十九

 

「闇音?」
「……何だ」
「お菓子も食べる? 甘いものを食べると脳にいいんだよ。ずっと集中してお仕事してるから、時々は糖分を取らなくちゃ」
 闇音は蒸しタオルを少しずらして、盆の上の和菓子を見る。そして最中を指差して、寝転んだまま目を上げて私を見た。
 その仕草がいつもの冷たい闇音とかけ離れていて、どこか子どもっぽい。
「最中?」
 訊ねると、ただ頷いて盆を手招きする。喋るのが億劫なのだろう。
 私が盆を差し出すのと同時に闇音は蒸しタオルをきっちりと目にかける。それを見た私は動きを止めた。
 闇音は最中を食べるつもりだったのだろう。それなのに今はタオルで両目を覆っている。
 微動だにしない闇音を暫く見つめてから、私は意を決して最中を手に取った。そして力なく畳に投げ出されている闇音の手を見つめて逡巡した挙げ句、取った。
 闇音の身体がびくりと跳ねて恐らく反射的にだろう、手を退こうとする。私は完全に闇音の手が私の手からすり抜ける前に最中を握らせた。
「どうぞ」
 すっと手を離す。闇音は暫く最中を握ったまま動かなかった。
 私はそのまま背を向けてお茶を淹れる。湯呑みにお茶が注がれる音に紛れて、最中を食べる音が聞こえた。
 それに胸を撫で下ろして振り向くと、相変わらず寝転んだまま最中を食べている闇音がいた。
「寝転んだままだと喉に詰まらせるよ。お茶淹れたから、飲んで」
 お茶を闇音が寝転ぶその近くに置いておこうとすると、意外にも闇音は手を伸ばしてきた。
 それがあまりにも衝撃すぎて、一瞬思考が止まる。闇音の手の意味を暫く考えてから、それがお茶を求めているのだと気づいて、私は急いで闇音の手に湯呑みを握らせた。
 闇音は起き上がって湯呑みを口元に運ぶ。片方の手で蒸しタオルを取り去りながら、ぼんやりと遠くを眺めていた。
 和やかな昼下がり。今まででは考えられなかった闇音との穏やかな時間。
 その居心地のよさに驚きながら、闇音の横顔を見つめる。そして一瞬で平静だった先程までの気持ちが吹き飛んだ。
 闇音の漆黒の瞳の中に苦しみが見えた。整った横顔に切望が浮かんでいた。
 きっと闇音は、自分でも気がつかないうちに思いを馳せているのだろう。明るい昔の日々に。
 今までだって、闇音はこうしていたはずだ。けれどそれに今まで気づけなかったのは――いや、気づこうとしなかったのは、揺らいでいた私の心のせいに他ならない。
 目の前の闇音はあまりにも儚くて、手を伸ばしても届かないように思える。けれど、手を伸ばして闇音を掴んでこの場所に引き戻したいと思う。
 真咲さんが私に言った言葉を頭の中で繰り返す。
『闇音様を救ってください』
 この横顔を一番近くで、何十年と見つめ続けてきた彼が、そう願う気持ちが痛いほど分かった。
 声を掛けられずにそのまま闇音を見つめていると、ぼんやりとした横顔だったのが突然厳しいものに変わる。
 見る見るうちに眉間に皺を寄せた闇音は、顔から感情を消し去って厳しさだけを残す。目を上げて開け放たれた襖を睨み付けたかと思うと、そこからお義父さんが姿を現した。
 お義父さんはまるで敵を見つめるかのように闇音を見下ろす。けれど闇音は淡々とした態度を崩さなかった。
 一向に口を開こうとしない二人をはらはらした気持ちで交互に見つめる。夏だというのに空気が冷え込んだ気がする。
「そんなに暇なのか、お前は」
 先に痺れを切らしたのはお義父さんの方だった。冷たい視線と軽蔑の籠った声だった。
「そうやって仕事もせずに、妻と日がな一日過ごすのか」
「何か文句でも?」
 闇音はやはり淡々と返す。お義父さんが微かに眉を動かした。
「お前はそうやって遊び呆けて仕事は三大に任せるのか? いい身分だな」
 お義父さんの吐き捨てるような言葉にかっとなって、思わず「違います」と口を挟もうとすると、その前に闇音が手を挙げて遮った。
「総帥がまったく仕事に手を付けられないですから俺は日々身を削って仕事に精を出していますよ。俺でなくてもできる仕事は三大に任せていますが、他のものはすべて俺がしています。どうやら俺は手際がいいらしいので、こうして休憩が取れるだけです」
 闇音が静かに告げると、お義父さんはまた険しい視線を彼に注ぐ。それに気がついているだろうに、闇音は構わず続けた。
「俺と違ってお暇な総帥は、いつもは見下している別棟までこうして足を運ぶ時間があるのですね。羨ましい限りです」
 どこか妖艶さが漂う笑みを浮かべる闇音を、お義父さんは嫌悪の表情で見遣った。まるで挑発するような態度を取る闇音に、私の方は気が気でない。
「お前、それが私に対する物言いか」
 静かな怒りを滲ませながら、お義父さんは闇音を睨み据える。闇音は笑みを綺麗に消し去って、咎めるように目を細めた。
「総帥と言っても名ばかりでしょう。あなたは何もしていない。この家と、この都の半分を治めているのは俺です。それに、自分が妻から見向きもされないからと言って俺と美月のことに訳も分からない文句を並べて、首を突っ込むのも金輪際やめてください。今後一切、俺のすることに口を挟まないで頂きたい」
 その口調は、お義父さんに対する要望というよりは命令だった。
 お義父さんもそれを感じ取ったのだろう。怒りと苛立ちを露わにした顔を闇音へ向けると、そのまま勢いよく踵を返した。
「それで、何の御用だったのですか? 総帥」
 その後ろ姿に闇音は淡々と声を掛けたけれど、お義父さんは振り向かずに歩いて行った。

 

 

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