三十二

 

「あら、闇音様たちですね。お仕事、予定より早く済んだんでしょうか」
 芳香さんはそう呟くと「真咲!」と大きな声で呼びかけた。声に反応してぴたりと足を止めた真咲さんの背中は、構わず歩いて行く闇音に戸惑っているように見えた。けれど結局、真咲さんは振り返って遠くからでも分かるほどの笑顔を浮かべた。
「みんなも今帰り?」
 早足で真咲さんに追い付いた私たちの顔を順に見つめて、真咲さんは訊ねる。それとなく芳香さんが真咲さんの荷物を受け取りながら頷いた。
「今日は呉服屋さんと駄菓子屋さんで一日が終わったの」
 芳香さんは「見てよ」と言いたげに彰さんと朱兎さん、そして私の紙袋を指差した。真咲さんは機嫌がよさそうににっこり笑って、私の紙袋の中を見下ろした。
「随分と買い込まれましたね」
「その台詞は先程聞いたばかりですね」
「聖黒さん」
 さらりと口を挟む聖黒さんに、少し不満げに芳香さんが名を呼ぶ。それにくすりと笑ってから、聖黒さんはどんどん歩いて行く闇音の背中を見つめた。
「お仕事はもう終わったのですか?」
「はい。予定よりもずっと早くに終わって、黒月に帰るところでした。――闇音様、お待ちください!」
 丁寧に聖黒さんに答えた真咲さんは、急いで闇音を振り返ると大きな声で呼びかける。闇音は軽く振り向いて、顎だけで促した。その反応に対して芳香さんは大袈裟に嘆息する。それを闇音から隠すように、真咲さんがすっと前に出て歩き始めた。
「すみません。ご機嫌がよくないのか……」
「もう慣れましたよ。ねえ、美月様」
 女性のような柔らかな顔立ちからは想像できない程、芳香さんは不機嫌に声を低くする。咄嗟に答えられなかった私は苦笑を浮かべて芳香さんを見上げた。
「とにかく僕たちも帰らなくちゃね」
 ぽんと芳香さんの背中を押しながら朱兎さんが促すと、芳香さんは重い足取りで歩きだす。それに合わせるように全員が闇音の背中を追って歩き始めた。闇音は一人、構わずに進み続けている。
「朱兎も黒月に戻るのか? 優花にお土産渡したいんじゃないのか」
「え? そうだね……でも明日でもいいかな。駄菓子はすぐに駄目になったりしないでしょう?」
「でも朱兎さん。優花ちゃんにすぐに会いに行かなくてもいいんですか?」
 何気なく訊ねると、朱兎さんは表情を固めてすっと眉根を寄せた。
「確かに会いたいですけれど、そんなに優花に依存しているわけじゃないんですよ。僕は」
「あっごめんなさい。なんだか癖になってしまって……」
「癖≠チて、美月様それは酷いです! これも全部三人のせいだ……僕を執拗にしすこん呼ばわりするから、美月様の脳には優花がいないと生きていけない男として植えつけられてるじゃないか」
「植えつけじゃないと思うけどな」
「そうですよ。それに似た発言をしていたではないですか。『優花を残しては死ねない』と」
「それとこれとは意味が違うでしょう」
 聖黒さんに言い返す朱兎さんを笑って見つめてから、私は前を向く。二人のやり取りをどこか遠くで感じながら、闇音の背中を追う。
 相変わらず振り向きもしない闇音は、こちらのことなど意識の片隅にも入れていないのか足早に歩いている。どんどんと距離が広がっていく。
 まるで、このまま一人だけどこか違う場所へ行ってしまいそうに、遠い。
 そう思ったときには、足を大きく踏み出していた。前を歩く三大を勢いよく追い抜いて、たくさんの甘いお菓子が詰まった紙袋を強く抱きしめる。一歩一歩、確実に闇音に近づいていきながら、闇音の寂しげな背中を一心に見つめる。
 あの背中に追い付くことができたら――この距離ではなく、彼の心へ追いつけたなら。そうすれば、少しは変わるだろうか。彼に定められた未来は。少しは戻るだろうか。彼の顔に笑顔が。
 気が急いて、いつの間にか小走りになっていた。闇音は気配で人を探れるはずだ。私が近づいていることにも当然、気がついているだろう。けれど闇音はゆったりと毅然と気高い歩調で、速度を弛めることはなかった。
「闇音」
 弾む息を整えながら声を掛けると、闇音は歩みを止めずに目線だけを私へ向けた。
「お仕事、お疲れ様」
 意識して微笑みかけても、闇音の表情はお面のように変わらない。眉を動かすことすらせず、闇音は私に一瞥をくれただけで顔を上げて前を向く。
「今日ね、街に出て」
「お前の一日に興味はない」
 闇音は冷たく私の言葉を遮ると、私を振り払うように歩調を早めた。一瞬、呆然として足を止めそうになる。けれどなんとか足を動かし続けることに成功して、私も歩調を早めた。もうほとんど走っているといっても過言ではない。
「そうだよね。ごめん」
 苦笑を浮かべて平然とした声で言葉を絞り出す。
 恐ろしく表情を変えない闇音の横顔のあまりの冷たさに、心臓がどきりと跳ねた。その事実に首を振って否定する。
 これは急ぎ足で歩いているからなのだ――と。

 

 

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