三十四

 

 龍雲さんの命日に起きた騒動について、翌日の朝食の席でお義父さんは「馬鹿馬鹿しい」の一言で片づけたそうだ。
 私は、そう言ったらしいということしか知らない。その発言を直接聞いたわけじゃないからだ。これは朱兎さん伝手で聞いたことだった。
 私はあの雨の中、闇音が別棟に引き返して行ったあとも、まるで足が地面に根を生やしてしまったかのように一歩も動けずにいた。随分と経ってから蒼士さんと輝石君が見つけてくれるまで雨に打たれ続けた私は、その日の夕方から高熱を出してしまった。
 聖黒さんはそんな私を見て、怒ったような心配しているような微妙な表情を浮かべつつ、熱に浮かされる私に切々とお説教をした。覚えているのは「もっと自覚を持ってください」だとか「美月様が体調を崩されて心配するのは誰だと思っているのですか」だとか、そういう断片だけだけれど。
 そして今、このときも聖黒さんは私の隣でぼやいている。
「美月様、本当に自覚を持っていただかなくては困ります。あの雨の中、傘もささずにいらっしゃるなんて――いけませんよ。お身体に障ります。実際、お身体に障っていらっしゃるわけですし」
「ああ、もう! 聖黒はうるさいんだよ。そんなこと一回聞けば分かるって! そんなんじゃ治るもんも治らなくなるだろ」
 輝石君が私の代わりに聖黒さんに訴えた。
 もちろん、私は聖黒さんのお説教は仕方がないと思っているし、怒られて当然だと思っている。でも少しだけ、ほんの少しだけ、輝石君の言葉をありがたく感じた。それはここだけの秘密だ。
「ごめんなさい」
 熱を出してから何度目かになる謝罪の言葉を口にする。
「美月様は悪くないよ。聖黒が異様にガミガミうるさいだけですから」
 朱兎さんが私の布団をそっと直しながら、優しい声で言う。すかさず聖黒さんが朱兎さんを振り返った。
「朱兎。私は美月様のお身体を思って言っているのですよ。それをガミガミうるさいとはどういう意味ですか?」
「え? いや、えっと……まあ、細かいことは気にせずに」
 聞こえてきたのは聖黒さんの非常に穏やかな声だったけれど、朱兎さんはうろたえた様子で慌てて言う。
 私の頭の位置からは、聖黒さんの後姿と朱兎さんの引き攣った顔しか見えない。けれど、聖黒さんの「非常に穏やかな声」というのはこういう場合、イコールして「非常に危険な状態」を意味する。あと「非常に優しい笑顔」というのもこれとイコールする。私はこのことを、この三ヶ月間で学んだ。
「まあまあ、聖黒さん。幸い、美月様の熱も引きましたし」
 取り成すように蒼士さんは微苦笑を浮かべて言うと、私の額に手を当てた。冷やりとした心地よい冷たさが額に置かれて、うとうととしかけていた頭がすっきりとする。
「うん。もう微熱程度です」
 蒼士さんは私を優しく見下ろすと、新しく氷を入れ替えたらしい氷嚢(ひょうのう)を私の額にそっと載せた。
「本当にお騒がせして申し訳ないです」
「美月様のお世話をするのが仕事ですから」
 かたじけなく思った私が改めて言うと、蒼士さんはふっと軽く噴き出した。
「そうだ。言い忘れていたんですけど――」
 蒼士さんを見上げてから、聖黒さんへ頭を向ける。けれど聖黒さんは未だに朱兎さんを見つめていて、仕方なく私は布団から手を伸ばして軽く聖黒さんの着物を引っ張って注意を引いた。
「明日、斎野宮に帰ります」
 はっきり言ったにも関わらず、聖黒さんは私の言葉が理解できないとでもいうように、ちょっと首を傾げた。私はそれを見て言葉を続ける。
「闇音が明日、斎野宮に用事があるらしいんです。だから私も一緒について帰ろうと思って。一ヶ月ぶりの実家です」
 聖黒さんは少しだけ顔を曇らせたように見えた。
「闇音様が斎野宮へ? 一体、何の御用で?」
「さあ……闇音の用事は私にも分からないんです。私は――斎野宮へ帰ったあとも用事があるので、帰りは闇音とは別になりそうです」
「用事、ですか」
 聖黒さんは探るように私の顔を覗き込む。その瞳は静穏であって、何もかも見透かしているように見えた。
 きっと聖黒さんには、私が何をしようとしているのかが分かったのだと思う。それでもただ聖黒さんは悲しそうに微笑んで、頷くだけだった。
「分かりました。私も斎野宮までご一緒させてください。その後のことは蒼士に付き添ってもらってください。帰宅までの道のりは、蒼士に任せましょう」
「え? 俺ですか?」
 突然聖黒さんに指名された蒼士さんは、素に戻った様子で自らを指差しながら困ったように聖黒さんを見つめている。
「何か不満でも?」
 にっこりと蒼士さんを見つめる聖黒さんの周りには、拒否を許さない空気が張り詰めている。
「いいえ」
 蒼士さんは呟くと、ぼんやりと明後日の方向を見つめた。
「聖黒。蒼士に不服がなくても俺にはある」
 不機嫌そうな低い声につられて目をやると、輝石君が挙手をして聖黒さんを睨みつけていた。
「俺も一緒に行く!」
「駄目です」
 勢いよく言った輝石君を、聖黒さんはばっさりと切り捨てた。
「美月様の用事は時間がかかるでしょう。きっと黒月に戻ってくるのは夜になります。輝石は夕刻には西家へ帰らなくてはならないでしょう?」
 淡々と言う聖黒さんに輝石君は言い返す言葉がないのか、ぐっと言葉に詰まった様子で頬だけを膨らませた。
 けれど今度は、輝石君の隣に座っていた朱兎さんが挙手した。
「じゃあ僕なら一緒に行ってもいいよ――」
「結構です」
 まだ朱兎さんが言い切ってもいない内に、聖黒さんが再び切り捨てる。
「朱兎は何かあったときのためにこちらで待機を。それに美月様の護衛は蒼士一人いれば十分です」
「聖黒、横暴だぞ!」
「そうだよ! 僕らだって斎野宮のご当主と奥方様に会いに行きたいよ」
 朱兎さんも不服そうに聖黒さんをじっと睨む。聖黒さんはそれすらも意に介さないのか、そっと目を伏せた。
「いずれ近いうちにお会いすることになりますよ」
 聖黒さんは私へ視線を移すと、眉間に少しだけ皺を寄せた。その表情が哀切で溢れていて、私は訳も分からず胸が苦しくなった。
「闇音様の斎野宮訪問の理由が、私の推測と違わないのであれば」

 

 

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