◆   ◆   ◆   ◆
 

 小さな窓から入る月明かりだけが、男の頼りだった。それが鉄格子を挟んだ向こう側にあるということが口惜しい。だが、ただ口惜しく思うだけで、男にはどうこうしようという考えまでは思い浮かばなかった。
 男は術によって強化された鉄格子によって、完全に逃げ場をなくされていた。それに加えて窓は高い天井に近い場所にあり、人一人も通れない程の大きさだし、念には念をという言葉が聞こえてきそうな程、そこにもしっかりと鉄格子が嵌められているからだ。この監獄≠フ中にいる男には、あの窓から脱出しようなどとは到底考えられなかった。
 第一、男は自力で逃げだそうとは思ってもいなかった。もしかしたら約束が果たされるかもしれない――そう、ほんの少しの希望を抱いていたからだ。
 差し込む月明かりに、蔵の中の埃が舞っているのが見える。それを湿っぽい臭いの中で呆然と見つめていると、ふいに顔に影がかかった。
 ゆっくりと目を向けると、衣被(きぬかずき)を被った人影が目に映った。衣被を被っていること、月明かりはその人物の後ろから差し込んでいることが重なって、男の眼にはその人物の顔が見えない。だが、すらりと伸びた背の高さと体格から、相手が男だということは分かる。
 月明かりの中に浮かぶ上等な衣被と、その人物の影に見覚えがあった男は、確かめる意味も込めて呟いた。
「男のくせに、衣被なんか被んのか」
「その台詞は以前にも聞いた」
 衣被の人物から発せられた声音に、男は顔を引き攣らせながらもひとつ頷いた。
 この男は、自分に金を約束した男に間違いない。美声の域に入る声なのにあまりにも凍てついていることに、初めて声を聞いたときは恐れをなしたほどのその声を、男が忘れられるはずもなかった。
「どうやってここに入ってきたんだよ」
「知りたいのか? でも、知る必要はないと思うよ。お前にはね」
 この監獄からは奇跡の連続が起きたとしても抜け出すことは不可能だが、万が一に備えて蔵の前には見張りが置かれているはずだ。それも一人や二人ではないらしいことが、外から聞こえる声で男にも分かっていた。だがそれをかわすように、衣被はゆったりと断言した。
「失敗したようだね」
 今度は衣被の方から確かめるように紡がれた言葉に、男は目を見張った。ねっとりと絡みついてくるようなその声は、落ち着いていた男の恐怖を呼び醒ました。
「あんなに、人がいるなんて、聞いてない」
「それはお前の落ち度だろう? 私は事前に黒月闇音の予定を調べ、お前に知らせておいた。黒月闇音は外へ出るときは安部真咲しか連れて出ないとね。それを三大が揃い、その上三神まで揃ったところで飛び出せば、誰かに止められるというのは少し考えれば分かるだろう? もっと早くにやっていれば傷くらいつけられただろうに。役者が揃ってから動き出したお前が悪い」
 衣被は冷然と言い放つと、ゆっくりと下を向く。
「それに、傷つけずにすむだろう人を傷つけて――私は黒月美月を殺せと言った覚えはない」
「あの娘が、いきなり前に、出てきたから――」
「そんなのは言い訳だね。とにかく、私は黒月闇音を殺せと言っただけだ。他の誰かを傷つけろと言った覚えはない」
 男の恐怖に染まった顔を見下ろしながら、衣被は淡々と告げる。男はぎゅっと口を引き結ぶと、揺れる眼を暗闇に溶け込むような衣被へ向ける。衣被は面倒そうに嘆息して、顔を背けた。
「元より、お前に黒月闇音を殺せるとは思ってもいなかったけどね。お前などすぐに返り討ちに遭うだろうとは予想がついていたし」
「だったらなんで! 俺にそんなこと頼んだんだよ!」
「お前がそれを言える立場なのかな?」
 散々な言われように恐れも忘れて叫んでいた男は、冷笑を含んだ声で一蹴された。
 顔は見えない。表情すら分からない。それなのに目の前の衣被が恐ろしいほどの微笑を湛えているのだということだけは空気を介して伝わってくる。男は身体が震えだすのを止める術を知らぬまま、ごくりと音を鳴らして唾を飲み込んだ。
「私が金をやるから人を殺せと言ったとき、お前は喜んでいただろう? 金が手に入るのならと言ってね」
「そ、それは――」
「私はお前に忠告しておいたはずだ。顔も見せない相手を信頼するものじゃないよ、とね」
 男の記憶を思い起こさせるように、丁寧に衣被は説明する。
 衣被の言うとおり、男は一度も衣被の顔を見たことがなかった。初めて会ったときから既に、目の前の人物は衣被を深く被って顔を隠していたのだ。いかにも怪しい出立ちで衣被は、男が一生汗水垂らして働いても手に入れられないだろう金額を、黒月闇音を殺せばくれてやると男に言ったのだ。信じられないほどの大金を報酬にやると言う言葉に目が眩み、凶行に及んでしまったのは他でもない、男自身だった。
「だがそれすらも聞き流して、私に協力すると申し出たのはお前の方だ。金に目が眩んでね」
 その言葉にもっともだと思いながらも、男は首を振った。
「失敗しても、あんたは俺を自由にしてくれるっていう約束が、あったはずだ。それはどうなったんだ? 顔も見せないあんたを信じた俺が、馬鹿だったのか?」
 震える声を抑えて男はたどたどしく言葉を紡ぐ。その様子に衣被がふっと笑ったのが分かった。
「この状況で、その話を持ち出せるお前は意外と大物かもしれない」
 衣被は感心したように言いつつも、言葉の端々には男への冷淡な感情が見え隠れしていた。
「いいだろう。その度胸に免じて自由にしてあげよう」
「ほ、ほんとか」
「ただし、そのままでは自由にはできないな。お前は私を知りすぎたから」
「知りすぎたって、どこがだよ。俺はあんたの顔も、あんたの名前も、何も知らないじゃないか」
「お前は私の声を知っている。私の姿形を見ている」
「そ、そんなの知ったうちに入んねーよ!」
「街で私を見かけて気づかれては面倒なことになるからね。黒月家の当主を襲えと糸を引いたのが私だと露見すると困る」
 衣被はまるで宥めるように男に諭す。男はそれに(おぞま)しさすら覚えて、後ずさった。しかしそれはすぐに衣被に止められる。片手を上げただけで男の動きを封じた衣被は、男の目線に合わせて膝をついた。
「術を、解け」
 がちがちと噛み合わない顎で、男は必死に言葉を紡ぐ。それすら感心したように衣被は薄く笑う。
「なんで、黒月家の当主に、執着するんだ。なんで、殺す必要が、ある」
 恐怖に見開いた目で衣被の闇に紛れる顔を見つめる。衣被はふと手を止めてから、呟いた。
「死ぬ必要がある人間だから――それ以外に、理由があると思うのか」
 衣被は低く、美しさの掻き消えた声で言った。その声に、術を解かれたことにも気づかずに、男は硬直したまま衣被から目を逸らせずに見つめた。
「私が受けた苦しみと同じだけ、黒月闇音に与えなければ気が済まない。私がどれほど絶望に打ち拉がれたか――そう考えると、お前はよい働きをしてくれた。お前が失態を犯してくれたおかげで、今まではなかった黒月闇音の弱点が見えたのだから。黒月闇音にも身をもって、私が沈められた地獄を味わってもらおう。そうしてもらわないことには、私は死んでも死にきれない」
 衣被がふと顔を上げた瞬間に、その隙間に月明かりが差し込んで顔が照らし出される。その顔は見惚れるほどの絶世の美しさを持っているのに、瞳は冷眼に染まり、口元には慈悲の欠片すらない。冷艶とは、この男のために存在するような言葉に思えた。
「あ、あんたは」
「だから」
 恐怖に支配されながらも口を開いた男は、衣被の冷やかな双眸に射抜かれて、固まった。ゆっくりと鉄格子の合間を縫って伸びてくる手を、避けることすらできない。
「そのためにも忘れてもらう。私のことは、すべて」

 

◆   ◆   ◆   ◆

 

 

back  龍月トップへ  next

 

小説置場へ戻る  トップページへ戻る

 

Copyright © TugumiYUI All Rights Reserved.

inserted by FC2 system