三十八

 

 北庭に着いた私は、人の気配がしない辺りを一通り見渡してから、小さく溜め息をついた。なんとなくだけれど、闇音が北庭にいるような気がしていた私は、少し拍子抜けして、それから途方に暮れて立ち止まった。真咲さんにああ言った手前、見つかりませんでしたと言って帰るのも気が引ける。このまま庭を歩いて屋敷の周りを一周すれば、いつかどこかで闇音と会うかもしれないと考えて、気を取り直して歩き出した。
 初めて闇音と出会ったのはこの場所だった。あのときは沈丁花が咲いていたけれど、今は立葵が咲いている。時間は確実に進んでいるんだな、と当たり前のことをしみじみと思いながら、咲き始めたばかりの八重咲きの立葵にそっと触れた。
 赤色の綺麗な大輪の花は、堂々とその存在を主張しながら柔らかく咲いている。遠くから見ると花弁(はなびら)が薄いために手作りの紙の花のようだけれど、近くで見るとひらひらと花弁がゆれていて、柔らかな質感を感じることができる。
 立葵を優しく撫でながら庭を見渡していると、後ろで土を踏みしめる足音が聞こえた。その気配に私は一瞬身体を強張らせてから、すぐにその力を抜いた。土の上を歩く足音は、確かな足取りで私のもとまでその人物がやってくることを伝えて、それから足音は私の隣までやってくるとぴたりと止む。私は立葵に目を落としながらも、視界の端で黒い着物が揺れるのが見えた。
「真咲さんが呼んでたよ。そろそろ帰るみたい」
 私がぽつりと呟くと、その人――闇音が私を見下ろす気配がした。それでも私は立葵から目を離さなかった。
「泉水と会ったのか、あの後」
 闇音の抑揚のない声が聞こえて、私は戸惑いながらも頷いた。闇音に嘘を言ったとしても、彼はすぐにそれを見破るだろう。私は立葵から手を離すと、両手を胸の前でぎゅっと握った。
「お前のことだ。きっと幸せになれとでも言ったんだろうな」
 嘲笑だけを乗せた声を吐き出して、闇音が鼻で笑う気配がした。視界の端で黒い着物がゆるやかに動いて、闇音の長く細い指が立葵にそっと触れるのが見えた。
「ばかばかしい」
 吐き捨てるような冷たい響きを持った声とは正反対に、闇音の指は優しく立葵に触れる。しばらくの間、優しげに花弁に触れていた指は、私に見つめられていることに気づくと、すぐに私の視界から消え去った。視界から消えた闇音を追うように、ゆっくりと闇音を見上げると、闇音は何の感情も宿さない顔で私を見下ろしていた。
「……私を責めないのね」
 闇音を見つめながら私がやっとのことでそう言葉にすると、闇音は一瞬だけ眉根を寄せた。
「私、自分の勝手な理由で闇音を選んだのに。泉水さんを選べないっていう理由だけで選んだのに」
 闇音から視線を外さずに小さな声で言いきると、闇音は首を傾げて私の顔を覗き込んだ。ふわりと闇音の纏う香りが私の周りを漂う。
「どうして責めることがある? ただ単に、俺とお前の利害関係が一致しただけだ」
 闇音はそう言うと、曲げていた腰を正して見事に手入れされた庭を見渡した。
「俺は家の繁栄のためにお前が欲しかった。お前は俺か泉水かどちらかを選ばなくてはならなかったが、泉水を選ぶことができなかったから俺を選んだ。ただそれだけのことだろう」
 ふっと嘲笑にも似た笑みを浮かべる闇音の横顔を見つめる。その横顔はひどく寂しそうに見えた。
「本当に? 本当にそれだけなの? だとしても、私たちこれから一緒に暮らしていくんだよ」
 心の奥の方でちくりとした痛みを覚えながら、咄嗟に口をついて言葉が出る。闇音は寂しいんじゃないだろうかと、彼の横顔を見つめる私は、そう思わずにいられなかった。
「言っておくが、お前を妻に迎えても、これまでと何かが変わるわけじゃない。お前はただ俺の隣で繁栄のためだけに存在し続ければいい。俺はお前を上手く使うだけだ」
 闇音は背けていた顔を私へ向けると、暗い色を持った瞳で私を見つめる。その瞳には一切の光がなく、ただ単にその場の風景を映しているに過ぎない。その瞳には、以前見えた感情の一切の断片すら読み取れなかった。
「あなたは、周りの人のこともそんな風に思ってるの? 真咲さんがどれだけ闇音を心配してるか、芳香さんが闇音の心にどれほど応えたいと思ってるか、考えたことないの? 周りの人の気持ちとか、何も考えないの?」
 闇音の冷たい言葉に思わず反論した私を、闇音は顔を逸らしながら横目でちらりと見やった。その視線に射すくめられて、私は思わず息を呑む。それ以上何も言えなくなった私は、ただ身体を強張らせて、息をするのも忘れたように闇音を見つめ続けた。
 少しの間沈黙を保っていた闇音は、立葵を見下ろすと、鮮やかに咲く立葵に手を伸ばして、その少し手前でぎゅっと拳を握った。まるで立葵を強く握り潰すかのように。
「人の気持ち? 考えたことなんてないな」
 冷やかな笑みを浮かべながら、闇音は小さく吐き捨てた。それからぐるりと身体を反転させて私を見つめると、鋭い視線を送る。
「お前は本当に甘やかされて育ったんだな。哀れだ」
 闇音の吐き捨てる言葉に、私は身をすくめて浅く呼吸しながら問う。
「どうして、それが哀れなの」
 聞き取れるか聞き取れないか微妙なほどの小さな声を聞きつけて、闇音は顔を少し歪めた。その表情は今まで見たどの表情よりも、どの瞳の色よりも、強い感情が表れている。
 どこか遠くにあるものを切望しているような、そんな切ない感情。そしてそれは、どこに向けられているのか判断がつかないような曖昧な闇を伴っている。
「甘やかされて育てば、甘い人間になる。その証拠が、さっきお前が言った言葉だ」
 闇音はそう言うと、一歩私から遠ざかって距離をとった。拳は強く握りしめられたままだ。
「人の気持ち? そんなもの考えてどうする。それを考えれば、何かが変わるとでも?」
 闇音はそう吐き捨てると、冷酷な笑みを浮かべて顔を歪めさせる。冷たいほど美しい顔立ちに、その笑みは不自然に際立って見えた。
「お前に教えておいてやろう。どれほど人の気持ちを推し量っても、何も変わらない」
 闇音は顔を歪めたまま、冷たく私を見下ろして続ける。
「望んでも受け入れられないことがある。願っても叶わないことがある。人間というのは、簡単に他者を切り捨てる。相手がどれだけ自分の気持ちを考えていたとしても」
 私は闇音の歪められた顔をただじっと見つめることしかできなかった。闇音の言葉は絶望を語っている。その表情には諦観が表れている。私がそれに目を見開いて言葉を失っていると、闇音は最後に言い放った。
「だから人間が嫌いだ」
 重い沈黙が下りる。
 闇音の言葉から、この世の誰もが嫌いなのだということがはっきりと伝わってきた。傍で仕えている臣下三大も、目の前にいる私も、すべての人が。
 私は掛ける言葉が見つからずに、ただただ闇音を見つめていた。いつもの感情を消した表情から一変した闇音の顔には、長い間培われてきただろう意思が窺える。それを見た瞬間、鉛のような重さを持つ冷やりとしたものが私の心にどさりと落ちてきた。
 それは「すべての人」の中に例外なく、闇音自身さえもが入っているのだということをはっきりと伝えていた。
 ――それを目の当たりにして私は、初めて闇音を理解したいと心から願った。

 

 

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