時刻は既に午後の八時半を過ぎている。しかし、未だに黒月家の当主は見えていなかった。
「遅いなー」
「遅いね」
「遅いですね」
「遅い」
 四人はここ何時間かの間に、この台詞を何度も繰り返していた。
 輝石君は少しいらいらしながら、朱兎さんは時の流れに身を任せながら、聖黒さんは困りながら、蒼士さんは溜め息交じりに、だ。
「本当に今日、来る気があるんでしょうか。もうそろそろ九時になるし、今日は来ないんじゃないかな」
 待ちくたびれた私は四人に向かってそう言ってみた。昨日あまり眠れなかったせいで、もう眠気が襲ってきている。できることなら、このまま眠ってしまいたかった。
「来る、と思うんですが」
 蒼士さんはやはり嘆息してから答えた。
「ねえ、私ちょっと散歩してきてもいい? 庭とか見て回りたいの」
 私はそんな蒼士さんに向かってお願いしてみる。ここでじっと待っているよりも、少し身体を動かして、眠気を少しでも覚ましておきたかったのだ。
「じゃあ、俺たちも一緒について行きます」
 輝石君がすかさずそう言ってくれたけれど、私は「一人で大丈夫だから」と捨て台詞の如く告げて、部屋から抜け出した。背後で蒼士さんが私の名前を呼ぶのが聞こえた。

 

 縁側を歩いていると、少し冷えた夜風に眠気が飛んでいくのが分かった。すっきりとした頭で、まだ行っていない北の庭へ行ってみよう、と一人結論を出す。
 広い屋敷を一人で歩く。そこには私の足音しか聞こえない暗い空間が広がっている。
 聖黒さんから聞いた話によると、現在、女中さんが一人としていないこの屋敷は、どうやら母たっての願いの結果らしい。普段のこの屋敷には女中さんがたくさんいるらしいのだけれど、私の世話を自分で焼きたいという母の要望で、私が嫁ぐまでの二ヶ月間は女中さんたちには暇を取ってもらったそうだ。
 そんな話を聞いてしまうと、両親への態度を軟化させずにはいられない。どうやら話をした聖黒さんにはその狙いがあったらしく、私が二人への態度を和らげたその隣で、曰くありげに微笑んでいた。
 これからのこと、泉水さんのこと、そしてまだ会っていないもう一人の夫候補のことをなんとなく考えながら歩き続けていると、いつの間にか北庭に到着していた。
 北庭を目の当たりにした私は、思わず感嘆の声をあげていた。暗闇の中でたくさんの沈丁花(じんちょうげ)が咲いているその様は、目を見張るものがあった。そろそろ咲き頃が終わるのだろうか、沈丁花には少し元気がなかったけれど、それでも月の光を受けて白い花たちは闇の中で淡い光を放っている。
「綺麗」
 思わず呟いてから、私は庭に下り立った。沈丁花に近づいて、そっとその花に触れてみる。柔らかな手触りが、この花がしっかりと生きていることを伝えてくれる。
 縁側に座って観賞しようと思い立った私は、花を見つめたまま数歩後ろに下がった。けれどすぐに、どんと大きな音を立てて誰かに衝突してしまった私は、咄嗟に「ごめんなさい」と言いながら振り返った。
 四神の誰かだろうと思っていた私の考えは、すぐに消え去ることとなった。タイミング悪く月が雲に隠れて、辺り一面が光を失ってしまう。けれど、闇に微かに浮かぶシルエットが知り合いのものではないことは明らかで、酷く居心地が悪くなった。
 だんだんと暗闇に慣れてきた目に、闇に溶け込みそうな黒の着物を着たすらりとした男の人の姿が浮かび上がる。相変わらず月の光が雲で遮断されているために、その人の顔までは分からなかった。
「そんなにその花が美しいのか」
 低い、けれど心地よい音程の美しい声がその人から発せられた。その瞬間、なぜだか分からないけれど、この人が黒月家の当主だと直感的に感じた。
 闇の中、圧倒されるような気配を纏ったその人に、喉が締まって声が出せない。ようやく雲から顔を出した月が辺りを光で照らして、その人の姿を私の瞳に映し出した。
 闇にすんなりと溶け込む漆黒の髪に、同じ深い色をした瞳。切れ長の美しい形をしている瞳を、黒く長い睫毛が縁取っている。その瞳は、先程までの暗闇にも機能を失うことがなかった様子で、たじろぐことなく私を見据えていた。
 その人の顔立ちといい醸し出す雰囲気といい、なにか泉水さんとは別の圧倒的な――いや、超然的なものが感じられる。天界へやってきてたくさんの美しい人たちに出会ったけれど、これほどまでに美しい人は今まで見たことがなかった。泉水さんの神秘的な美しさとは違う、凛としたしなやかな美しさだった。
「俺が誰なのか、聞かないのか」
 その人は何も言えない私を見据えたまま、淡々と訊ねる。その声に人を切り裂いてしまうような冷たさが秘められているのを感じ取った私は、思わず後ずさった。
「あなたが黒月家の当主ね」
 何とか声を振り絞る。彼は私を見つめる目をすっと細めて「そうだ」と言葉短く答えた。
 感情の籠っていない瞳。一切の感情を消してしまったような瞳。その瞳からは当然あって然るべきの「生きたい」という気持ちさえ伝わってこない。けれどその冷淡が、皮肉なことに彼の刹那的な美しさを際立たせていた。
「黒月闇音(あんね)
 闇に紛れてしまいそうな姿で、彼は私から目を逸らさずに告げる。
「黒月家の当主、黒月闇音だ」
 再度、自分の名を告げたその人は、やっと私から視線を外すと、踵を返して屋敷の門へと向かって行った。

 

 

back  龍月トップへ  next

 

小説置場へ戻る  トップページへ戻る

 

Copyright © TugumiYUI All Rights Reserved.

inserted by FC2 system