三十七

 

「俺は五歳だった」
 そっと、闇に紛れる声で闇音は呟いた。苦衷(くちゅう)が滲むその声で、彼がずっと封印してきただろう過去を少しずつ吐露しようとしているのだと分かった。
 固く閉ざした蓋をこじ開けるように、闇音はゆっくりと口を開く。その唇から洩れる声はあまりにも悲惨だった。
「あれはよく晴れた日だった。俺はいつもどおり部屋に引き籠っていて、真咲と一緒に書物を読んでいた。それしか、することがなかったから」
 闇音は儚い横顔を伏せて、そっと目を閉じた。横顔に浮かぶのは純粋な思慕の念だった。混じりけのない純粋な感情が、闇音の過去を知らせてくれる。
 闇音は幸せだったのだ、と。それだけでも、闇音は十分幸せに暮らしていたのだと。
 先程とは一転して安らかな横顔の闇音を、月明かりを頼りに私は目に焼き付けていた。
「そんな俺のところに、唐突に兄上がやってきた。こんなに天気がいいのに一人で本を読んでいるだけでいいの、と言って。兄上は俺を外へ連れ出すと、二頭の馬を見せて遠乗りに行こうと誘ってくれた。そのうちの一頭は兄上に献上された馬だと、女中が話しているのが聞こえた。俺は兄上が訪ねて来てくれたことが嬉しくて、立派な馬を見ることができたことにも上機嫌だった」
 思わず闇音に手を伸ばそうとして、それをやめる。闇音はきっと私の手を振り払わないだろう。けれど、それをしてはいけないと直感が伝えてきたのだ。
 闇音は思い出を語る懐かしさの中に、もう手が届かないことへの悲しみを滲ませている。見上げる横顔はどこまでも苦しそうで、紡がれる言葉は身を切り裂くように切ない。けれど闇音は一人、誰にも頼らずに過去に立ち向かおうとしているように私の目に映った。
「俺は青毛と鹿毛の二頭の馬が用意されているのを見て、青毛が兄上のために用意された馬だとすぐに分かった。黒月の当主となるのは兄上だから、兄上に希少な馬を献上したのだろうと。けれど俺はそれを分かっていながら、青毛の馬に乗りたいと兄上に言った。兄上は優しいからきっと一度くらいなら我儘を言っても許してもらえると、簡単に考えていた馬鹿な子どもだった。兄上は我儘を言う俺にただ優しく笑いかけて、いいよ、闇音がそれに乗りたいなら、と言ってくれた」
 闇音はゆっくりと顔を上げる。その横顔に、言葉では表すことのできない感情が浮かんでいた。
 酷く後悔しているのだと、そのことで耐えがたいほどの痛みを受けたのだと分かるような表情。
 そんな感情を抱えてきて、そんな表情をこんなにも簡単に作ることができる闇音が、酷く労しい。私は自分でも気がつかない内に、強く唇を噛み締めていた。
「俺はそれに喜んで青毛の馬に乗った。兄上は鹿毛に騎乗して、あまり急かしては駄目だよ、と後ろから俺に言ってくれた。俺はそれを聞いていたはずなのに、並足から駆足に馬を急かした。見上げれば綺麗な青空で、少し後ろからは兄上の馬の蹄の音が聞こえて、上下に揺れる身体がただ楽しかった。だが、それもすぐに終わった」
 闇音は言うと、強く拳を握り締めた。あまりにも力を入れ過ぎた拳は白くなっている。闇音は口を開いて言葉を探すようにして、けれどすぐにまた口を閉ざした。強く閉じられた瞳が、その先を語ることを拒絶しているように見える。
「もう、話さなくていいから」
 手を伸ばして闇音の拳に手を置く。静かに言葉を紡ぐと、闇音はそっと目を開けて私を見た。
 闇音が辛いことを強いたくない。それだけの思いで闇音に触れる。力が入り過ぎて固かった拳が、ゆっくりと解かれていくのを感じた。
 見つめ合ったまま闇音の手を握ると、彼は私の手をほんの少しだけ握り返した。それから闇音はただ首を左右に振ると、手を握ったまま目を逸らした。氷のように冷たくなっている闇音の手を、少しでも温めようと私は両手で彼の手を包む。闇音の決意ごと包めたら、と願いながら。
「後ろから、馬の(いなな)きが聞こえた。そのすぐ後に兄上についていた従者たちの悲鳴が聞こえて、俺は手綱を強く引いた。振り向くと、俺のすぐ後ろについてきてくれていたはずの兄上の姿はなかった。一気に血の気が引いたのが分かった。俺は馬から飛び降りて、人垣ができている場所に向かって夢中に走った。途中で俺に駆け寄ってきていた真咲が、俺を抑え込むように後ろから俺の目を覆った。見てはいけません、と真咲は俺に何度も囁くように震える声で言った。俺はそれを振り切って、走り寄った。従者たちを掻き分けて見ると、兄上が馬の下敷きになっていた」
 闇音の声も、微かに震えていた。私の手を握る力が強くなる。私はそれに応えるために、私はここにいるのだと知らせるために、その手をぎゅっと強く包んだ。
「やっと見えた兄上の顔は血まみれだった。兄上は朦朧とした目で俺を捉えると、言った。大丈夫だよ、このくらい、すぐによくなるからね、と。闇音が無事でよかった、と。苦しいはずなのに笑顔で、言った」
 闇音の横顔は変わらない。涙も何も浮かんでいない。けれど私はその横顔を見るだけで、辛くなった。
 龍雲さんの命日に、闇音は言っていた。『兄上を思っても、もう涙すら流れない』と。
 それはもう涙すら枯れるほど、苦しんで悲しんで、泣いたからではないのか。涙の浮かぶことのない闇音の瞳に、その跡だけはくっきりと残っている。それが分かるのに、何もできない自分が歯痒かった。
「咄嗟に俺は、何もできなかった。兄上が俺に手を伸ばしてきてくれたのに、俺はそれを取れなかった。俺は従者たちに埋もれて後ろに追いやられて、従者が馬をどかし兄上を運んでいくのをただ呆然と見ているしかできなかった。兄上は母屋の自室に運ばれて、でも治療の甲斐なくすぐに息を引き取られた。打ち所が悪かったと、医者が両親に話しているのを、俺は廊下で聞いた。両親が泣き叫ぶのを、俺は廊下で聞いていた」
 闇音はぼんやりと外を見つめる。暗闇だけを映す瞳に、光はない。そのまま遠くへ行ってしまいそうなほど遠い闇音に、私は手を握り続けることしかできなかった。
「父も母も、どうして龍雲が、と咽び泣いて繰り返していた。兄上が亡くなったことはすぐに都に知れた。俺は新しい後継ぎになった。そのことで俺が母屋に上がるかどうかという話を、両親と父の三大が相談しているのを俺は忍び聞いた。俺は別棟でも寂しくはなかった。でも、それでも心のどこかでは望んでいたんだろうな。少しだけ、ほんの少しだけ期待している自分がいた」
 闇音は小さく息を吸い込んで、続く言葉を紡ぐ。表情は変わらなかった。
「父は、あれを別棟から出す気はない、と三大に言った。母は、龍雲が死んだのはあの子のせいだ、と言った。それから二人は言った。どうして死んだのが龍雲だったのか、と。龍雲ではなく、闇音だったら……と」
 闇音はそう言いながら、少しだけ眉を寄せた。それは悲しみと諦めの感情だった。嘆きすら、怒りすら表さない闇音に、私の心の方が砕けそうだった。
 どうしてそんな酷いことを言われても、そんな風に自分が悪いのだという表情を浮かべるの?
 力強く闇音の手を握ると、左肩に痛みが走った。けれどそれすらも気にしていられないほどに、目の前の闇音が痛かった。すべてを受け入れた闇音が、辛すぎた。
「そう言われて、悲しいよりも納得する自分がいた。そうだった、俺は邪魔ものだったのだ、と。それから分かった、俺がどれほど酷いことを望んでいたのかを。俺は、心のどこかで思っていた。兄上が亡くなられたとき、思ったんだ。兄上が亡くなられたなら、両親は俺を見てくれるのではないか、と。俺の存在を認めてくれるのではないかと」
 淡々とした声で闇音は言葉を紡ぐ。まるでそれが重罪に値する言葉だとでも言うように。
「兄上が亡くなられたなら、両親は、俺を愛してくれるのではないかと」
 静かに落とされた言葉は、身を引き裂くよりも辛い響きを持っていた。その言葉を落とした本人は、まるでそれが戒めだとでもいうように、それに囚われたままでいる。
「両親が俺を愛さないのは当たり前だ。俺は、俺を愛してくれていた兄上が亡くなったというのに、こんなにも醜いことを望む人間だから。それなのに、それすらも忘れるように薄れて、今では二人を疎んでいるのだから」
「違う」
 戒めから解放する手段を、私は知らない。それでも、救いたいと願うのは間違っていないはずだ。
 手を強く握っていると自分の瞳から涙が一滴、その上に零れ落ちた。けれどそれを拭う余裕はなく、私は闇音を一心に見上げた。
「それは、いけないことなの? 両親に愛されたいと願ったことが、悪いことだったの? たった五歳の子どもが、両親に愛されたいと願うのは罪じゃない」
 つっかえる言葉を、ゆっくりと伝えるために闇音の瞳を覗き込む。闇音は目を見張って、私を見つめ返していた。
「闇音が龍雲さんを慕っていたことは、ちゃんと伝わってるよ。ご両親のことも、闇音が大切に思ってること分かってるよ。私はここで、こうして闇音の話を聞いただけなのに、心が痛いほどその気持ちが伝わってきたから」
 そっと言うと、闇音は俯いた。闇音からは、聞き取れない程の小さな声が聞こえてきた。私はそれを聞き逃さないように、真剣に闇音を見つめた。
「兄上は死んだ、俺のせいで。白亜を遠ざけたのに、白亜も精神を病んだ。それもきっと俺のせいだ。今度はお前だ。お前は俺のせいで怪我を負った。そうしてまた、俺の傍にいることで、お前は死ぬ。だから俺はもう、お前に近づかない。俺はもう、お前を死なせたくない」
「死なないから」
 きっぱりとそう告げると、闇音がゆっくりと顔を上げる。私は闇音に頷いてから、口を開いた。
「死なないから。絶対に、闇音を残して死んだりしないから。運命も何もかも変えてみせる。十七歳の誕生日を、闇音の隣で笑って迎えてみせるから――私を信じて」
 今言った言葉が真実になるように願いを込めながら言葉を紡いだ。
 心の底から湧きあがってくる思いを爆発させないように気を払いながら、ただ私は闇音だけを見つめる。闇音は少しだけ困ったような表情を浮かべて、目を閉じた。
「お前には、敵わないな」
「今頃気づいたの?」
 笑ってみせると、闇音は目を閉じたまま柳眉を寄せる。私は続けて、そっと言葉を紡ぐ。これが戒めを解く言葉になるようにと、心を込めて。
「闇音。もう自分を許してあげて。闇音は、悪くないよ」
 闇音は柳眉を険しく寄せたまま、そっと目を開けた。そして私を見ると、呟いた。
「ありがとう」
 闇音の唇から紡がれた言葉が静かに私の胸に降りてくる。闇音の瞳から、一筋の透明な雫が零れ落ちた。
 引き寄せられた身体を受け止めてくれた胸に顔を埋めて、ただ闇音のためだけに祈った。

 

 

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