二十四

 

 兄を慕う優しい少年が、冷たく他人を信じない人間に変わるには、一体何が必要だろう。慕っていた兄の死――それだけだろうか?
 昨夜はそんなことばかり考えていてなかなか寝つけなかった。寝不足な頭を無理やり起こして別棟に向かう。
 昨日の夕食は、闇音は仕事で不在だった。けれど私には分かってしまった。闇音は私と同じ空間にいたくなかっただけなのだと。
 本当に仕事があったのかもしれない。けれど、そうなのだとしたら闇音はわざと仕事を遅らせたのだ。闇音の時間配分に抜かりがないことは、数日一緒に過ごした私にはよく分かっていることだった。
 別棟に向かう足が重い。正直に言ってしまえば、闇音に会いたくはなかった。
 闇音の冷たい態度が嫌なわけじゃない。それにはもう慣れてしまった。一つ気掛かりなのは、私の言動のみだ。
 もし、闇音を傷つけるようなことを言ってしまったらどうしよう? 昨日のように失望させてしまったらどうしよう?
 闇音にこれ以上嫌われたら、どうしよう?
 そう考えて、私ははたと足を止めた。
 闇音にこれ以上嫌われたら、どうしよう?
 なぜ私はそんなことを考えているのだろう。闇音に嫌われているのは重々承知だ。その上、嫌われても構わない、嫌がられても闇音と向き合おう、闇音の過去を少しでも知って真咲さんの言うように救えたら――と思っていたのに。なぜ嫌われることを恐れているのだろう?
 考えに夢中になって歩いていると、突然視界が暗くなって顔面に衝撃が走った。驚いて身を退くと、前を歩いていた聖黒さんが苦笑を浮かべて振り返っていた。どうやら聖黒さんにぶつかってしまったらしい。
「すみません! 大丈夫ですか?」
 鈍く痛む鼻を抑えながら聖黒さんを見上げると、聖黒さんはますます苦笑を大きくした。
「私は大丈夫ですが――美月様の方が、大丈夫ですか?」
「大丈夫です」
 無意識に鼻を擦っていた手をぱっと話して笑顔を作ってみせる。聖黒さんはくすりと笑って前を向いた。
「美月様。何か考え事ですか?」
 きょとんとした朱兎さんの声が隣から掛かる。聖黒さんが前を向いたのを見計らって再び鼻を擦っていた私は、隣を見上げて力なく笑った。そして再び歩き出そうとして、今度は後ろから腕を引かれた。なんだか踏んだり蹴ったりな気持ちだ。
「美月」
 耳元に屈んだ蒼士さんが、私の名を呼ぶ。そっと顔をそちらへ向けると、蒼士さんは私に前を見るように促した。
 それに素直に従って前を向く。聖黒さんは立ち止まったまま前方を見つめていて、その視線を追っていくと真咲さんと、その後ろに庭へ目を遣る闇音が見えた。
「闇音」
 ぽつりと呟くと、その声が聞こえたはずもないのに、闇音は庭から目を外して真っ直ぐに私を見つめた。目が合って、少しばつが悪くなる。昨日は結局、闇音とはすれ違ったままだった。
 二人はどんどん私たちに近づいて来て、闇音の前を歩く真咲さんは私たちの前で律義にも立ち止まって礼をした。
「おはようございます。今、美月様のお部屋に向かっているところだったんです。ちょうどお会いできてよかったです」
 真咲さんはにこっと笑って私を見ると、促すように闇音を振り返った。闇音はその視線にあからさまに嫌な顔をしてから私へ視線を移す。その表情で昨日のやり取りを思い出してしまって、私は俯いた。
「俺はこれから仕事で屋敷を空ける。今日は別棟に来なくていい。お前も出掛けたいなら出掛けろ」
 闇音は淡々とそれだけを告げると歩き出す。一瞬のうちにすれ違った闇音を思わず追って、無意識のうちに闇音の後姿を目が追った。
「闇音。帰りは何時になるの?」
 呼び掛けると闇音は立ち止まって、けれど振り返らないまま呟いた。
「夕食はお前一人で食べろ。俺は遅くなる」
 闇音は再び歩き出す。きっともう一度呼び掛けても、今度こそは立ち止まりもしないだろう。ゆっくりと遠ざかって行く背中が、そのことを雄弁に語っていた。
「美月様。私は闇音様と一緒に出掛けるのですが、彰と芳香は屋敷に残っています。よろしければ、輝石君が到着してからでもみんなで街にお出掛けになってはいかがですか? その――気晴らしになるかもしれません」
 遠く真咲さんの声が聞こえてくる。ぼんやりと声のする方に目を向けると、困惑したような真咲さんの顔があった。
 慌てて笑顔を取り繕って頷いてから、別棟の方を指差した。
「二人は別棟ですよね? これから朝食ですか?」
「ええ。二人はこれから。あっ。美月様も別棟で朝食を召し上がられますか?」
「そうできますか? きっと輝石君も、真っ直ぐ別棟に来ると思うので」
「ではそのように伝えておきましょう。皆さんの分の朝食も、別棟に運ぶように取り計らっておきます」
 真咲さんは三神に向かって笑顔を向けた。
「真咲。それは有難いですが、もう闇音様の姿は見えなくなっていますよ。急いで追わなくてもよいのですか?」
 穏やかな聖黒さんの声につられて、真咲さんは勢いよく進行方向に顔を向ける。それから一瞬のうちに目を見開いて、慌てて駆けだした。
「すみません、それでは私はこれで! あっ、ちゃんと朝食のことは給仕に伝えておきますからご安心を」
 真咲さんは走り去りながらそれだけを言うと、すぐにその姿を廊下の奥へ消した。

 

 

back  龍月トップへ  next

 

小説置場へ戻る  トップページへ戻る

 

Copyright © TugumiYUI All Rights Reserved.

inserted by FC2 system