三十一

 

 梅雨が天界を覆っていた。湿気こそほとんどないけれど、しとしとと降り続ける雨はこの世界すべてを暗くしそうなほどだった。
 私は聖黒さんに頼んで、小梅さんと泉水さんの件に関して数日間は決定を下さないでいてもらうことに成功した。聖黒さんに詳しい話をしたわけではない。聖黒さんに言っても、きっと止められてしまうと思ったのだ。
 闇音と私の話を知らない聖黒さんは私の言葉に困ったような顔をしたけれど、それ以上何も言わずに頷いてくれた。
 斎野宮に帰る日まで、残り三日。北家と白月家に待ってもらえるのも、それが限度だと思われた。
「今日も雨ですね……」
 誰にともなく呟いたのは蒼士さんだった。
 静かな雨音は周りの世界だけではなく、私自身の心にまで沁みてくるようだった。
「それにしても今日はやけに静かじゃないですか?」
 私はそんな気持ちを一掃しようと、明るい声を出す。
 雨が降ると、屋敷中がしんと静まり返ったようになる。それは梅雨に入ってから気づいたことだ。
 けれど今日は、いつにも増して静かすぎる気がした。
 いつもは使用人の人たちの声がときどき届いてきていたのだ。普段、別棟にいるばかりの闇音の声はいつも聞こえないのが当たり前だけれど、真咲さんたち臣下三大の仕事に追われる声も聞こえてきていた。
 けれど今日は、一切の生活の音が遮断されているかのように、まったくと言ってよいほど何も聞こえてこない。まるで音を立てるのを躊躇っているように感じられる。
「いつもなら彰さんか芳香さんが、そろそろ顔を見に来てくれる頃なのに」
 ちらりと時計に目を走らせる。時刻はまだ午後二時を過ぎたばかりだ。
 このぐらいの時間に、いつも仕事の手が空いた三大の誰か――大抵は彰さんか芳香さん――が私の部屋まで来てくれるのだ。
 そして、私はひたすらにそれを待ち続けているのだ。
 あの日以来、私の部屋に来てくれるのは真咲さんか芳香さんで、彰さんは顔を見せに来てはくれていない。その上、彰さんと話をしようとすると、柔らかな笑顔を浮かべたまま「仕事が残っていますので」とか「白亜のところに今から行きますので」と言って避けられていた。
 これは彰さんが意図的に、私と話し込むことがないようにしているとしか考えられなかった。
「何かあったんでしょうか? すごく静かだし、何かよくないこととか……」
 ぽつりと私が零すと、四神家の四人が互いの顔を見合わせたのが目に入った。それを見た私は、少し首を傾げて四人を順番に見つめていく。
「何か知ってるんですか?」
「いえ、その……」
 朱兎さんはそう言うと、ふいと目を逸らす。きっと彼は嘘を吐いたり、言葉を濁すことが苦手なのだろう。
 そんな朱兎さんのあからさまな態度を見て、四人が言いにくいことなら無理に聞き出すことでもないように思えた私は、それ以上追及することはやめた。
 単調な雨音を聞いていると、まぶたが重くなってくる。一切の物音がしない静かな家というのも、それを助長しているように思える。
 訪れた強烈な眠気と必死に戦う。
 じっと耳をすましてみても、雨が地面に降り注ぐ音しか聞こえない、閉ざされた空間。その中で、私は闇音を思った。
 今、闇音は何をしているのだろう? この雨音が囲い込む屋敷の中で、黙々と仕事をしているのだろうか。
 あの夜、闇音は私に触れなかった。涙が伝う私の頬に触れようとして、けれど結局触れないまま手を下ろした。
 考えてみれば、闇音が私に触れたのは婚礼の日の一度きりだ。あれは闇音が私の手を引かなくてはならなかったからで、もし必要に迫られていなければ闇音は私の手を握ることもしなかっただろう。
 そういえば、闇音が誰かに触れているところを見たことがあっただろうか。私が知っている闇音は、いつも一人で、誰にも頼らず、誰の手も借りず、そして誰にも触れずにいた。
 白亜さんの話に聞いた闇音は、怪我をした子や動物を見ると放っておけないような優しい子で――。
 一体何が彼をこんなにも変えてしまったのだろう。龍雲さんの死? それとも、もっと別の何かなのだろうか。
 今朝の朝食は、闇音は自室で取ると言って広間には来なかった。今まで仕事で朝食を取らないことはあった。けれど食べるときにはいつも広間に来ていたのに、一体どういう心境の変化があったのだろう?
 じっと考え込んでいると、部屋の前を慌ただしく走り抜ける足音が耳に飛び込んできた。
 私はその音に驚いて跳ねるように顔を上げる。開け放たれた蔀戸から見えたのは、血相を変えて走って行く使用人の姿だった。
「どうかしたんでしょうか?」
 そのあまりの異様な様子に、私は思わず小さくなった声で零す。眠気はすっかり吹き飛んでいた。
 蒼士さんは今し方、使用人が走り去って行った方向を眺めていた。
「何か問題でもあったのかもしれません」
 蒼士さんは低い声音で言うと、私を振り返った。
「私が様子を見てきましょうか?」
「うん、お願い。何かあったら知らせてくれる?」
 蒼士さんは無言で頷いて答えると、立ち上がって部屋を出て行った。私は蒼士さんの姿が見えなくなるまで目で追う。
 なぜだか騒ぎ出した心を静めようと、小さく深呼吸する。けれど胸騒ぎは止まなくて、気がつけば両手を強く握りしめていた。
 注意して耳をそばだてていると、遠くの方で人の声が聞こえてきた。何を言っているのかまでは聞き取れないけれど、何か大きな声を出していることは分かった。
「本当に、何かあったんじゃ……」
 ぽつりと私は呟いた。
 遠くで話されている言葉は聞こえない。けれど間隔を置いて届く声は、まるで叫び声のようだった。
「ねえ、本当に何かあったんじゃないの? 尋常な声じゃない気がする」
 私は自分でも分かるくらいにおろおろとしながら、三人に向かって言った。けれど三人は困った様子で顔を見合わせるだけで何も言ってくれない。
 様子を身に行ってくれた蒼士さんが、声が聞こえてくる場所へ行って、またこの部屋に戻ってきてくれるまでには、まだ時間はかかるだろう。それなら自分で行って確かめた方が早い。
 私はそう思いつくや否や、立ち上がって歩き出した。
「美月様? どちらへ行かれるんですか?」
 私が歩き出した瞬間、慌てた様子で朱兎さんも立ち上がって私の行く手を塞いだ。
「やっぱり私も行って見てきます。蒼士さんと一緒に行くべきでしたね」
「いえ、そういうことではなく――」
 しどろもどろに朱兎さんは言うと、今まで黙り込んでいた聖黒さんの声が聞こえてきた。
「美月様はこちらでお待ちになってください。蒼士がじきに戻ってきますから」
 振り向くと、聖黒さんは冷静な様子で私を見上げていた。いつもは安心させてくれるはずの聖黒さんの落ち着いた雰囲気が、今は不思議と嘘っぽく感じられる。
 何かを知っているんだ――咄嗟に感じた私は、首を振っていた。
「私、自分で見てきます」
 私は聖黒さんにそう言うと、歩き出した。
「美月さま、すぐに蒼士も帰ってきますから」
 朱兎さんの隣で、さらに私の行く手を阻むように輝石君が私を押し止める。
 ここまであからさまに何を隠そうというのだろう? 三人が止めようとすればするほど、ここまで届く叫び声が気になって仕方がなくなるというのに。
 二人に完全に道を塞がれた私は、途方に暮れて嘆息した。
 着物を着ているのでは機敏に動くことはできないし、たとえこの部屋を出ることができたとしても二人を振り切れるとは思えない。第一、二人を振り切ってまで確かめに行かなくてはならないのか、と言われると首を傾げてしまう。
 朱兎さんと輝石君の間から、廊下の様子が少しだけ垣間見える。また廊下を使用人の一人が走り抜けて行った。
 絶対にただ事ではないはずだ。屋敷のどこかに人が集中して駆け付けている。
 焦れったい気持ちを押し止めて、私は座ることを忘れたまま廊下を一心に見つめていた。
「美月様、座ってください。立っていると疲れますよ」
 朱兎さんが言って、私の肩に触れようとしたその瞬間、目の前の廊下を急ぎ足で横切って行く見知った姿が目に入った。
 私は咄嗟に朱兎さんの手をかわして、輝石君の横をすり抜けて廊下まで走ると、
「彰さん! 芳香さん!」
 彼らの名前を呼んだ。
 二人は私の声にぴたりと体を止めると、振り返った。その顔は今まで見たことがないほど焦っていて、私は不吉に胸が痛んだのを感じた。

 

 

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