三十三

 

 雨脚が強くなったのか。降り注ぐ雨は強く体を打ち付けて容赦なく体温を奪っていく。雨でぼやける視界の中、私は必死に闇音の黒い着物を追った。
 着物が水分を吸ったせいで重くなって、走り出すことができない。もういっそ脱いで走りだしてしまいたいと思うほどに、闇音との距離は一向に縮まらない。
 着物を引きずるようにして、強い雨が降り注ぐ中、闇音だけを見つめて進んでいると、前方でぴたりと黒い着物が静止するのが見えた。私は石に足を取られそうになりながらも、ここぞとばかりにスピードを上げて闇音に追い付いた。
 闇音のすぐ後ろで立ち止まる。
 漆黒の髪が雨に濡れて、烏の濡羽色のようになっている。彼の髪と同じ色の着物もずっしりと水分を含んで、つやつやと滑らかに光っていた。
 私の足音は雨音に消し去られていたのだろうか。闇音は私がここにいることにも気づいていない様子で、真っ直ぐ前に顔を向けたまま振り返らなかった。
 私は雨が地面に叩きつけるその音を聞きながら闇音の背中を見つめる。声を掛けようか散々迷った挙句、私はそっと闇音の手に触れた。
 闇音はびくりと体を震わせる。けれど私の手を振り払いはしなかった。
 闇音の手は想像以上に冷たくて、私はその冷たさに涙が込み上げてくるのを感じた。どうして私が泣きそうになっているのだろう。お門違いもいいところだけれど、私はそれを堪えることができなかった。
 彼から体温を失った原因は、雨の冷たさだけなのだろうか。
 私はその手を少しでも暖めたくて、そっと握りしめた。
「闇音」
 小さく声をかける。私のその声は雨音と一緒になって地面に落ちていってしまったように思えた。
「闇音」
 もう一度名前を呼ぶと、闇音はほんの少し、勘違いかと思うほど小さく私の手を握り返した。
「俺が兄上を殺した」
 彼の低く静かな声は、雨音に紛れることなく私の耳にまで届いた。
 闇音のあまりにも衝撃的なその言葉に、私は思わず自分の耳を疑った。けれどここで口を挟むのはいけないことのような気がして、私はぐっと自分自身を抑えた。
「俺があの日、兄上を殺したんだ」
 闇音は前を向いたまま、淡々と呟く。
 声に生気が感じられない。それが聞く者の胸をどれほど切り裂くのか、きっと闇音は知らないのだろう。
「その俺がどれだけ兄上を敬愛していたと――心から慕っていたと言っても、誰にも信じてもらえないのは当然だな」
 闇音は言うと、そのときになって初めて私を振り返った。
 闇音の瞳は暗くて、何も映していないように思えた。
「俺は奥方が言うとおり、兄上が亡くなられて喜んでいるのかもな。兄上が亡くなられたから、いなくなられたから、俺は当主になっている」
「……違う。闇音はそんなこと思わない」
 まるで自分を傷つけるためにあえてそんな言葉を口にしているように思える闇音に、私は真っ直ぐ彼の瞳を覗き込んで言った。
「闇音はお兄さんを殺したりしない。闇音はお兄さんが亡くなって喜んだりなんて――」
 闇音は私の言葉を遮るように、私の手を強く振り払った。
「お前は俺の何を知っていてそんな口を利くんだ?」
 荒々しい声に、体がすくみあがる。
 辺り一帯の空気が変わる。闇音は怒気を体に纏って、蔑むような視線を私に向ける。
「どうしてそんなことが言える? お前は十四年前、下界にいただろう。あの日、ここで何があったのかも知らない癖に適当なことを言うな」
 強い怒りを瞳の中に燃やして、闇音が言う。その圧倒的な空気に総毛立って、私の体ががくがくと震えだした。
「私は確かに何も知らない。でも闇音はそんなこと思わない」
 私は深呼吸して、心を落ち着かせる。それでも体の震えは一向に止まらない。
 闇音の視線だけで、恐怖が体の中を駆け巡る。ここから早く立ち去れと本能が命じるその中で、闇音から目を逸らさずにいるのは想像以上に苦しかった。
「闇音を見てればそんなことは分かるもの。闇音は優しい。闇音は人を殺したりなんてできない。闇音は人が亡くなったことを喜んだりできない」
「黙れ!」
 闇音は大声で叫ぶと、ゆっくりと両手で顔を覆った。
 雨がゆっくりと静まっていく。先程まで強く体を打ち付けていた雨は、今は柔らかく降り注ぐだけだった。
 闇音は顔を覆って俯いたまま立ちつくしている。こんなときに掛けるべき言葉を、私は知らなかった。
 雨音だけが私たちの周りを囲んでいる。その中に、小さな声が紛れ込んだ。
「どうして――」
 闇音はそう呟きながら、顔を覆っていた手をそっと外した。
「どうしてあの日亡くなったのが兄上だったんだろう。どうして俺じゃなかったんだろう」
 闇音は長い睫毛を伏せて、自分の掌を見つめていた。
「兄上を思っても、もう涙すら流れない。いくら後悔してもし足りないのに」
 闇音は天を仰ぐと、それまで何も現れていなかった表情を崩した。それは自分自身を痛めつけるような、責め続けているような、悲痛と苦悩に満ちた顔だった。
「兄上――」
 頬に冷たい雨に混じって熱いものが流れていくのを感じる。
 ――どうして俺は生きているのですか?
 そんな悲しい問い掛けをする人を、目を逸らさずに見つめることしか私にはできなかった。

 

 

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