二十七

 

「えっと……」
 真っ直ぐな言葉と視線にいささか戸惑って、私は視線を泳がせる。
 白亜さんはそんな私にお構いなく、輝きを取り戻した無邪気な瞳を私へ向ける。
「闇音様」
 今度は少し窺うように、白亜さんは小首を傾げて私を見つめた。
「姉ちゃん? ここにいるのは闇音さまじゃなくて、美月さまだよ――斎野宮の姫さまだよ」
 慌てた様子で、輝石君は白亜さんの顔を覗き込んでそう言う。続いて彰さんが白亜さんの手を軽く握った。
「白亜? この方は闇音様じゃなく美月様だ。君が仕える主だよ」
「闇音様?」
 けれど白亜さんには輝石君の言葉も、彰さんの言葉も届いていないようだ。
 白亜さんは目の前の輝石君を通り越して、真っ直ぐ私を見据えている。私を闇音だと思って――。
 きらきらと生気に満ちた瞳を向ける白亜さんを見つめる彰さんの表情が、先程までとは打って変わって、どこかほっとした様子を見せている。きっとそれは、白亜さんの生き生きとした表情が見れたことに対する、純粋な喜びなのだろうと思う。
 私は俯くと、ぎゅっと拳を握って唾を呑み込んだ。それから目を閉じて気を静めさせると、顔を上げて白亜さんを見返した。
「どうした?」
 白亜さんには、声の低さや言い方は気にならないのかもしれない。けれど、私は出来る限り闇音の声音と話し方を真似する。今、彼女に見えているのが闇音なのだとしたら、私に出来ることはこれくらいしかないように思えたのだ。
 輝石君と彰さんが目を見開いて、私の顔を見つめる。
 けれど白亜さんだけは、私が返事をするとほっとした様子で笑みを零した。今日見せていた曖昧な笑みではない、しっかりとした笑顔だった。
「闇音様、ご機嫌いかがですか? この間拾われた猫は、元気にしていますか?」
 闇音が猫を拾う――。今の闇音ではどうにも想像がつかないけれど、もしかしたら闇音は動物には優しい人なのかもしれない、と私は白亜さんを見つめて思った。
 白亜さんは何も返答しない私に違和感を覚えないのか、柔らかく笑いながら言葉を継ぐ。
「私が知っていて驚きましたか? 闇音様ったら、怪我をした子や動物を見るとすぐに手当てしてしまう性格ですもんね。捨て猫も見捨てておけなかったんでしょ? 私、実は陰からこっそり一部始終を見ていました」
 楽しそうに私に目配せを送ると、白亜さんは小さく息を吐いてから言った。
「闇音様も最近はお勉強を頑張られておいでだとか。私も闇音様に負けず、最近は毎日忙しいですよ。輝石も最近はやんちゃで……」
 白亜さんはそこで言葉を切ると、幸せそうに笑う。
 前に会ったときと変わらず――もしかしたら前以上に痩せていて、その上顔色もいいとはいえない白亜さんだけれど、その微笑みは今まで見たどんな笑みよりも美しく見えた。
 輝石君は乗り出していた身体を元の位置に戻すと、深く顔を俯けた。
「でもやはり、弟というのは可愛いものですね。仕事でどんなに疲れていても、輝石の笑顔を見ると、無邪気な様子を見ると、すぐに疲れが飛んでいってしまうんですよ。闇音様もきっと、龍雲様からそのように思われているのですね。弟というのは得する立場です」
 ふふふ、と白亜さんは笑い声を零すと、ふと私を見つめて不思議そうに首を傾げた。
「どうかなさいましたか? またお辛いことでもあったのですか?」
 また≠ニいう言葉に、私の心は無意識に反応する。
 ここで頷けば、もしかすると闇音の過去を知れるかもしれない――。頭の片隅で、自分自身がそう囁くのを感じる。
「いや、何もない」
 けれど私は頷くことができずに、首を左右に振る。今のこの状況ですら、闇音の過去を覗き見ている感覚なのに、これ以上は私には耐えられそうもない。
 罪悪感のこもる私の台詞には、白亜さんは何の疑問も感じないのか、柔らかく微笑んで頷いた。
「それでしたらよろしいんですけど。私はまた、龍雲様にお会いになれずにいるのかと、要らぬ心配をしてしまいました」
 龍雲様。
 私は口の中でその言葉を反芻させる。
 龍雲さん、それは闇音のお兄さんだ。闇音の亡くなった、お兄さん――。
 いつだったか、天界に来て間もない頃に聞いた話を、記憶の底から呼び覚ます。
 龍雲さんが亡くなったのは、たしか闇音が五つのときだった、と聞いた覚えがある。つまり今、白亜さんが私を通して見ている闇音は、五歳以前の闇音ということだろう。
「……やはり、お会いになれないのですか?」
 私の沈黙を肯定と受け取ったのか、白亜さんは心配そうに、私に重ねているだろう闇音を見つめた。
「えっと……」
 今さらになって、闇音の振りをした自分に後悔する。私がこんなことしたばっかりに、闇音の過去を覗き込むような事態を招いてしまったのだ。
 けれど、心のどこかでそれを受け入れようとする自分がいる。闇音の閉ざされた過去を知れる、またとない機会だと。
「龍雲様もお忙しいんですよ。私は自分が当主だから分かります。本当に大変なことが山積みで、輝石の相手もろくにできない日々ですから」
 白亜さんは、まるで小さな子どもに言い聞かせるように、慈愛に満ちた表情を私に向ける。
「龍雲様は、私に会うたびにおっしゃいます。闇音様が気掛かりだ、と。住んでいるところも違うから、闇音様がお健やかでいらっしゃるかなかなか確かめられず、闇音様が折角いらしても、会うことを許されないのが口惜しいと」
「白亜さんは知ってたんですか? 闇音が別棟に住んでることを」
 白亜さんの言葉に巣に戻ってしまった私は、思わず訊ねていた。「しまった」とすぐに思ったけれど、幸いにして白亜さんには聞こえなかったのか、優しい笑顔を浮かべたままだった。
「龍雲様は闇音様のことを心から思っていらっしゃいます。龍雲様がもっと大きく立派になられれば、きっと闇音様とお会いになることをご両親もお許しになりますよ」
 白亜さんはそう言うと、膝を付いて歩いて私の元までやってくる。そして温かな手で私の手を包み込んでくれた。
「闇音様のよさは今にきっと、龍雲様だけではなく、他の方々も気づいてくれるようになります。それまでは私たちが付いていますよ。だから寂しく思うことなんてありません。闇音様は決して一人ではありませんから」
 白亜さんはそう言うと、そっと私の頬に触れて聖母のように微笑んだ。白亜さんの笑みは心を解してくれるような温かさを伴っていた。
 けれど、それだけでは癒すことができないものが、私の心に広がっていく。例えようのない悲しみが、柔らかい手に包まれた自分の手を急速に冷やしていくのを感じる。
 龍雲さんは、闇音と会うことを許されずにいた。闇音をどれほど気に掛けていても、両親から闇音と会うことを許してはもらえなかったのだ。
 お義父さんやお義母さんは、龍雲さんが生きていた頃、一体どんな風に闇音に接していたのだろう。まさか、本当に闇音を愛していないとでも言うのだろうか……?
 私は思わず、体温を失った手を強く握り合わせた。
 闇音はどれほどの長い時間を、一人で過ごしていたのだろう。たった一人、心から慕っていただろう兄に会うことも許されず、それに耐え続けた彼の心は今、どれほど脆くなっているのだろう。

 

 

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