部屋を出ると、目の前には綺麗に手入れがなされた庭が広がっていた。月の光を浴びて、庭自体がきらきらと輝いている。すっと暖かい春の香りを含んだ風が吹き抜ける。庭に植えてある木々や花々がそれに応えて揺れた。
「あの……聖黒さん?」
 前をゆっくり歩くその人におずおずと声を掛ける。
「どうかなさいましたか?」
 聖黒さんは立ち止まって私の方を振り向くと、少し首を傾げて私を見つめた。さらさらと聖黒さんの漆黒の髪が背中を流れる音がする。
 聖黒さんのその姿があまりに幻想的に目に映って、思わず目を逸らしてしまいながら私は「何てお呼びすればいいですか」などと的外れなことを聞いてしまった。
「聖黒、とお呼びくださればと思いますが」
 そっと視線を戻して聖黒さんを見上げると、私の明らかにおかしい様子に聖黒さんは不思議そうな表情を浮かべていた。
 そんな私たちのやり取りを見てか、蒼士さんが忍び笑いを漏らした。私は蒼士さんへ視線を移して、助けてくれればいいのに、と心の中で唇を突き出した。
「で、でも、聖黒さんは私より年上ですよね? 呼び捨てはやっぱりどうかと……」
 なんだか変な方向に話が進みつつも、私はそれに委ねることにした。
「では、お好きなようにお呼びください」
 優しい笑顔で聖黒さんが私を見つめる。その笑顔に私は再び目を逸らした。
 これは駄目でしょう、と私は心の中で思う。こんな大人の余裕というか魅力というか、そんなもので包まれたら挙動不審人物になってしまう。
「ふぅん。じゃあ聖ちゃんって呼んでもいいんだ」
 いつの間にか聖黒さんの後ろに私と同い年くらいの小柄な男の子が立っていて、その子が悪戯っぽくそう言った。すると、聖黒さんは振り向きもせずに、
「もちろん、あなたは駄目です。輝石(きせき)
 ときっぱり言い切った。
「何それ、さっき好きなように呼んでいいって言ってたくせにー」
 その子はわざとらしく駄々をこねるようにそう言うけど、聖黒さんはそれを無視して、
「さて、参りましょうか」
 と私に向かって爽やかな笑顔を向けた。
 先程までの優しさ全開の聖黒さんとは打って変わっての対応に、私はまじまじと聖黒さんを見つめてしまった。
 完璧に無視されてしまったその子は、不貞腐れた様子でぶつぶつと文句を言っている。私は少し首を傾げてその子を観察するでもなく見つめた。綺麗な短髪が月の光で白っぽく光って、暗い中でぼんやりと浮かんでいるように見えた。
 その子は私の視線に気がついたのが、文句を言い募っていた口をぴたりと閉じて、代わりにきりっとした表情を浮かべて「姫さまですね」と確認するように言った。
「姫さま!?」
「そうだ」
「そうです」
 私と蒼士さんと聖黒さんは、三人同時にそう答えていた。
「やっぱり! お目にかかれて光栄です、姫さま」
 私の驚きはするりと交わして、人懐っこい笑顔でその子は言った。
「ちょっと待って。姫さまって、何?」
 私は少し冷静になろうと、額に手を当てた。「美月様」と呼ばれるのも居心地が悪いのに、一気に飛び級して「姫」にまで昇格してしまっている。ふらふらと、ふわふわと、どこかへ浮遊してしまいそうな頭を必死で現実に引き留めながら、私は目を瞬いた。
「その言葉どおりです。美月様は我々の主家の娘君ですから姫なのです。さらに我ら四神家当主にとっては主ですから」
 優しく聖黒さんはそう説明してくれる。けれど、私は聖黒さんが説明してくれた言葉を一割も理解できていなくて「そうですか」と自分の理解力のなさに――でもこの場合は私のせいだけでもないような気がするけれど――諦めて呟いた。
「ところで輝石。自己紹介がまだじゃないか?」
 蒼士さんが男の子に向かって言うと、その子ははっとした様子で佇まいを正すとお辞儀をした。
「初めまして、姫さま。俺は西(にし)輝石、西家(せいけ)の当主白虎(びゃっこ)です」
 その子はそう告げると「俺のことも好きなように呼んでください」と言い添えた。
「初めまして。私は美月です。よろしくお願いします、輝石君」
 斎野宮と名乗るのに少し抵抗を感じて、私は名前だけを名乗った。
 輝石君の方は「輝石君って呼ばれた」となぜか自慢するように蒼士さんと聖黒さんに笑顔で言っている。そんな輝石君に向かって、蒼士さんは無表情のまま彼を見下ろして、聖黒さんはにっこりと只ならぬ笑顔で彼をじっと見つめた。そんな二人に輝石君は怖気づいたのか、話題を変えようと必死で頭を回転させているのが目に見えて分かる。私はそんな輝石君からそっと視線を外して、笑いが漏れそうになるのをなんとか堪えた。
「もう朱兎(しゅう)は来てる? ごめん、遅れて」
 輝石君は真面目そうな表情で、二人を見上げる。
 私は、輝石君の口から零れた新しい名前に、蒼士さんや聖黒さんが言っていた「四神」という言葉を思い出していた。小説や漫画の世界で知っている四神と、彼らが告げている四神が同じだとすれば「朱兎」さんが最後の一人かもしれない。蒼士さんが青龍、聖黒さんが玄武、輝石君が白虎と名乗っていたのだから、最後の朱兎さんという人が南を司る朱雀≠セろうか、とない知識を絞り出して考えていた。
「気にすることはありません。令様も有様も承知してくださっていますから」
 聖黒さんは先程まで輝石君に向けていた笑顔とは違う、本物の笑顔を向けて言った。それは輝石君を労るような、そんな表情だった。
「朱兎はもう芍薬の間で俺たちの到着を待ってるよ。きっと早く誰か来てくれって願ってるだろうな。御当主と奥方様と三人で待たされてるんだから」
 蒼士さんが少し笑いながらそう言うと、輝石君も真面目な顔から一転して、とびっきりの笑顔を浮かべた。
「あぁ……朱兎の姿が目に浮かぶな」
 瞳がきらきらしていて、輝石君の顔立ちが端正なものだとふっと気付かされるような笑顔だった。
「私が美月様と蒼士を呼びに席を立つときも、自分が呼びに行きたいって懇願してきましたからね」
 聖黒さんはやり取りを思い出すように、そっと甘い表情で目を瞑りながら話した。そんな聖黒さんに輝石君が呆れたような、恐ろしいものを見るような、そんな表情を送っている。
「えっと、私のその――両親って怖いんですか?」
「いえ、そういう事ではありませんよ」
 聖黒さんは私の不安を感じ取ったのだろう。安心させるように一段と優しい笑顔を浮かべた。
「ただ、お二人は十六年間もこの日を待ち侘びておいでで、特にここ数ヶ月間は早くこの日がくるようにと願を懸けるほどでしたので。美月様に既にお会いになられた有様はよいでしょうが、令様はまだ美月様のお顔も見られていないので、まだかまだかとそわそわなさっておいででした」
 気が立っていると言ってもよさそうなほど、と聖黒さんは最後に付け足した。
「聖黒も意外と酷いよな。ご当主とは聖黒が一番親しいし、結構ずけずけ何でも言えるのにさ。わざと朱兎を残してきたんだろ」
 輝石君がやれやれと言った風に聖黒さんを見ながら言う。
「わざとなんて人聞きが悪いですね」
 聖黒さんは不服そうな口調で言ってはいるけれど、その表情は楽しそうだった。
「私は四神家の筆頭として美月様をお迎えにあがらねばなりませんでしたから」
 輝石君は聖黒さんを眇め見てから、私の方を見て口パクで「これが本性です」と伝えてきた。私はくすりと笑って頷いてから、先程から考えていることを聞くことにした。
「あの。さっきから思ってたんですけど、四神家って?」
 私は三人を順番に見つめながら声をかける。蒼士さんが、ああ、と思い出したように呟いた。
「それについて詳しいことは、御当主がお話になられます。今は早く芍薬の間へ参りましょう。御当主がお気の毒ですし」
「朱兎もね」
 輝石君は悪戯っ子みたいな笑顔を浮かべて、嬉しそうに言った。

 

 

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