翌日も朝から、彰さんと芳香さんのつきっきりの指導と四神家の支えを受けて、私は黒月家の成り立ちと歴史を頭に叩き込むことに専念する。ときどき不意に飛んでくる彰さんの質問に、私は言葉を詰まらせながらも答えて、及第点をもらった。
 そして今は、都の成り立ちについて相変わらず本と睨めっこをしながら、必死で頭に叩き込んでいる。
「あの、彰さん? つまりこの天界ってもともとは地上――ここの言い方で言うと下界ですけど――と同じ世界だったってことですか?」
 本に目を通しながら私が質問を投げかけると、彰さんが頷く気配がする。
「そうです。もともとは一つの世界でしたが、それが天と地に分かれたのです」
 彰さんは優しくそう告げると、未だに山のように積み上げられている本の中から一冊を取り出した。
「一つの世界が二つに分かれる経緯はもう読まれましたか?」
 私は彰さんの言葉に、申し訳ない表情を浮かべて首を振る。まだ始まりの部分に目を通しただけで、そこまでたどり着いていなかった。
「では簡単にお話しましょうか。ずっと本と向き合うのも疲れるでしょう」
 彰さんはそう言うと、私に本を置くように促してから、自分が手に取った本を静かにめくる。そして数行を確かめるように目で追ってから、口を開いた。
「姫様が長い間生活されていた地上の人々と、この世界の人々がそう変わらないことはもうご存知ですね。私たちはもともと同じ世界に住む人間でした。ですが、時が経つにつれ、お互いに対立する関係となってしまったのです」
 彰さんはそこで言葉を切ると、苦笑を浮かべた。
「人間というのは、自分が持たない力を持つ者が恐ろしいのです」
 彰さんは再び言葉を切って、本に目を落としながら静かに語り始めた。
「一方の人間は、神に支配される民でした。白龍と黒龍や四神、それをまとめる神子など神がかりな存在が多く、それによって統一される民だったのです。対してもう一方の人間は、そういうものを持ちませんでした。前者が現在天界に住む人間で、後者が地上に住む人間です」
 私は彰さんの言葉を聞きながら、そっと首を傾げた。確かにこの世界のように龍や四神という存在は身近ではなかったけれど、地上の人間もそういう神を信仰する心は持っていたはずだと思ったのだ。特に現代より古代の人ともなれば、信仰心は増すのではないんだろうか。
 私がそう考えていると、彰さんは私の考えを読み取ったようにゆっくりと頷いた。
「確かに、地上の人間はこのような存在に対する信仰心を持っています。けれどそれは私たちのそれとは違います。私たちにとって龍や四神は信仰する対象ではなく、自らを守ってもらう存在です」
 彰さんは丁寧にそう言うと、私の瞳を見つめる。私はその説明に納得して一つ頷いて見せた。すると彰さんは柔らかな笑みを湛えながら、説明を続ける。
「地上の人間は、龍に守られ術を操る私たちが恐ろしくなり、段々と遠ざけるようになりました。そして私たちも同様に、地上の人間と距離を置き始めたのです。やがて、お互いの間に埋められない溝ができました。お互いにそれを埋める努力もせず、そして私たちは地上から姿を消すことにしました。その当時の白龍と黒龍の化身が、自らを信じ、自らに守られる存在だけを引き連れて、新たな都をここに創ったのです」
 彰さんはそう言うと、静かに本を閉じた。彰さんの説明が終わったのを見て取ると、芳香さんが私を見つめて言う。
「地上と天界の人間の違いは多々あるんですよ。例えば、地上の人間は術を使えないけれど、天界の人間は術を使える者が多いんです。あいにく真咲も私も術に関してはまったくの素人ですけど、彰は術を巧みに使いこなしますし。四神家で言えば、聖黒さんなんかが術がお得意でしょう?」
 芳香さんは言いながら聖黒さんへ視線を移す。聖黒さんはそれに微笑んで答えた。
 私は昨日に引き続いて新たに知ったその事実に、目を見開いた。
「聖黒さん、術が使えるんですか? ……でもその前に、術って具体的にどういうものなんですか?」
 疑問だらけの言葉をそのまま口に出す私に、聖黒さんは優しい視線を向けて口を開いた。
「術と言っても(まじな)いのようなものですよ。例えば風を巻き起こしたり、火や水を操ったり、ということです。もちろん、使う者の力が強ければ強いほど、術の効果が高められます」
「そうなんですか……」
 聖黒さんの説明に深く頷きながら、考え込むように私は言った。天界とそこに住む人々のことは、知れば知るほど新しい事実が判明して、とても奥が深い。
 そう思って先程まで手にしていた本へ視線を落とす。とても数日間で覚えきれる量だとは思えなくて、私は重い溜め息を吐いた。
 彰さんはそんな様子の私に気づくと、優しい声で慰めるように言う。
「姫様、大丈夫です。姫様が覚えやすいようにと、私たちが付いているんですから。何か分からないことがあれば、私たちに聞いてください。必ず答えて見せます」
 彰さんがそう言うと、芳香さんと四神家の面々が一斉に頷いた。私はその姿にじんと心が温かくなるのを感じて、微笑みながらお礼を口にした。
「ちょうど区切りも付きましたね。どうでしょう。少し息抜きをされては?」
 蒼士さんは彰さんが閉じた本を見やりながら、穏やかに言った。するとその言葉に嬉しそうな様子で輝石君が力強く頷く。
「蒼士に賛成! 息抜きも大切です!」
 私は蒼士さんの言葉に心から感謝しながら、顔を輝かせて輝石君に合わせて頷いた。
「では、少し勉強から離れましょうか。どう、彰?」
 芳香さんは笑いを堪えた様子で輝石君と私を見つめると、隣に座る彰さんへ視線を送る。彰さんも私たち二人の様子を見て、苦笑を浮かべながら頷いた。
「幸い姫様は呑み込みが早いですし、少し休憩しましょうか」
 彰さんの言葉に輝石君と私は顔を見合わせて喜び合う。するとその様子を見ていた聖黒さんが思い出したように声を上げた。
「そういえば、これをお借りしてきましたよ。勉強に近いかもしれませんが、最近は時間がなかなか取れないので、この休憩の間に主要な場所だけでも覚えてしまいましょう」
 聖黒さんは私に向かってそう言うと、聖黒さんの隣に置いてあった、金色の紐で留められた何重にも折られて分厚くなった羊皮紙を私の目の前へすっと移動させた。
 私が首を傾げてその羊皮紙を見つめていると、聖黒さんも私の目の前まで移動して、すっと金色の紐をほどく。それから丁寧に羊皮紙を広げていくと、にっこりと微笑んだ。
 私はそこに書かれていた図面に思わず絶句して、羊皮紙と聖黒さんを見比べる。
「聖黒さん。もしかしてこれってこの屋敷の……」
「そうです。よくお分かりですね。黒月邸の見取り図です」
 私が違うことを願いながら口にしたにもかかわらず、聖黒さんはあっさりとそれを肯定して微笑んでみせた。
「短時間でこの屋敷のすべてを把握するのはさすがに無理でしょう。そこまで入り組んだ造りにはなっていませんが、さすがに面積が広すぎますので」
 聖黒さんは羊皮紙を手で示すと、苦笑を浮かべた。その横から輝石君と朱兎さんが羊皮紙を覗き込んで、二人同時にぽかんとした表情を浮かべる。蒼士さんは私の隣に移動して羊皮紙を見つめると、一瞬で表情を硬くした。
「広いとは思っていましたけど、まさかここまでとは」
 蒼士さんはそう呟くと、彰さんと芳香さんに視線を移した。
「二人はもうこの屋敷内の配置については完璧なのか?」
「ええ、もちろん。私たちは三大として屋敷に上がった時に頭に叩き込まれましたもの」
 芳香さんが遠い日の記憶を思い出したように苦笑を浮かべると、その隣で彰さんも同情するように眉尻を下げながら頷いて、口を開いた。
「心中お察しします」
 彰さんの言葉に聖黒さんを除く四神家と私が一斉に項垂れた。
「この屋敷については私もまだ配置をだいたい把握している程度ですので、ここは彰と芳香にご教授願いましょうか」
 聖黒さんは一人だけ穏やかな笑みを浮かべながら、項垂れた四人を順番に見つめると、彰さんと芳香さんの方へ振り向いた。
「お願いできますか?」
 聖黒さんの言葉に二人は苦笑を浮かべたまま頷いて、聖黒さんの隣に腰を下ろした。
「取りあえず主要な場所だけでも覚えてしまいましょうね」
 芳香さんが元気づけるように項垂れたままの四人にそう言いながらぐっと拳を握る。
「まずこの屋敷ですが、お気づきかと思いますが寝殿造になっています。寝殿造は、一般的に中心的な寝殿が南庭に面して建てられており、対屋(たいのや)と呼ばれる付属の建物が配されている造りです。この黒月邸もそれに則って建てられております。屋敷の西北の位置に別棟が新しく建てられてはいますが、それは独立した建物となっておりますので、一般的な寝殿造と変わりません」
 彰さんは見取り図のあちこちを指さしながら、真剣に見取り図を見つめている面々に説明を始める。
「姫様のお部屋はこちら、寝殿とは渡殿で繋がれた東対(ひがしのたい)に位置しています。こちらのお部屋は代々、黒月当主の奥方のお部屋として使用されてきました。このお部屋は寝殿に次いで南庭の眺めがよいのです」
 彰さんは見取り図から視線を上げて後ろを振り返ると、後方に広がる庭園を手で示した。
「南庭は見る場所によってまったく違う景色を見せるのですよ。今度、庭の散策も致しましょう」
「それ賛成! 今度散策しましょうね、姫さま。それこそ気分転換になりそうですし」
 輝石君は彰さんの言葉に大げさに頷きながら言う。するとその隣で聖黒さんがにっこりと微笑んだ。
「それはつまりどういう意味でしょう。輝石?」
 聖黒さんはにこやかに輝石君を見つめる。その視線に輝石君はたじろいで、きゅっと唇を結んだまま勢いよく首を振った。
「えーと、このお部屋ってお義母さん――つまり闇音のお母さんですけど、お義母さんも使っていらしたんですか?」
 いつもどおりのやり取りを繰り広げる二人を横目に、私が彰さんと芳香さんに質問すると、二人は頷いた。
「そうですよ。こちらのお部屋を更様もお使いでしたが、闇音様が当主になられた時にお部屋を変えられました。今はこちら、北対(きたのたい)にお住まいです」
 彰さんはそう言うと北対を示してから、手を寝殿へすっと移動させた。
「そして寝殿には龍輝様のお部屋、つまり総帥のお部屋があります。後は当主のお部屋もこちらに――」
 彰さんが寝殿の中の特別広い部屋を指してそう言ったちょうどその時、足音も立てずに廊下を歩いてきていたらしい闇音が真咲さんを引き連れて部屋へ姿を現した。
 闇音にいち早く気づいた蒼士さんが闇音に向かって軽く一礼すると、闇音はそれに視線を走らせただけで、すぐに目を逸らした。
「進んでいるか」
 闇音は私をまっすぐに見つめてそう言ってから、私の前に置かれた羊皮紙を見て眉をひそめた。
「先程一区切りがつきましたので、今は屋敷内部の構造を覚えて頂いています」
 私の代わりに彰さんがそう答えると、闇音は彰さんを見下ろしてから私を見つめた。
「そんなもの、生活していれば覚えるだろう」
「でも私、方向音痴だからなかなか覚えられそうにないの」
 闇音の言葉に私が思わず目を伏せて言うと、頭上で闇音が溜め息を吐いたのが分かった。
「闇音様、これは私が提案したことです。責められるのなら私を」
 聖黒さんが表面上は穏やかに、闇音を見上げてそう言う。
 それを聞いた闇音は、闇色に染まったその瞳に、空気が凍りつくような冷たさを乗せて聖黒さんを見据えると、それを私へ移した。
「これぐらいさっさと覚えてもらわないと困る。いちいち屋敷内で迷われても迷惑だ」
 闇音は突き放す様にそう言ってから、未だ山積みの本を見やって彰さんの方へ向き直る。
「彰、これだけもう終わったのか」
 彰さんは闇音が指さす本の山を見てゆっくりと首を振った。
「いいえ、そちらはまだ終わっていません。姫様の後ろに置かれている本が既に終えたものです」
 彰さんの答えに闇音は眉間に皺を寄せて後ろを振り返る。その視線の先にあるのは、小山にもならないほどの量の数冊の本だった。
「たったあれだけか? 昨日丸一日と、今日も今までの時間を使ったのに?」
 闇音は淡々と冷たくそう呟くと、私を見下ろした。
「その頭がどうなっているのかは知らないが、とにかく婚儀までにすべて覚えろ。お前のせいで俺が恥をかくのはごめんだ」
 闇音はそう言うと、身を翻してその場から立ち去ろうとする。けれどそれを止めるように蒼士さんが声を上げた。
「闇音様。そのような言い方はあまりにひどいと思われませんか」
 蒼士さんの言葉に部屋にいた全員が蒼士さんを一斉に見つめる。闇音もその言葉を聞き咎めて、ゆっくりと蒼士さんの方を振り返った。
「ひどいとは思わないな。俺は本当のことを言ったまでだ」
 闇音はじっと蒼士さんを見据えて静かに言った。
 私は闇音を見つめてから、隣に座る蒼士さんへ視線を動かす。蒼士さんはまったく動じた様子もなく、ただ闇音を見据えていた。
「あなたがそう思われたとしても、美月様に対して無礼な物言いであることに変わりありません。今後は発言に気を付けて頂きたい」
 蒼士さんはなおも淡々とそう言うと、闇音をじっと見据える。
 闇音はその視線を受けて、不快なものを見るように蒼士さんを見下ろして、地にとどろくような低い声を出した。
「どういうつもりだ?」
「どういうつもりも何もありません。お忘れかもしれませんが、私たちが仕えるのは美月様です。たとえ黒月の当主といえども、我が主に無礼を働く者にはそれなりの対応を取らせて頂きます」
 蒼士さんはそう言い切ると、じっと闇音を見上げる。それに対して、闇音は冷たい視線を送る。
 その光景をはらはらした様子で朱兎さんと輝石君が見つめていた。部屋に流れるのは、張り詰めたように冷たい空気だ。
 私は咄嗟に蒼士さんの腕を掴むと、軽く揺さぶった。
「蒼士さん」
 私は小声で蒼士さんの名前を呼ぶけれど、それでも蒼士さんは闇音を睨み据えたまま動かない。私が途方に暮れて聖黒さんを見つめると、聖黒さんも闇音を直と見据えていた。
 闇音は蒼士さんから私に一瞬だけ視線を動かすと、身を翻した。
「真咲、戻るぞ」
 闇音は呆然とした様子の真咲さんに声をかけると、ゆったりとした足取りで部屋を後にした。けれど、当の真咲さんは惚けた様子で蒼士さんを見つめている。
 芳香さんは真咲さんが未だにぼうっと突っ立ったままなのを見て取ると、真咲さんの方まで歩いて行って真咲さんの肩を押した。それに我に返った真咲さんは私を見つめると深く一礼して、闇音の後を急ぎ足で追って行った。
 私は真咲さんが出ていくのを確かめると、蒼士さんへ視線を戻す。
「蒼士さん、どうしちゃったの?」
 私が途方に暮れてそう言うと、蒼士さんは私へ視線を落とした。
「どうもしていません」
 言葉短く蒼士さんが答えると、それを受け取るように聖黒さんが口を開いた。
「ええ、蒼士は間違っていませんよ。黒月の当主は我々四神より格上ですが、私たちの主はあくまで美月様です。私たちにとっては主が絶対です。それを考えれば、蒼士の発言は間違っていません」
 聖黒さんはそう言うと微笑んで見せる。
 その言葉と、笑顔の裏に秘められたものに私はさらに途方に暮れて、眉根を寄せて息を吐いた。

 

 

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