三十四

 

 会談が終わって自室へと引き返した私は、ほっと一息をついた。あの部屋は、空気が異様なほど重たかった。
 私が闇音を指名した後、白月家の三人は部屋を下がって、芍薬の間には黒月家と斎野宮の六人が残された。そこで私は明後日に黒月家へ入ること、今日から数えて一週間後に結婚の儀をあげることが両親と闇音の間で決められた。
 龍輝さんと更さんは、一言も言葉を発さないまま、表情も一切崩さずにその場にただ座っていた。当主である息子が結婚するというのに、二人はまったく関心を示さず、心も動かないようだった。父と母はその様子を目にして、何度も訝しげに二人へ視線を送っていたけれど、二人はそれも意に介さないようだった。闇音ですら、そんな二人をなんとも思っていないような素振りで話を進めていた。
 そんな闇音を見た私は、闇音の暗い瞳が頭の中をちらついた。闇音のあの瞳。感情が一切宿らない暗い色の冷たい瞳。あの瞳と同じ陰惨な瞳を、以前どこかで目にしたことがあると気づいたのだ。それが一体いつ、どこでだったのか、どうしても思い出せなくて私は頭を抱えた。
 そしてぼんやりと障子の向こうへ視線をやると、庭に人影が見えた。一体誰だろう、と思いながら障子へ近寄って、すっとそれを開けて覗いてみる。すると庭に立っていた人も障子が開いたことに気づいて、さっとこちらを振り返った。
「泉水さん」
 振り返ったその人を見つめて、私は無意識にその人の名を呼んだ。すると泉水さんはにっこりと微笑んで、こちらへ歩いてきた。
「もう帰ったのかと思ってました」
 障子を開けながら、近づいてくる泉水さんに向かってそう声を掛けると、泉水さんは少し複雑そうな顔色で頷いた。そして開かれた障子越しに私と向きあうと、じっと私を見つめた。
「私は少し、自惚れていたようだね。美月ちゃんは、もしかしたら私を選んでくれるんじゃないかと、少し思っていたんだ」
 泉水さんはそう言うと、目を伏せた。そしてまた私へ視線を戻すと、複雑な表情は消して、優しげににっこりと微笑んだ。私はその微笑みを見てぎゅっと自分の手を握った。
「あの、ちょっと待っててもらえますか?」
 私はそう言うと泉水さんの答えも聞かずに部屋の奥へ引っ込んで、鏡台の引き出しから大切にしまわれていた包みを取り出した。そして、それをそっと手で包むと、不思議そうな表情を浮かべている泉水さんの元へ戻った。
「これ……」
 そう言って私はその包みを泉水さんの手に握らせると、泉水さんを見つめた。
 泉水さんはなおも不思議そうな表情を浮かべて、少し小首を傾げて見せた。それから、私に促されてその包みを開くと、息を呑んだ。私はその様子を見ながら、続ける。
「私は持ってちゃだめだと思って」
 泉水さんは自分の手の中にある、二つの髪飾りから目を離さずに、じっと私の言葉に聞き入っているようだった。
「だから、お返しします」
 私がそう言い終えると、泉水さんはゆっくりと私の顔へ視線を戻した。その顔には困惑の色が見て取れた。
「でも、これは美月ちゃんにあげたものだ」
 その声にも困惑の色を乗せながら、泉水さんは小さな声で呟いた。私は泉水さんの言葉に頷くと、口を開いた。
「分かってます。今更返されても泉水さんが困ることも。でも、私はそれを持ってると辛い」
 改めて言葉にするとあまりにも辛くて、無意識に涙が目に溜まるのが分かった。泉水さんは私の表情を見て、自分も辛そうな表情を浮かべると、手の中の髪飾りを強く握りしめた。
「私、泉水さんが好きでした。だから、泉水さんに幸せになって欲しいんです」
 声を震わせながら、私はそう言った。泉水さんは聞くのが辛いとでも言うように、さっと私から顔を背ける。私は震える声をなんとか抑えようとしながら、それに構わずに続けた。
「泉水さんに好きな人がいることは、気づいてました。でも、私はそれに気づかないふりをしようとした。……最低ですよね」
 ぎゅっと自分の手を握って視線を落とす。泉水さんは咄嗟に背けていた顔を私の方へ戻すと、勢いよく首を振った。そして私に何かを言おうと口を開いたけれど、私はそれを止めて自分が口を開いた。
「泉水さんが何て言ってくれようとも、私は自分が嫌になったんです。好きな人の幸せも願えないなんて……」
 私はそこで言葉を切ると、ぶんぶんと首を振った。泉水さんはその様子に驚いたように目を見開いている。
「み、美月ちゃん……?」
「先に謝っておきます。ごめんなさい」
 驚いた様子の泉水さんを無視して、私は頭を下げた。いきなり理由も分からず謝られた泉水さんは、目を丸くして私の顔を恐る恐る覗きこんだ。
「どうしたの?」
 泉水さんは心配そうな表情を浮かべて、じっと私を見つめている。私はそんな泉水さんに申し訳ない気持ちになりながら、話を続けた。
「……湖で見てしまいました。泉水さんと小梅さんが話しているのを」
 私がそう言うと、泉水さんはさっと顔色を変えて私を見つめた。
「ごめんなさい、立ち聞きするつもりはなかったんです。でも、聞いてしまいました」
 私は慌ててもう一度頭を下げようと、勢いよく頭を下へ向けると、泉水さんの手がそれを止めた。
「美月ちゃんが謝ることはないよ」
 泉水さんは落ち着いた調子でそう言ったけれど、その表情は落ち着かない様子を見せていた。
「私、泉水さんに幸せになってもらいたいって思ってるのと同じぐらい、小梅さんにも幸せになってもらいたいって思ってます。小梅さんは私の大切な友達だから。……だから、二人には幸せになってもらいたいんです」
 私は心からの言葉を込めて泉水さんに気持ちを伝えようと、じっと彼を見つめる。
「小梅さんを幸せにできるのは、泉水さんしかいない。それと同じように、泉水さんを幸せにできるのは、小梅さんしかいません」
 私から出たその言葉は、自分でも驚くほど穏やかで誰が聞いても納得してもらえそうなほどの静かな声だった。泉水さんを穏やかに見つめながら、私は泉水さんの言葉を待った。
 泉水さんは少し目を伏せてから私へ視線を戻すと、微かにその瞳を潤ませて私をじっと見つめ続けた。何度か言葉を紡ごうと口を開いたけれど、そこから声は出てこなかった。
 泉水さんの顔を見れば分かる。きっとこの優しい人は迷っているのだ。私が言ったように小梅さんの元へ戻ってもいいのだろうか、と。その思いが泉水さんから痛いほど伝わってきて、私はそっと泉水さんの手を取って頷いた。泉水さんはそれに驚いたように目を見開いて私を見つめると、それから小さなかすれる声で、
「ありがとう」
 と言った。

 

 

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