三十六

 

 庇ってくれたと知っている。怪我の手当てもしてくれたと、知っている。それを伝えるためにじっと闇音を見上げて、手を握る。
 闇音は頼りなさげに揺れる瞳で私を見下ろしてから、そっと私を布団に押し戻すように額に触れて押した。その行為の優しさに、私は目を見張る。闇音にこんな風に優しく触れられたことは今まで一度もなかった。
 何かが変わったのだと、何かが闇音の中で変質したのだと、はっきりと分かる空気の揺れがそっと、ゆっくりと私を覆う。
「熱が高いのに、くだらないことを訊くな。とにかく今は寝て――」
「逃げないで。誤魔化さないで」
 額に当てられた手を取って、闇音の両手を胸の前で合わせて自分の両手で包み込む。闇音は困ったように私を見下ろしてから目を伏せた。
「私は何も、考えてなかった。ただ、闇音が危ないって思ったら、身体が前に出てた。それだけなの。闇音は? どうして、私を庇ってくれたの?」
 真っ直ぐ闇音から目を逸らさずに訊ねると、闇音が目を閉じた。包み込む手の内から、闇音の手がするりと抜けていく。そっと自分の両手に目を落とすと、闇音の手を失って細かく震えているのが見えた。
「お前が俺を庇ったから」
 静かに呟かれた言葉に、震えが止まる。ゆっくりと目を上げると、闇音と真っ直ぐ目が合った。その瞳には、もう迷いも惑いもなかった。
「……いや。本当は何が理由か分からない。気がついたら、庇っていた。見捨てた方がよっぽど楽だったのに、見捨てられなかった」
 部屋に差し込む月明かりが、闇音の声を照らし出すように鮮明にする。闇の中に紛れなかった言葉が耳に届いて、私は痛みも身体のだるさもすべて忘れて、闇音の優しく、けれど限りない悲しみに満ちた顔を見つめていた。
「でも、これで最後だ。もう関わらないから――お前ももう俺のところにいなくてもいい。斎野宮へ帰りたければ帰れ。下界へ降りたいというのなら、戻れ。もう俺に関わらなくていい」
 闇音はまるで慰労するように私にそう言った。それが私にとって一番よいことなのだとでも言うように。
 その言葉に暗闇に叩き落とされたような気がした。せっかく触れ掛けた闇音に、手を差し伸べる暇もないままに。
 咄嗟に言葉が出てこなかった私を、闇音は穏やかに見つめてから立ち上がろうとする。傍にあった温もりが消えていくそのことが、酷く心細く感じられる。
 無様になっても構わない。遠ざかろうとする闇音を引き止めようと、彼自身ではなく着物に手を伸ばした。
「待って、闇音。どうして、そんなこと言うの? 私が邪魔なら、そう言えばいい。そんな風に、遠ざけるようなこと、言わないで」
 闇音の着物を握って、途切れる息で必死に募る言葉を継ぐ。闇音は歩みを止めると、そのまま微動だにしなかった。
「私は、闇音の傍にいたいのに。いらないなら、はっきりいらないと言われた方が、ずっといいよ」
 ずきずきと再び傷が痛み出す。熱でくらりと視界が回る。それでも立ち上がろうと足に力を入れていると、ふいに闇音が身を翻した。
「どうしてだ? 話を聞いただろう」
 闇音は苦しみに押し殺した声でそう言いながら、私の傍に屈んだ。私はその着物をもう一度ぎゅっと握って、闇音の顔を見上げる。近くで見えた闇音の顔は、声と同じく苦悩に染まっていた。
「お前は俺を知らないからそんなことが言えるだけだ。俺がしたことを知らないから、俺が望んだことを、知らないから」
「知ってたとしても、同じことを言うよ。私は、闇音の傍に、いたいの」
 気づいた気持ちがある。
 あのとき、咄嗟に闇音を庇ったのは、闇音に怪我を負わせたくなかったからだ。今、怪我のない闇音を見て安堵している自分がいる。自分が負った傷の深さなど、気にならない程に。
 闇音への後ろめたさから彼を気遣っていた、あの気持ちとは違う。ただ闇音を知りたいと、闇音を喜ばせたいと純粋に思っている。
 泉水さんへの気持ちとは全然違う。私がこの場所から姿を消すことで闇音が幸せになれるのだと言われたとしても、そうできない程に闇音を想っている。闇音の隣にいて毎日を過ごしたいと、傍にいたいと願っている。
「私は、闇音が好きなの」
 誰のためでもなく、ただ闇音を想っている。
 ぎゅっと着物を掴み続けて、闇音の胸にもたれかかる。こうすれば、闇音は出て行かずに傍にいてくれるかもしれないと、ずるく思いながら。
 闇音はそんな私の思いすら見抜いているように、そっと私の腕を掴んで引き離した。自然と涙が溜まっていた瞳を上げると、一筋涙が零れ落ちる。闇音はそれを見下ろして、口を開いた。
「俺といれば、きっとお前は死ぬ」
「死なない」
「……総帥が言っていることは合っている。俺のせいで兄上は死んで、俺と関わっていたせいで、きっと白亜も精神を病んだんだろうから」
 違う、と強く首を振る。闇音は私の腕から手を離すと、少し身体の向きを変えて外を眺めるように遠い目をした。
「俺は黒龍の血が強いから。黒龍の役目を知っているだろう? 人々に悲しみをもたらす存在――その末裔の、俺は……」
 静かに呟いた闇音の瞳は何もかもを諦めた、絶望に光を失ったものだった。

 

 

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