黒月家の当主――黒月闇音が立ち去った後、私は地面に足を縫いつけられたかのようにその場から動くことができなかった。闇に紛れて消えていった黒い着物の残像が、目に焼き付いて離れなかった。
 あまりに部屋に戻るのが遅い私を心配して蒼士さんが様子を見に来てくれるまで、私は彼が出て行った門をずっと見つめ続けていた。私が呆然としながら彼が来たことを告げると、蒼士さんは無言で険しい顔つきになって私と同じように門を見つめた。
 それから蒼士さんは私に視線を戻して「春と言っても夜の風に長く当たるのはいけません」と言って私を部屋まで送ってくれた。

 

 

「納得いかない」
 翌日、輝石君が黒月闇音の昨夜の唐突な訪問の様子を聞いて、不満気に呟いた。
「まず、約束の時間に大幅に遅れてきたことに対する謝罪は? 説明は? それに、姫さまに会うなら会うで、ちゃんと俺たちを通して欲しいんだけど。勝手に屋敷に入って、しかも勝手に姫さまに会うなんて、不法侵入だし変質者だ」
 輝石君のその意見に思わず笑ってしまいながらも「確かに」と考える。どうやら彼は塀を飛び越えて庭へ入ってきたらしかったのだ。
「輝石の言うことも一理あります。勝手に塀から屋敷に入るのはよくないですね。不法侵入です」
 聖黒さんが輝石君の意見に頷きながら言った。
「それに、僕たちのことを無視して姫君に会ったのも癪に障る」
 朱兎さんがあからさまに嫌悪感を出しながらも、最後に小さく「それは確かに、あのとき姫君を一人にしたのは僕たちだけど」と苦々しく付け加えた。
「美月様、闇音様はお一人でいらっしゃっていたのですか?」
 聖黒さんが私を見て尋ねた。
「はい。彼一人でしたけど」
 私の答えを聞いて、長く黙っていた蒼士さんが(おもむろ)に切り出した。
「何か――変なことはされなかったでしょうね」
 訊ねられた言葉の意味がすぐには分からなくて、首を傾げながら蒼士さんを見ると、蒼士さんは困惑したような顔で私を見つめていた。
 そんな蒼士さんの質問を聞いた三人は、それぞれ顔を真っ赤にしたり、目を見開いたり、さっと血の気が引いた顔になって、蒼士さんに向けていた視線を私へ勢いよく走らせた。
「その、変なこととは……?」
 私が蒼士さんにおずおずと訊ねると、蒼士さんは言いにくそうに顔をひそめてから口を開いた。
「その、昨夜の美月様の様子が少し変に思えたので」
「あぁ……あれはなんて言うか――特にあの人に何かされたわけじゃないよ。あの人はただ名前を告げて、去って行っただけだったから」
 私が四人に向かってそう答えると、三人はほっとした表情になったけれど、蒼士さんだけは少し腑に落ちない表情をした。
 あのとき私は、彼が怖いと思ってしまった。あの目で見つめられると、底のない深くて暗い穴に引きずり込まれそうで、恐ろしかった。その恐怖が私の思考を停止させて、あの場から動けなくしていたのだった。
「――どうですか? 美月様」
 自分が声を掛けられていることに気がついて、はっと我に返る。
「ごめんなさい、聞いてませんでした。何ですか?」
 申し訳なく聖黒さんを見上げると、聖黒さんはいつもと変わらない優しい笑顔で「屋敷の外を散歩しませんか」と提案してくれた。
「勝手に出歩いても大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫ですよ。令様から許可はいただいておりますから」
「じゃあ、是非お願いします」
 聖黒さんの提案に嬉しくなった私は、少し大きな声でそう答えた。この世界に来てからというもの、私はまだ一度も屋敷の外に出たことがなかったのだ。うきうきとした気持ちが表面にも表れてしまったらしい。私を見て四人が楽しそうに微笑んだ。
「美月様、どこか行きたい場所はありますか? こういう所に行きたい、とか」
 蒼士さんが優しい笑顔を向けてくれる。その笑顔に居心地がよくなって、私は嬉しい気持ちでうーんと顎に手を当てた。
「そうだな……。みんなの好きな場所に行ってみたいです」
「だったらここからは少し遠いですけど、小野原(おのはら)はどうですか?」
 朱兎さんが少し身を乗り出して言った。
「小野原、ですか?」
「はい。美しいところですよ。小川が流れていて、近くには小さな森林があります。その森林を抜けると湖があって、気分転換にはもってこいの場所です」
 どうやら小野原という場所は朱兎さんのお気に入りスポットらしい。生き生きと熱のこもった紹介をするので、私もだんだんその気になってきて乗り気で答えた。
「じゃあ小野原に行きたいです」
「だったら何か食べるものを作って持って行きませんか? ちょうどお昼時になりますし」
 蒼士さんのその提案に全員が頷いているところに、賑やかな様子が気になったらしい母がひょっこり顔を出した。
「楽しそうね。何の計画?」
 母は私を見つけると、優しく目を細めた。その視線に田辺の両親を思い出して少しだけ胸が痛んだけれど、私は笑顔を浮かべて母を見つめ返した。
「今から小野原にみんなで出掛けようと思ってるんです。それで、ちょうどお昼時になるし何か食べ物を作って持って行こうっていう話になって」
「それは楽しそう!」
 母はぱっと顔を輝かせて、きらきらした瞳を私へ向けた。
「それで相談なんですけど、ここの台所を借りてもいいですか?」
 母は私の言葉を聞くや否や、うーんと唸ってみせた。
「そうねぇ……。それでもよいけれど、一つ条件があるの」
 母はそう言うと、少し意地悪な表情でじっと私たちを見つめる。私はきょとんと目を見開いて母を見つめてから、どんな条件が出されるのかと少しどきどきして母の言葉を待つ。母はすぐに意地悪そうな表情から一転して楽しそうに微笑んだ。
「私にもお弁当作り、手伝わせてね」
 母の言葉に私は拍子抜けして「はあ」と呟いた。
「だって、ずるいもの。私はこれから用事があるから一緒に出掛けられないのに、四人はずっと美月と一緒にいるじゃない? 娘と一緒に台所に立つ≠ネんて母親の夢なのに、それくらい我がままを言っても罰は当たらないと思うの」
 母は頬を少し膨らませながら四家の当主を眇め見た。こういう表情をすると、本当に三十六歳なのかと目を疑うほど母は可愛らしかった。

 

 

back  龍月トップへ  next

 

小説置場へ戻る  トップページへ戻る

 

Copyright © TugumiYUI All Rights Reserved.

inserted by FC2 system