘い匂いで満たされている。その場に自分が立ち入ってよいものか、未だに判断がつかずにいた。
「美月様、迷っていないで早く入ってくださいね。お風邪を召しますから」
 私の迷いを的確に読み取ったように、戸を挟んだ向こう側から芳香さんの声が聞こえる。私は一瞬身体を強張らせてから戸を見つめる。暫く経っても芳香さんがそこから動く気配はなく、諦めた私は「はい」と消え入るような声で答えた。

 

 

「お湯加減はいかがでした?」
 お風呂から上がって廊下をうろうろと彷徨っていると、後ろから芳香さんの声が聞こえた。ほっと安堵して振り向くと、優しく口元を弛めた芳香さんが立っていた。
「丁度よかったです。あの、闇音は?」
「ああ、大丈夫ですよ。あの後ちゃんと許可を頂きましたから。まあ、許可を頂いたと言っても、もう美月様が湯殿をお使いになっていますって言っただけですけどね」
 芳香さんはやっぱり何てことのないように言う。
「それって、許可になってないんじゃ……」
 私が頬を引き攣らせて呟くと、芳香さんはただ笑っただけで何も答えなかった。その様子に肩を落として、裸足の足元を見つめた。
「お夕食、食べられますか?」
 芳香さんの慰めに似た声が耳に届く。それを聞いた私は、確信とともに顔を上げた。
「――聞きましたか? 私のこと」
 はっきりとした声で、芳香さんに訊ねる。芳香さんは一瞬、言葉に詰まったように見えたけれど、すぐに真剣な表情で頷いた。
「ええ、真咲から。――彰も一緒に聞きました」
 芳香さんの返答に、そうですかと小さな声で返す。これできっと、お義父さんとお義母さんにまで話が伝わるだろう。そっと庭に目を遣ると、静かに佇む石の上に雨が激しく叩きつけているのが目に入った。
「聖黒さんにはちゃんと身体を温めて頂いて、それから彰が傷の手当てを致しました。唇と頬が切れていらっしゃいましたが、その傷は痕など残らないでしょう。少し痣ができておりましたが、そちらも数日で治られる程度だとのことです。今は、聖黒さんは自室で休まれておいでです。蒼士さんと朱兎さんも、今は自室に」
「そうですか……ありがとうございます」
「彰は西家に行っております。白亜さんと輝石君が気になるとのことで――本日は西家に泊まると」
 芳香さんの言葉に頷いて、それから視線を戻す。私のことで四神がばらばらになってしまうなど、考えてもいなかった。どうすればいいのか何も思い浮かばなかった。
「美月様。ご自分を責めないでくださいね」
 ぽつりと零れたような芳香さんの声に、私は彼の顔を見上げた。
「私達はできる限りのことをします。美月様の力が発現するように――その気持ちは四神も三大も同じです」
 柔らかな顔立ちを今は歪めて、芳香さんがゆっくりと強く言ってくれる。その言葉はすとんと心に落ちてくるようで、知らぬ間に顔が綻んでいた。
「ありがとうございます。私も頑張りますね」
 芳香さんに向かってそう言った瞬間、廊下が軋む音が聞こえた。反射的に音のする方へ顔を向けると、そこには闇音が佇んでいた。
「お前の話は終わったか、芳香」
 その台詞は問い掛けではなく、ただの命令だ。「下がれ」という言葉の代わりのそれに、芳香さんは一瞬だけ眉を顰めて、けれどすぐに一礼して歩いて行った。闇音は暫く芳香さんの後姿を眺めるようにして、それから私に視線を移した。
「来い」
 闇音は短く告げて指先で促すと、踵を返して自室に戻る。私は少しだけ迷ってから、その背中について行く。敷居を跨いで部屋の中に入ると、柔らかい行燈の光が部屋を満たしていた。
「座れ」
 私に向かって適当に部屋の中を示しながら、闇音は床の間を背に腰を下ろした。私は自然とその真向かいに腰を下ろして、闇音の顔を見つめた。
 闇音は私の視線を受け止めるように、じっと私を見つめ返す。その瞳が瞬間、厳しく細められた。
「面倒なことになった」
 闇音は小さな声で、溜め息とともに零す。その様子が酷く気怠げに見えて、委縮してしまう。
「ごめんなさい」
 俯いて呟いていた。
 役立たずで。何一つできなくて。力がなくて。そして自分ではどうしようもできなくて。
 力いっぱい拳を握る。震える手を誤魔化すために。そんな自分の弱さを消し去るために。
「――どうしてお前が謝る必要がある?」
 闇音の本当に疑問そうなその声音に、私は俯いたまま目を見開いた。
 衣擦れの音が聞こえて、次いで視界の端に闇音が着ている黒い着物が見えた。
「お前は何か勘違いしているようだから言っておく」
 おずおずと顔を上げると、私の前で膝をついている闇音と目が合った。
「俺はお前を追い出すつもりはない。お前にはここにいてもらう」
 闇音の言葉に目を見張って、彼の顔をまじまじと見つめる。行燈の淡い光に照らされている闇音の顔に、嘘は読み取れなかった。
「私、いてもいいの? 何もできていないのに……このまま、何もできないで死ぬかもしれないのに……邪魔なだけなのに、いいの?」
 そっと呟いた私の声に、闇音が険しげに柳眉を寄せた。
「残り九ヶ月ある。それまではお前にも力が現れる可能性がある。力が発現した時に、お前にはこの家に居てもらわなければ困る。そうしなければお前と結婚した意味がなくなる」
「お義父さんたちはいいって言うの? 私、今は何もできないよ。九ヶ月の間に力が発現するっていう確証だってない。むしろ、このまま死んでしまう確率の方が高いのに、いいって言ってくれるのか――」
「総帥と奥方にはこの件に関して知らせるつもりはない」
 闇音は私の言葉を遮って、強い調子で告げる。その言葉に含まれている拒絶に、私は口をつぐんだ。
「そう易々とお前を死なせるつもりはない。お前には何が何でも力とやらを発現させてもらう。そうしなければ、俺がお前を妻に迎えた意味がなくなるのだから」
 闇音は私の瞳を覗き込むようにして、低い声で言葉を継ぐ。
「だが勘違いするな。俺はお前に生きて欲しいと思っているわけではない。お前個人が生きようが死のうが、俺にはまったく興味がない。俺がお前をここに置くのは、お前がその身体に秘めているという力のためだけだ」
 念を押すように、私の頭と心に言葉を刻みつけるように、闇音は言った。闇音の周囲にある重い空気も、闇音の告げた言葉の息苦しさも、今は何も気にならなかった。
 何度も頷いてから、俯く。
 何の役にも立っていない私を見捨てずにいてくれる。自分で力をコントロールすることもできない私を責めずにいてくれる。
 たとえ闇音が私を道具としてしか見てくれていなくても、それでも今この瞬間に目を逸らさずにいてくれたことが、大きな救いだった。

 

 

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