十八

 

「それでは、今日出掛けられるかは分かりませんが、とにかく闇音様のところへ行ってみましょう。そうしなければ話も進みませんしね」
 聖黒さんはゆっくりと立ち上がると、私を促すようにそう言った。
「約束なしで行って会えるものですか?」
 何の迷いもなく歩きだした聖黒さんを見つめて、一抹の不安を感じた私は問いかけた。私の気持ちを悟ったのだろうか、聖黒さんは立ち止まって振り返ると、私の不安を取り払うように穏やかな笑顔を浮かべた。
「もちろんお会いできると思いますよ。妻が夫に会うのに、事前の約束など必要ないでしょう?」
「でも相手はあの闇音です」
 ゆったりと微笑む聖黒さんの言葉でも私の不安は払拭されず、小さく呟く。すると聖黒さんは苦笑を浮かべて言った。
「闇音様が相手でも、何も変わりませんよ」
 そう告げると、聖黒さんは私を笑顔で促して歩き出した。
 会えない気がする、と私は心の中で呟きながらも、ゆっくりと立ち上がって聖黒さんを追った。
「でも美月様のお気持ちも分かります。少し不安ですよね」
 朱兎さんは私の隣に並ぶとそっと屈んで私に耳打ちする。私が耳打ちに同意の意を示すと、朱兎さんとは反対側の隣に並んだ蒼士さんが言った。
「大丈夫ですよ。私は会えると思います」
「えー? 何でそう思うんだよ?」
 少し遅れた輝石君が駆け足で蒼士さんの隣に並ぶなり、首を傾げて隣を見上げた。
「お二人は夫婦ですから」
「そうは言ってもね」
 静かに言い切った蒼士さんに、朱兎さんがそれとなくそう言う。すると一歩前を歩いていた聖黒さんが振り返って、晴れやかな笑みを見せた。
「万が一会えないとなる場合は、それ相応の理由があるものです。どうしても手が離せない仕事――例えば、黒月家の存亡に関わるといったような――がある場合のみでしょう。もし何の理由もなく美月様にお会いするのを断れば……」
 聖黒さんは笑顔を浮かべたまま言葉尻を濁して、また前を向いて歩き出す。それを見た輝石君が顔を引き攣らせた。
「聖黒、本気で恐いからやめて」
 ぶるりと身体を震わせて、両腕を温めるようにさすりながら輝石君が言った。
「――冗談ですよ」
 輝石君の言葉に微妙な間を持たせて聖黒さんが答える。そのほんの一瞬の間に、輝石君は両腕をさする手に力を込めた。
 その様子を隣で見ている蒼士さんは、今にも噴き出しそうな表情を浮かべている。ふとそれに気づいた輝石君は、物言いたげな視線を蒼士さんへ送った。
「蒼士。言いたいことがあるならはっきり言え」
 不満そうな輝石君の声音に蒼士さんは軽く噴き出してから、すぐに真面目な表情を取り繕った。
「別に」
「別にじゃないだろー! 今、噴き出したの俺ちゃんと見た!」
 淡々と告げる蒼士さんに、不満の色を露わにして輝石君が大きな声で抗議する。すると今度は反対側で控えめな笑い声が上がった。
「輝石はそうやってすぐに反応するから聖黒に遊ばれるんだよ。誰が聞いたって冗談だって分かるのに」
 朱兎さんは心地よい笑い声をあげながら身を乗り出して輝石君を見つめる。朱兎さんの言葉に反応して、聖黒さんは長い髪をなびかせてもう一度振り返ると、
「これは心外ですね。私は冗談など言いませんよ?」
 とにっこり笑顔を浮かべて言った。
「え、笑顔に腹黒さが見えるぞ! 聖黒!」
「ほら、そうやって反応するから。ねえ、美月様?」
 聖黒さんの発言に一番に反応した輝石君に、朱兎さんはまた笑い声をあげて同意を求めるように私を見下ろした。
「でも聖黒さんの気持ちも分かる気がします。輝石君の反応っていつも楽しいし」
 私が頷きながらそう言うと、輝石君が頭を抱えて項垂れた。いつもながら一人で賑やかな輝石君だ――と思いながらもそれは口に出さずに輝石君へ視線を送る。輝石君のこういう明るさは、この家にいる私に何か大切なことを思い出させてくれるような気がした。
「美月さままで……」
 私が一人そんなことを考えているとは知らない輝石君は項垂れたまま呟く。すると、その隣を歩く蒼士さんが彼を慰めるように軽く頭を撫でた。
「聖黒さんも輝石が可愛いのは分かりますけど、もう少し直接的に可愛がったらどうです? それに美月ももう少し――、失礼しました」
 微苦笑を浮かべながらも楽しげに話し出した蒼士さんは、途中で言葉を不自然に切って声のトーンを明らかに落としてそう言った。私は久々に聞いた蒼士さんの懐かしい自分を呼ぶ声を聞き逃すわけもなく、急いで蒼士さんを見上げた。
 蒼士さんが黙り込むと、空気が一瞬にして色を変えた。先程まで暖かな色をもっていた空気は、今は一変して暗い色へと落ち込んでいる。
 呼び捨てでも構わないのに、という言葉が出かかって私は慌てて口をつぐむ。いくら私が名残惜しい気持ちでそう告げても、きっと蒼士さんは硬い表情で首を横に振るだろう。きっと蒼士さんを困らせてしまう、そう思うと私の気持ちは自然と舌の上で言葉とともに消えていこうとする。
「仕方ないよ。蒼士はずっと美月様の傍にいたんだし、その十六年間は美月様とは呼べなかったわけだし。つい昔の癖が出るってこともあるよね。――ねえ、聖黒?」
 誰も喋ろうとしない状況の中、明るい声を出して朱兎さんが取り成すようにそう言って聖黒さんに同意を求める。突然名前を呼ばれた聖黒さんは、さらりと髪を揺らして振り向くと苦笑を浮かべた顔を見せた。
「そうですね。そういうこともあるでしょう」
 聖黒さんがそう言うと、隣を歩く蒼士さんがほうっと長い息を吐き出したのが分かった。それと同時に、蒼士さんが一瞬で纏った張り詰めた空気を和らげるのが私にまで伝わる。
 蒼士さんはここまで気を張り詰めて私の傍にいてくれているのだと思うと、私はやるせない気持ちになって俯いた。
「じゃあさ、もしも俺が美月さまと一緒に下界に降りてたら、美月さまのこと何て呼んでただろ? 美月? それとも泉水様みたいに美月ちゃんかなあ」
 輝石君も場を明るく盛り上げようとしているのか、いつもよりオクターブが上がった声でそう言った。無理に楽しい雰囲気を作ろうとしているのが分かって、私は笑顔を意識的に作ると少し顔を傾けて輝石君を見つめた。
「輝石君なら呼び捨てだったんじゃないかなあ? ちゃん付けされる感じはしないし。朱兎さんならちゃん付けして呼んでくれそうですけど」
「そうですね……僕ならきっと美月ちゃんでしょうね」
 私がついと朱兎さんへ顔を向けると、朱兎さんは軽く顎に手を当てて考える仕草をしてから、納得した表情で頷く。
「では聖黒さんなら何と呼んでいたと思いますか?」
 先程まで纏っていた緊張感をすべて柔らかい空気に変えて、蒼士さんが会話に加わった。
「そうだなあ……。聖黒さんならやっぱり、さん付けでしょうか」
 蒼士さんが会話に入ってきてくれたことが純粋に嬉しくて、私は前を歩く聖黒さんの大きな背中をじっと見つめながら笑顔を浮かべてそう返した。すると蒼士さんは私の隣でゆっくりと頷いた。
「そうですね。聖黒さんならきっと美月さんでしょうね。落ち着いた感じが聖黒さんにぴったりです」
「そっかー。じゃあ俺がもし下界に降りてたら、美月さまのこと呼び捨てにしてたんだな。美月って」
 輝石君は会話の流れを切って、楽しげな笑顔を浮かべながら一人呟くと、美月、と改めて私を呼びながらにっこり笑ってこちらへ笑顔を送る。私がそれに答えようと口を開いたそのとき、聖黒さんが前触れなくくるりと振り返って、笑顔すぎる笑顔で輝石君を見やった。
「輝石? それ以上美月様のことを呼び捨てにすると許しませんよ?」
 いつも以上に輝く穏やかな笑顔に輝石君が一瞬で固まった。
「軽い冗談だろ。本気になっちゃ負けだよ、聖黒」
 聖黒さんのある種の凄みのある言葉と表情に、輝石君がたじろぎながらやっとそう返した。
 私はそれを見つめながら、いつものやり取りを苦心して作り出してくれただろう四人に心の中で深く感謝しながら微笑んだ。

 

 

back  龍月トップへ  next

 

小説置場へ戻る  トップページへ戻る

 

Copyright © TugumiYUI All Rights Reserved.

inserted by FC2 system