二十三

 

 私の部屋まで送り届けてくれた蒼士さんは「仮にも体調が悪いということなんだから」と言って、どこからか持ってきてくれた布団を敷いてくれた。
「今日はゆっくり休むといい。闇音様も美月も根を詰めすぎなんだよ。今まであまり一緒にいることがなかったのに、いきなり一日中一緒にいればお互いに疲れるだろ」
 蒼士さんはそう言うと、布団の上に座ったままの私の膝に掛け布団を掛けてくれた。
「でも、時間がないから」
 思わずそう零してしまってから、はっとして口をつぐんだ。けれど時は既に遅く、悲しげな顔をした蒼士さんが見えた。
 時間がない――それは間違いじゃない。私はもしかしたら九ヶ月後には死ぬかもしれない運命を生きているのだから。けれどそれを口に出すと、きっと私以上に辛く思う人がいるだろう。目の前の蒼士さんのように。
 蒼士さんは目を伏せて、何も言わずにただ私の手を握った。その手がとても柔らかく温かい。暫くの間、私の手を握っていた蒼士さんはそっとその手を離して、小さく息を吐いた。その瞳に、先程までの深く沈んだ色はもうなかった。
「蒼士さん。一つ、訊いてもいい?」
 蒼士さんの様子に少し安心して訊ねる。蒼士さんは軽く首を傾げて私を促した。
「私が蒸しタオルを取って闇音の部屋に戻ったときは、部屋の襖を開けてたでしょう? でもどうしてさっきは閉めてたの? ……お義父さんが来たことと、関係あるの?」
 躊躇いながらも口にする。すると蒼士さんは悲しげに頷いた。
「闇音様と龍輝様が上手くいっていないことは俺たちも知っているからな。龍輝様が別棟にいらっしゃることも珍しいし、それなら闇音様によっぽどのお話があるのだろうと思って、話が聞こえないようにと襖を閉めたんだ」
「じゃあ、みんなもお義父さんが別棟に来た理由は知らない?」
 続けて訊ねると、蒼士さんは頷きながら「少なくとも俺たち四神は」と答えてくれた。
 こうなると、お義父さんがわざわざ別棟に来た理由が何だったのか気になる。けれど闇音はわざと話を避けたようにも見えたし、私が出しゃばってもいい顔をしないだろう。
 考えあぐねていると、蒼士さんが小さく息を漏らしたのが聞こえた。
「闇音様のことを知りたいのか?」
 静かに訊ねられて、私は一瞬止まる。
 もちろん知りたい。そう思う気持ちが確かにある。ここで頷けば、もしかすると蒼士さんが闇音のことを教えてくれるのかもしれない。けれど、それは闇音に対する裏切りにも思えた。
 蒼士さんの瞳は真剣で、不安を振り払うために私から目を逸らさずにいるようにも見えた。私は気がつくと、その視線から目を逸らさずに首を振っていた。首を振ったことに多少なりと驚いている自分がいた。
「知りたい。でもそれは闇音から聞きたいの。誰かに教えてもらうんじゃ意味がないと思うから」
 布団を握って答えると、蒼士さんが真剣な表情を浮かべて頷いた。それから少し身を退くと逡巡しているような表情を見せてから、蒼士さんは呟いた。
「でも時間がない≠だろ?」
 蒼士さんの静かな声に、否定することはできない。それは真実で、避けようのない事実だった。
 答えを返せずにいると、蒼士さんはゆっくりと目を伏せた。
「これから話すことは、ただの独り言だから」
 蒼士さんはそう言ってから、私が口を開くのも待たずに顔を背けて蔀戸の向こうを見つめた。
「まだ美月が下界にいた頃、俺の次期青龍としての役目は三ヶ月に一度、天界に戻って美月の様子を知らせることだった。斎野宮の御当主夫妻、白月の御当主夫妻と泉水様、黒月の御当主夫妻と、それから龍雲様に」
 静かに話す蒼士さんの横顔を見つめて、私は息を呑んだ。蒼士さんから私が田辺家にいた頃の話を聞くことも、龍雲さんの名前を聞くことも初めてだった。
 このまま聞いてもいいのだろうか。私はついさっき、闇音から聞きたいと言ったばかりだ――それなのに、唇は動かなかった。
「龍雲様は、本当に優しい方だった。誰に対しても平等に接する器のある方だった。例えば有力貴族の当主にも、使用人にも同じ態度で接するんだ。龍雲様がいると心が安らぐような、そんな空気を持った方だった。俺は幼い頃、龍雲様にお会いする度にいつも美月の話をしたよ。いずれ天界に戻ってくる斎野宮の姫を、龍雲様は本当に気に掛けていらした。下界で辛い思いをしていないか、美月はどういうことに興味を持っているのか、どんなものを美しいと感じるのか――まだ見ぬ美月のことを、本当に愛しく思っているようだった」
 蒼士さんのふっと辛さを和らげた横顔は、けれどどこか切なそうだった。とても懐かしげに細められた瞳に、ゆらりと揺れる悲しみが見えた。
「俺はその頃、あまり闇音様にお会いしたことはなかった。黒月の屋敷の中でお見掛けしたことは何度かあったけど、実際に話をしたことはなかったんだ。でも龍雲様と話をすると美月という名前と同じくらい、闇音様の名前が龍雲様の唇から零れるんだ。そこから龍雲様が闇音様をとても愛しく思っていらっしゃることも分かった。でも龍雲様が闇音様と一緒にいるところを、一度も見たことがなかった。だから俺は聖黒さんに訊いたんだ。どうしてですか、と」
 りん、と涼やかな風鈴の音色が遠くから聞こえた。どこかで風鈴が飾られているのだろう。いつもは優しく感じられるその音色が、今はとてつもなく寂しげに聞こえた。
「そこで初めて、闇音様がご両親から疎まれているということを知った。闇音様はまだ物心もつかぬうちにご両親によって別棟に押しやられたのだと、そして龍雲様には闇音様に会わぬようにときつく言い聞かせていらっしゃるのだと、そう聖黒さんから教えられた。それで気がついたんだ。俺が闇音様の姿を見かけていたのは、いつも別棟に近い場所でだけだったと。きっと母屋に出入りすることも、なかなか叶わなかったんだと思う」
 闇音――と思わず呟いた声が、蒼士さんに聞こえたのかは分からない。けれど、思わずにはいられなかった。幼い頃に別棟に押しやられ、龍雲さんにも碌に会えずに暮らしただろう少年時代の闇音を。
「俺がその話を聞いた頃に丁度、龍雲様が『闇音が心配なんだ』と、とても辛そうに言っていたのを覚えている。『闇音には何の罪もないのに、僕が悪いだけなのに』と言っていた。そのときの俺にはその意味が分からなくて、俺は『龍雲様は悪くありません。きっとご両親も分かってくださいます。闇音様とも一緒に過ごす時間ができるようになります』と返した。そう言うと、龍雲様はとても悲しそうに微笑んで一言『そうなるといいね』と言っていた。そのあとすぐ、俺は初めて闇音様と話をする機会があった」
 蒼士さんは気を奮い立たせるように拳を強く握って、それから真っ直ぐ外の景色を見据えた。
「俺はその頃から真咲とは仲がよくて、そしてその頃から真咲は闇音様に付いていたんだ。たまたま黒月邸で真咲の姿を見かけて、一緒にいた闇音様に初めてお会いした。そのときに分かったんだ――龍雲様が仰っていた言葉の意味を。闇音様がご両親から疎まれている理由を」
 蒼士さんはそう言うと、顔を私へ向けて真っ直ぐに私を見つめた。その顔には嘆きに似た感情が浮かんでいた。
「闇音様には龍雲様をも凌ぐほどの力があった。闇音様の周りの空気が違ったんだ。とても神聖で、まさしく黒龍の末裔だと思えた。龍雲様も十二分に後継ぎとしてのお力はあった。その龍雲様と一緒にいるときに感じるよりも、より一層強い気配を闇音様から感じたんだ。でもそれは第二子には歓迎されないものだ。天界の家は第一子相続が掟であり、慣例だ。それを乱すような力だと龍輝様と更様には思えたのだろう。元よりお二人は龍雲様を溺愛されていたと聞いているから、力がある闇音様が疎ましく思えたのだと思う」
 蒼士さんはそう言って、目を伏せた。頬に深い影を落としたその顔は、いつもよりもずっと疲れて見えた。
「俺は闇音様にお会いするまで、闇音様はきっととても塞いでおられるだろうと思っていた。ご両親からは疎まれ別棟に押しやられ、兄である龍雲様とも碌に会えない。幼い頃からそんな生活を送っていれば、きっと性格も暗くなってしまうだろうと。でも実際の闇音様は、とても人懐っこい笑顔を浮かべて俺を見て『斎野宮の姫君はお元気ですか』と訊いてこられた。『元気に過ごされています』と俺が答えると、とてもほっとしたように『いずれ兄上の奥方になられる方ですから、俺も姫君を護れるように強くならないといけませんね』と微笑んでいた。それに対して真咲が『姫君は泉水様に嫁がれるかもしれませんよ』とからかうように言うと、闇音様はむっとした顔になって言ったんだ。『姫君は兄上をお選びになる。兄上は世界中で一番美しく、優しく、慈しみ深い方だから』と」
 蒼士さんは目を伏せたまま、小さく呼吸を繰り返していた。それからぎゅっと自分の手を握って、そして再び蔀戸の向こう側を見つめた。
「そのあと、下界に戻った俺に両親から報せが届いた――龍雲様が事故で亡くなられたと。それからは俺も天界に戻る度に、新しく後継ぎとなられた闇音様に美月の様子を知らせるようになった。最初の頃の闇音様は憔悴しきっているという様子で、今のような冷たい空気はなかった。でも龍雲様が亡くなられて半年経った頃から、闇音様は他人と距離を置かれるようになった。白亜ともその頃から疎遠になったと聞いている。でも、俺が知っている闇音様は、本当に優しく穏やかな方だったよ」
 蒼士さんは話し終えると私を振り返った。その瞳は柔らかく細められていた。
 夏にしては涼やかな風が、淀んだ空気を一掃するように部屋に舞い込む。その風は蒼士さんの髪と私の頬を撫でていった。
「美月なら闇音様の心に近づけるよ。きっと」

 

 

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