芍薬の間は、大河ドラマでよく見かけるような、畳が何畳分あるのか分からないくらい広々とした部屋だった。襖を開けると、上座に母とその隣に父と思われる人が座っていて、下座から入った私には二人が小さく見えたほどだった。
 父は見たところとても若々しく、母と同じように十六の娘がいるような人には思えない。彼は綺麗な栗色の髪をしていて、それは私と同じものだった。けれど当然というか、自分の父親だという感情はこうして実際に会ってみても湧いてこない。
 でも――と思いながら、じっと二人を見つめる。きっと、目に見えるものだけではなくて、自分でも分からないものでこの二人から受け継いだものはたくさんあるのだろうと、ふっと気づかされる何かがあった。
 父は聖黒さんの言うとおり「気が立っていると言ってもよさそうなほど」落ち着きがなく、母がしきりに落ち着くように諭していた様子だった。
 そして部屋には両親の他にもう一人、フランス人形のような綺麗な顔立ちをした男性がいた。その人は傍から見て分かるほどそわそわしていて、只ならぬ空気を醸し出している父に圧倒されている様子だった。きっとこの人がさっき話に出ていた朱兎さんだろう。
 父は私たちが到着したのを見ると嬉しそうな表情を浮かべて、朱兎さんと思われる男性はあからさまにほっとした表情を浮かべた。その様子に輝石君がにやりと笑ったのを感じた。やはり彼が朱兎さんで間違いがないようだった。
 聖黒さんに促されて、私は上座に一番近い座布団に座る。聖黒さんと朱兎さんは私から向かって右側に、蒼士さんと輝石君は向かって左側に、上座の二人と私がそれぞれ見渡せるような形で腰を下ろした。
「令様、美月様をお連れいたしました」
 聖黒さんが静かな声でそう告げる。父は深く頷くと、私を感慨深げにじっと見つめた。
「美月、久しぶりだ。……もっとも、お前にとっては初めてと同じだろうが」
 その言葉になんと答えていいのか分からなくて、ただ「はい」と小さな声で答えた。
「聖黒と蒼士から聞いているだろうか。私がお前の父親で斎野宮令、こちらがお前の母親で斎野宮有だ」
 父が母の方へすっと手を出して紹介するポーズをとった。母は私を見て遠慮がちに微笑んだ。それに私は小さな会釈を返す。
「田辺家には私からよくよく感謝の意を告げておく。お前をこんなに立派に育ててくれたのだから」
 私はまた小さな声で、はい、とだけ答えた。
「美月、お前にとってはこの世界は馴染みないものだろう。無理もない。お前はこの世界のことを何一つ知らされずに育ったのだから――きっと田辺の二人が恋しいだろう」
 父は最後の一言を、とても静かな声で付け加えた。父の顔を見てみると、とても寂しそうな悲しそうな、そんな表情をしていて、私は少し申し訳ない気持ちになった。
「お前を色々なものから急に切り離してこの世界に連れ戻したこと、悪いと思っている。だが、私たちはお前を手元に呼び寄せるのを十六年間我慢した。お前を失いたくなかったからだ。その父と母の気持ちを、どうか理解して欲しい」
 父は訴えるように私に言った。その言葉が切々とした響きを持っていて、胸に迫ってくるものがあった。私は俯きがちになる顔を上げて、上座に座る馴染みのない二人の顔を見つめた。
「私は……元いた世界に戻りたいと、思っています」
 とにかく今の気持ちを正直に話してそこから始めないと、とそう思った。
 私が発した言葉を聞いた父と母は、打ちのめされたようにふっと光が消えた瞳を私へ向けた。母は素早く俯いて、そっと顔を手で覆った。
 蒼士さんと聖黒さんは、表情を変えずに私を見つめている。輝石君は小さく「えっ」と零して、朱兎さんは見るからに吃驚した様子で目を見開いていた。私はそんな彼らの反応を見てから、一度瞳を閉じてもう一度開けた。
「私は田辺家の二人のことを、本当の父と母だと思って今まで育ってきました。だから、今の私にとっては、お父さんとお母さんが私の本当の両親です」
 私が言う「お父さんとお母さん」が自分たちのことを指していないことは二人にも伝わったのだろう。母は俯いたまま私の言葉を頷きながら聞いて、父は悲しみに染まった視線を私に投げていた。
 私は俯かないように気をつけて、はっきりと前を見て言葉を続ける。
「でも、あなた達二人がどれほど私を心配して愛情を注いでくれていたのかは、二人の様子を見れば私でも分かります。だから、それを見ないふりをして二人から目を逸らすようなことはしません」
 その声は私自身が聞いても、堂々としていて納得がいく声だった。
「今はまだ二人に対してどう接すればいいのか分からないけど……」
 最後に付け加えたこの言葉は、先に続く台詞を失って尻すぼみに消えていった。それでも母はすっと顔を上げて「ありがとう」と小さく呟いた。お礼を言われるようなことはしていないのだけれど、と思いながら父へ視線を移すと、父はどこか誇らしげに私を見つめていた。
「美月、私たちはお前が私たちを恨むのではないかと思っていた。理由はどうあれ、お前を捨てたと取られても仕方がなかったからだ。だがお前は私たちを受け入れようとしてくれている。それが私たちにとってどれほど幸せなことか、お前に分かるだろうか」
 父はそう言うと最後に一言、母と同じように「ありがとう」と付け加えた。
 少しの間、この余韻に浸るような沈黙が続く。父と母は熱心に私を見つめていて、だんだんとその視線が恥ずかしくなってきた頃に、聖黒さんが見かねた様子で口を開いた。
「令様、そろそろ本題へ」
 その言葉は遠慮がちではあったけれど、父を我に返らせるには十分な力が籠っていた。
 そうだった、と父は小さく呟くと、表情を引き締めた。
「美月、まずは四神家について話そう」
 父はそう言うと、聖黒さん、蒼士さん、輝石君を手で示した。
「この三人はもう既に知っているだろう。北聖黒、東蒼士、西輝石だ。蒼士については私たちよりもきっと、お前の方が色々と知っているだろうな」
 父のどこかからかうような最後の台詞は蒼士さんを酷く慌てさせたようだった。蒼士さんが「御当主」と咳払いをしながら呼びかけると、父は「冗談だよ」と笑顔で告げてから、真面目な顔に戻って朱兎さんを手で示した。
「そしてこちらが(みなみ)朱兎だ」
 父がそう紹介すると、朱兎さんは私の方へ身体を向けて深々と一礼した。
「お初にお目にかかります、姫君。紹介に与りました、南朱兎です。南家の当主、朱雀(すざく)の務めを果たしています」
 朱兎さんはそう言い終えると、にこっと口元を緩めた。
「はじめまして、美月です」
 私が挨拶を返すと、朱兎さんはさらに柔らかく微笑んでくれた。
 朱兎さんは遠目から見ると、まさしくフランス人形というような美しい顔立ちだったけど、近くで改めて見てみるとフランス人形というのとは少し違うような気がする。盗み見るように朱兎さんを見つめる私の頭に「美術品」という言葉が浮かび上がってきて、私は密かにそれに納得する。朱兎さんは完璧な美の比率を知りつくした彫刻家が手掛けた美術品といった印象で、ひとつひとつのパーツを取っても完璧な秀麗さだったのだ。
 うっかり朱兎さんに見惚れてしまっていた私を引き戻すように、父が先程よりも大きな声で話を始めた。
「気づいたかもしれないが、彼らは四神の名を戴いている」
「四神ってあれですよね。四方の方角をつかさどる神……」
 私が小声でそう言うと、父は深く頷いた。
「そうだ。その名のとおり、四家の屋敷はこの都の四方の方角にそれぞれ位置している。そして彼ら一族は四神の化身なんだ。北家は玄武、南家は朱雀、東家は青龍、西家は白虎といったように。だから、四家の当主は代々その名を継いできた」
 そこで父は一旦言葉を止めると、一つ間を置いた。
「遥か昔、四家はそれぞれ反目し合っていた。互いに強い力を持っていたために、対立していたのだ。しかし、あるとき都に災厄が降り注いだ」
 父はそっと顔を背けると、縁側越しに見える池へ視線を投げた。
「その災厄を食い止めるには、四神の協力が必要だった。しかし、四神には協力する心など芽生えなかった。そんな四神を見て、決起したのが斎野宮の神子(みこ)だった。斎野宮の神子は強い力を持ち、災厄から都を守る役目を遣わされていたと伝えられている。それ故に、斎野宮の神子は強い力と心をもって四神を束ねた。それ以来、四神は斎野宮に仕えている。斎野宮は現在ではもう神子としての役割を担ってはいないがね」
 父は私へ視線を戻すと、強く揺るがない瞳で私を見つめた。
「四家の当主は本来なら、斎野宮の当主である私に仕えるべき存在だ。だが、現在私に仕えているのは四家の総帥で、ここに揃った当主はお前を主としている。斎野宮から嫁ぐお前を守るために、だ」
 父の隣で母が着物を強く握りしめる音が部屋の中に響いた。父の言葉で突如として静まり返った部屋で、私はその言葉の意味が分からず目を瞬いていた。
「……とつ、ぐ?」
 聞き間違いかと思って、その言葉を繰り返す。けれど聞き間違いではなかったようで、父はゆっくりと重々しく頷いた。
「そうだ――お前は二ヶ月後、嫁ぐ」
 今日一日で、色んな事があった。もうどんなことにも驚かないと思っていた。けれど、どうやらその予想は外れたらしい。
 私は驚きを隠さずに父と母を見つめた。これから話される内容に、どれほど自分の心は揺さぶられるだろうと心配しながら。
「無事に十六を迎え、天界へ戻った斎野宮の娘を娶ると、その一族の繁栄が約束されると言われている。そのために昔は、その娘の争奪戦ともいえる醜い争いが繰り広げられた。その争いの中で娘は亡くなることが多く、今まで嫁取りに成功した一族はいない」
 父は顔を歪めると、それ以降はぽつりぽつりと言葉を吐き出すようにして話す。
「そこでやっと二百年前に取り決めがなされた。娘を娶ることができる家は、この世界を統べる白月(しらづき)家か黒月(くろづき)家のみ、という取り決めだ」
 父はそこで私から目を逸らすと自らを励ますように深呼吸してから、もう一度私へ視線を戻した。
「この天界は白龍(はくりゅう)の化身である白月家と、黒龍(こくりゅう)の化身である黒月家が治めている。その力は互角で、どちらかが勝りどちらかが劣るといったものではない。そのために白月と黒月の両家が天界を二つに分け、それぞれを治めているのだ」
 父はそこで母を気遣うように見遣って、まるで元気づけるようにその手を母の手に重ねた。
「嫁取りのための醜い争いを二度と起こさないようにと両家が手を結び、斎野宮の娘は白月家か黒月家の当主のどちらかに嫁ぐ、ということになった。そして嫁ぐ時期は、娘が天界へ戻ってから二ヶ月後、とその時に決められたのだ」
 父は悲痛な面持ちで私を見つめていた。父の心の中で葛藤が生じていることは明らかだった。
「白月と黒月、その力の強さは斎野宮も四神も敵わない。私たちはまた、お前に酷なことを強いらなければならない」
 父はそう言い終えると私から視線を外す。すまない、と父の小さな声が聞こえた。
 その一言で、これは私の了解を得るための話ではないのだと、私は理解した。私は二ヶ月後、白月家か黒月家へ嫁ぐ。それはもう決定事項なのだ。
 どれほどざわつくのだろうかと心配していた心は、意外と冷静だった。

 

 

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