三十二

 

「美月様」
 そう言って一礼しようとする二人を手で止めて、私は言った。
「どうかしたんですか? 何かあったんですか?」
「お騒がせいたしまして申し訳ございません」
「そんなことはいいんです。何があったんですか? さっき蒼士さんに様子を見に行ってもらったんですけど、その間にも聞こえてくる声は大きくなるし、なんか叫び声みたいなのも聞こえてきて」
 私は真っ直ぐ二人を見つめる。
 すると彰さんは久々に私の目を逸らさずに、じっと見つめ返してくれた。
「美月様はこちらにいらしてください。すぐに静まりますので」
 彰さんはやんわりと「私に教えることはない」というニュアンスを含んで告げる。けれどその隣ではそっと眉根を寄せた芳香さんが、言うか言うまいか迷っている様子で彰さんを見上げた。
「美月様、中でお待ちになって――彰、芳香」
 私を連れ戻しに来たのだろう聖黒さんは、彰さんと芳香さんに気づくと私の隣で立ち止まった。
 私は二人を見つめてから、隣の聖黒さんを見上げる。聖黒さんは私を見下ろして、困ったように溜め息を零す。それから二人に向かって言った。
「彰、芳香。闇音様は? 真咲と一緒にいるのではないのですか?」
「そのはずだったのですが、更様と鉢合わせになったようで……」
 彰さんは厳しい顔つきで言うと、騒ぎがする方向へ顔を向けた。本当なら、ここで時間を無駄にしたくないのだろう。
「私たちもどうしてこうなったのか、詳しいことは分からないんです。とにかく行って、更様を止めないと――」
 芳香さんが聖黒さんに言ったちょうどそのとき、廊下の向こうから蒼士さんが焦ったように急いでこちらに走ってきているのが見えた。
「美月様、彰、芳香」
 蒼士さんは走りながら言うと、私たちの前で止まった。
「更様が――その、何と言えばいいのか……。真咲が取り成そうとしてるんですが、更様はまったくお聞きになられず、闇音様をひどくなじっていらして……」
 蒼士さんは言いにくそうにそれだけを告げると、彰さんと芳香さんに目を向ける。
 彰さんは頷くとすぐに歩き出して、けれど芳香さんは困ったように彰さんの遠ざかっていく背中と私を交互に見比べた。
「彰? 美月様には何と説明すれば?」
 彰さんはぴたりと歩を止めると、何かと葛藤しているような、そんな複雑な顔をして私を振り返った。
 芳香さんは、それでも無言の彰さんを納得がいかなそうに厳しい瞳で見つめる。
「彰。美月様はもう黒月家のお方で、闇音様の奥方だよ。今日の騒動を知らせずにいていいの? 今年は何とかやり過ごせても、来年は? また次の年は? 毎年こういうことが起きる可能性があるのに、知らせずにいるのは間違っていると私は思う」
 芳香さんは独特の柔らかさの中にも、筋が立つものを持っているらしい。いつも女性のようにしなやかで穏やかな彼の、初めて見る側面だった。
 彰さんは葛藤を繰り広げるように、眉間に深く皺を刻んで黙り込む。暫く経ってから、彰さんは口を開いた。
「分かりました。では、美月様も四神の皆様もいらしてください。説明は歩きながらでも構いませんか?」
 彰さんは言うと、同意を求めるように私に強い視線を送る。私はほとんど反射的に頷いて、急ぎ足で歩き出した。
「四神の皆様はご存知かと思いますが、十四年前の今日、龍雲様がお亡くなりになったのです」
 彰さんは私が追い付くと同時に、少し早口で話し始めた。
 私は彰さんの言葉に足を止めそうになったけれど、何とか止めずに足を進め続けた。きっと足を止めずに済んだのは、驚くよりも納得してしまっていたからだ。
 今日、この家に立ちこめていた暗い影は、どうしようもないほどの絶望を伴っていた。それが龍雲さんを失った黒月家の心の痛みを映したものだったのだとすれば、悲しいほどに納得できる。
「四神の皆様にはあらかじめお話していたんですが……。龍雲様の命日には闇音様と更様は絶対に顔を合わせてはいけないのです」
「――え? 俺はそんなこと聞いていない」
 いつの間にか私の隣に並んでいた蒼士さんが、驚いたように彰さんに向かって言った。言われた彰さんも驚いたように蒼士さんに視線をやって、それからすぐに軽く頭を抱えた。
「蒼士さんに伝えておいてくれって真咲に頼んでおいたのに……忘れていたんだな」
 彰さんは小さな声で零すと、蒼士さんに向かって「とにかく、そういうことだったんです」と急いで言った。
「どうして二人を会わせちゃいけないの? 何か理由があってのことでしょう?」
 先を促すために私が言うと、芳香さんが小さく頷いてから口を開いた。
「更様は、龍雲様が亡くなったのは闇音様のせいだと考えておいでです。それ故に、この日に闇音様と顔を合わせると必ず闇音様をなじられて――」
 芳香さんは不自然にそこで言葉を切ると、耐え切れなくなったように潤んだ目を伏せた。彼の顎が小刻みに震えているのが分かって、私はそっと目を逸らした。
「更様は、闇音様が龍雲様を(しい)されたとでもおっしゃりたいのでしょうか? まさか、そんなことがあるはずもないのに」
 芳香さんはそれだけ言うと、それからは何も話さなかった。
 芳香さんを見上げると、口を真一文字にきつく結んだ横顔が目に入った。
 いくら芳香さんが闇音に反感を抱いていようとも、闇音を強く思っていることは明らかで、だからこそ彼の話した内容がその言葉以上に重みを増していた。
「本当なら闇音様は本日、別棟からは一歩も出られないはずでした。更様も例年なら、この日はお部屋に籠りきりで、お二人が顔を合わせるはずはなかったのですが……」
 彰さんは、芳香さんの言葉の続きを受け取るように言うと、私へ視線を落とした。
「美月様には知らずにいていただきたかった。この黒月家は、絶えずこんな混沌に満ちています。でも美月様にはそれを知らずに、それに染まらずに、清廉に暮らしていただきたかったのです」
 彰さんは静かに告げると、その後は黙って歩き続けた。
 雨音さえもその音を小さくさせたようなしんと静まり返った中で、廊下を歩く足音が響き渡る。
 徐々に激しさを増していく悲鳴と、それをなだめようとするいくつかの声が、心を蝕んでいきそうだった。
「何でこんなことになったんだろう」
 静寂に耐え切れなくなったのか、輝石君の声が後ろから聞こえてきた。
「親子だろ? 血の繋がった親子なのに、家族なのに――」
 輝石君はそこで言葉を切った。
 血の繋がった親子なのに。家族なのに。
 その言葉がずしりと心に圧し掛かる。けれどきっと、この言葉を聞いて一番辛いのは闇音だ。
 自然と足が速まるのを感じる。早足だった足は、いつの間にか駆け足になっていた。
 声のする方へ廊下を走る。普段ならきっと咎められる行為だろうけれど、今は誰もそんなことを言わない。
 廊下には足音だけが響いていて、その先には叫び声がある。お義母さんの声は走りながらの状態でも聞き取れたけれど、闇音の声は聞こえてこなかった。
 廊下を走る時間が永遠にも思える。走っても走っても、声の場所までたどり着けない。
 そんな感覚を抱き始めたとき、別棟に一番近い西北対でそれが起こっているのが目に飛び込んできた。
 私の隣を走っていた芳香さんが突然ぴたりと立ち止まる。私は芳香さんを見上げて、そこに驚愕の表情を見て取った。
「――更様!」
 彰さんは少し躊躇ったあとに大きな声で言うと、廊下にへたり込んでいたお義母さんのもとへ走り寄った。
 その場は愕然とするほど、混沌と化していた。
 どうやったのかは分からない。床板が何枚も剥ぎ取られていて、それらすべてが闇音の足元からほど近い場所に不格好に刺さっていた。数センチでもずれていたら、闇音の足を貫通していたのではないかと思える。
 真咲さんは、闇音の真ん前で両手を広げて仁王立ちで立っていた。まるでお義母さんから闇音を守るように。
 真咲さんの後ろに立っている闇音は、何の感情も揺れていないような、温度のない無表情のまま目を伏せていた。それは、この状況の中にあって冷酷なほどに、無慈悲なまでに美しく際立っていた。
 私はその場の空気に、喉が締まって声が出ず、さらに足まですくんでしまったのを感じる。こんなときに役に立たない自分がひどく恨めしかった。
「返して――返して!」
 いつもは凛と冷たい美しさを纏うお義母さんは、今このときは、目を剥いて闇音を睨めつけていた。
 今にも立ち上がって闇音に掴みかかりかねないお義母さんを、大勢の使用人が抑えている。
「龍雲を返して!」
 お義母さんは闇音に向かって叫ぶと、突然両手で顔を覆って泣き崩れた。その両手に出来たばかりだろう怪我が見てとれて、床板を剥ぎ取ったのがお義母さんだということが分かった。
 叫びのような泣き声が辺りに響き渡る。その声は心を狂わせそうなほどの悲しみと痛みを私に伝えてきた。
「更様、しっかりなさってください。正気に戻ってください」
 彰さんはお義母さんの肩を強く掴んで、静かな声で語りかける。けれどお義母さんからは泣き声しか返ってこなかった。
「更様、お部屋へ戻りましょう」
 いつの間にかお義母さんの近くに寄っていた聖黒さんと朱兎さんが、お義母さんの両腕を持って立ち上がらせた。
 お義母さんは二人に支えられながら弱々しく立ち上がると、抵抗せずに歩き出した。
 お義母さんはそのまま数歩よろめきながら歩くと、突然立ち止まって闇音を振り返った。お義母さんの目は、真っ直ぐ闇音に据えられている。その視線には、侮蔑の色しかなかった。
「龍雲がいなくなってさぞ嬉しいでしょう。龍雲が死んだおかげで、お前は当主になったのですから」
 その言葉は、一瞬にして辺りを凍りつかせるには十分だった。
 全員の動きがぴたりと止まる。それまでお義母さんだけに注がれていた全員の視線が、今は闇音に定まっていた。
 けれど私は闇音ではなくお義母さんを見つめていた。お義母さんのその台詞を聞いて、それまですくんでしまっていた体が突然動いたのを感じた。
「……どうしてそんなことが言えるんですか? 龍雲さんが亡くなって、苦しんでるのはあなた一人だけだとでも思ってるんですか?」
 思わず拳を握りしめる。
 私はお義母さんを真っ直ぐ見据える。けれどお義母さんは私に一瞥をくれると、するりとその視線をかわして顔を背けた。
 聖黒さんと朱兎さんは、お義母さんを信じられない様子で見下ろしていた。けれど、お義母さんが歩き出したのに合わせて、支える形で結局二人も歩き始めた。
「あなたは信じないでしょうが――」
 突然、低い静かな声が廊下に響いた。
 咄嗟に声のする方へ顔を向ける。その視線の先にいたのは、闇音だった。
 闇音は暗く光の宿らない瞳で、そっと立ち止まったお義母さんを直と見つめていた。
「俺は、兄上を心の底から敬愛していました。兄上が亡くなられてよかったなどと思ったことは、一度もありません」
 温度を乗せていない声。その中にたった一つ、悲しみだけが聞き取れた。
 お義母さんは振り返ることなく、再び歩を進める。
 闇音はそんなお義母さんの背中を暫しの間見つめてから、踵を返して石が敷き詰められた庭に下り立った。
 私は闇音が雨に打たれる姿を見て、自分でも気がつかない内に彼の後を追っていた。

 

 

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