遠くで人の声がする。それは蒼士さんの声と、誰かもう一人の若い女性の声だった。
 段々とその声が近くで聞こえてくる。そのことで、私は自分が眠りから覚醒へ向かっていることを知った。
「いえ、それはまだ」
「そう……じゃあ、これから話すのね」
「はい。あの時に美月様にすべてをお話しするのは、少々重すぎることかと思いまして、こちらに着いてからお話ししようかと」
 そこで蒼士さんの声が一瞬途切れる。しんと静かな沈黙が下りて、けれどすぐにそれを蒼士さんが絶ち切った。
「私の独断です。申し訳ありません。先に美月様にお話しすべきでした」
「いえ、そんなことはないわ。あなたが美月を思って判断したということは重々承知よ。この子が目を覚ましたら、改めて話しましょう。(りょう)さんも、四神も一緒に」
四神(ししん)家の当主は北家(ほっけ)南家(なんけ)が既に控えております」
 そう、と女の人は答えると、私の髪を優しく撫でた。その手の温もりが、遠い昔の記憶に語り掛ける。私、この手を知ってる――そう思って目を開けた。
 目の前には私の記憶とは違って、知らない女の人がいる。その人は柔らかい笑顔を浮かべて親しげに私を見下ろしていた。
「まあ、目が覚めたのね」
 私の頭を撫でていたその人は、私が目を開けたのに気がつくと優しい声でそう言った。その人は二十代半ばくらいで、美しい顔をしていた。綺麗な白い肌と美しい黒髪のコントラストが素晴らしい人だ。
「一気に色々なことがあって疲れたのでしょう」
 その人は私に向かって優しく、気遣うように言った。その間も私の頭を撫で続けたままだ。
「私――?」
 曖昧な記憶を手繰り寄せようと、天井に向かってぽつりと言葉を出してみる。すると蒼士さんがとても心配そうな目を私に向けて、
「雲の間を擦り抜けて飛んでいるときに、意識を失ってしまわれたのです」
 と言った。
 そういえば、蒼士さんに掴まって綺麗な満月を見たところで記憶が途切れている。
 そこまで思い出すと、先程の出来事が打ち寄せる波の如く一気に押し寄せてきた。いきなり天界へ、そして本当の両親の元へ帰らなければならないと言われたのだった。
 ここは天界なのね、と寂しく思う。もう二度と両親≠ノ会うことはできない。
 ぼんやりと周りを見渡してみる。とてもすっきりとした広い部屋に布団が敷かれていて、私はその上に寝かされていた。所々に可愛らしいぬいぐるみや調度品が置かれていて、なぜか私の好みを反映させたかのような部屋だった。
「申し訳ありません。美月様は初めて飛ばれましたのに、それに気を遣うことができませんでした」
 いつもの喋り方とは違う、丁寧な口調で蒼士さんがそう言うので、私は驚きながら部屋に巡らせていた視線を蒼士さんへ戻した。
「ううん、そんなことない」
 いつも近くにいてくれた蒼士さんが、急に遠い人に思える。私は首を振りながら否定してから、女の人の方に視線を走らせて、それから問いかけるように蒼士さんを見つめた。それに気がついたのか、蒼士さんが女の人をそっと手で示して、
「この方は斎野宮(ゆう)様です。斎野宮の奥方様で、美月様のお母上です」
 と当たり前のようにさらりと言ってのけた。
「え!?」
 その言葉に驚きすぎた私は、思わず大きな声を出してしまった。すぐに自分で口を覆って「すみません」と謝ってから遠慮がちに、そして改めて、母だと紹介された人へ視線を走らせた。
 母上ということは私を産んだ人だということだ。けれど――ありえない。だってこんなに若い母親だなんて。どう見たって、私とは十離れていればいいぐらいだ。
 悶々とそんなことを考えている私の頭の中を読んだかのように、母だというその女の人はくすりと笑って、
「私、こう見えても三十六歳なのよ。あなたのことは二十歳のときに産んだの」
 と茶目っ気たっぷりにそう言った。
 私はその台詞になんとか頷きを返しながらも、まだ納得はいっていなかった。どう見ても、とても三十六歳だなんて思えないほどの若々しさだ。
 そう思いながらも注意深く見てみると、年相応の皺や、年齢を重ねた故の独特の美しさが顔の中に息づいているのに気づく。けれど、この人から発せられるオーラが相手にそういうものを見させないようにしているみたいだった。
 この人が、本当のお母さん。
 私を育ててくれたお母さんとはまったく違う印象で、まったく違う雰囲気で、なんだか夢の中にいるような現実味のない話だった。
「美月。気分はどうかしら? これから起きられそう? やっぱり明日にしようかしら」
 最後は独り言になりながら、母は私に訊ねる。私はその言葉を受けて、反射的に体を起こした。
「あの、私は大丈夫です。起きられます。すみません、ご迷惑をかけて」
「あら、そんなこと美月が気にすることじゃないわ」
 私の他人行儀な言い方に、母は少しショックを受けたように慌てて言った。その母を見た私は、なんだか気まずくなってしまって逃げるように俯いた。
 一瞬が永遠に思えるほどの沈黙が部屋の中に流れる。暫く経ってから、母は「令さんに美月のこと伝えてくるわね」と蒼士さんに言って、その場から逃げるように立ち去った。
 それにほっとしてしまった自分に気がついて、自分自身が嫌になる。掛け布団を少しだけ握ってから顔を上げた。
 蒼士さんは母が出て行った襖をじっと見つめている。まるで、そこから次に話す言葉を探しているように見えた。
 そして私は、いきなり蒼士さんに連れて来られた天界や、本当の母や、田辺の両親や、そういう色んなもののために気持ちの整理がつかないでいる。いつもと違う、蒼士さんの丁寧な口調もしっくりこなかった。
 再び静まり返った空気を、先に破ったのは蒼士さんの方だった。
「奥方様は、本当に美月様を愛していらっしゃいます」
 その声はとても小さい。沈黙が辛くて隅々の小さな音にまで敏感になっていた今だったから辛うじて聞き取れたような、そんな声だった。蒼士さんはまだ襖を見つめたままで、その表情は分からなかった。
「御当主も同じです。お二人とも、あなたを手元で育て永遠に失うか、十六年の間手放して一生を送らせるかという辛いご決断を迫られたのです。あなたが生まれたその瞬間に」
 身動き一つせず蒼士さんの言葉を聞いている私の気配を察したように、蒼士さんはやっと私に視線を向けた。その視線には、悲しさが宿っていた。
「お二人は、どんな小さな事でもいいからと、あなたの身に起こった出来事を私に報告するように言い付けられました。この十六年間、お二人は私を通してあなたの成長を遠くから見守ってこられたのです」
 蒼士さんはゆっくりと私に言い聞かせるようにそう言った。
 確かに、母からは紛れもない愛情が感じられた。十六年間、自分たちで育てることができなかった娘がやっと手元に戻ってきたという、その喜びが伝わってきた。この部屋も、蒼士さんから私の話を聞いた二人が、私の好みに合うようにと準備してくれたのだろうと考えると納得がいく。
 だけど、と私は思う。急かされるように連れて来られたこの場所で、たとえ本当の両親だとしても、その二人を何の葛藤もなく受け入れるなんて到底できない。少なくとも私には難しい。
「分かってるの……ううん。分かってるつもりよ」
 私もゆっくりと言葉を探しながら、蒼士さんを見つめる。
「だけど、蒼士さんが私の立場なら? 今まで暮らしてきた世界はすべて嘘だったと言われた時に『私が暮らすべき本当の世界だから、実の両親だから』なんていう理由で急にすべてを受け入れられるの?」
 自然と溜まった涙を零さないようにしながら「私には無理なの」と、最後にぽつりと付け足す。
 蒼士さんは眉根を寄せて苦悩に満ちたような表情を浮かべてから俯くと「きっと私にも受け入れられないでしょう」と言った。
 再び二人の間に沈黙が流れて、今度は私がそれを破る。
「蒼士さん。いつもどおりに話してくれないの? せめて、それくらいは変えないで」
 私は視線に願いを込めて蒼士さんを見るけれど、蒼士さんは私の視線を避けて辛そうに顔を歪めながらゆっくりと首を振った。
「――申し訳ありません。私は臣下の身分で、美月様は私の主です。もう以前のように、あなたに接することは許されないのです」
「ここが天界だから?」
「……そうです」
「私は臣下とか主とか、そんなもの望んでない。それがよく分かってもいない。それでもなの?」
 蒼士さんは何も答えてくれなかった。でも答えは聞かなくても分かっていた。
 こんなにも急に、色んなものが変わってしまった。私には新しい世界と新しい両親ができたけれど、馴染んだ世界と育ててくれた両親と、近所の優しいお兄さんだった蒼士さんを失った。そう考えると先程堪えたばかりの涙が出てきそうになって、慌てて下を向いた。
「失礼いたします」
 不意に襖の向こうから声がして、それに驚いた私の涙は奥へすっと引いた。
 静かに襖が開けられると、そこには月の光を受けて美しく輝く長い髪を後ろで束ねた、綺麗な男の人がいた。
 その人は私に目を止めると、深く一礼してから、
「お初にお目にかかります。私は北家当主、玄武(げんぶ)(きた)聖黒(せいこく)と申します」
 と、胸に手を当てて優しい笑顔を浮かべた。
 思わずその笑顔に見惚れそうになった私は、慌ててお辞儀をして自己紹介する。
「こちらこそ、初めまして。田辺美月です」
 私が言い終えるや否や、蒼士さんがとても言いにくそうに、
「美月様、今はもう斎野宮美月様です」
 と小声で耳打ちした。
 あっ、と思わず声を出してから、小さな声で「斎野宮美月です」と私は言い直した。
 北聖黒と言ったその人は、変わらず優しい笑顔を浮かべて私を見る。その視線に居心地が悪くなった私は、ぎゅっと掛け布団を握った。そんな私に気づかないのか、あえて気づかないふりをしてくれたのか――おそらくは後者だろう――彼は私に向かってもう一度微笑んだ。
「令様と有様が芍薬の間でお待ちです」
 聖黒さんは恭しくそう告げると、蒼士さんに目配せをする。令様? と思って聖黒さんを見つめ返すと、
「令様は美月様のお父上でございます」
 と答えてくれた。
 その言葉に思わず顔をしかめた私に、敏感に気がついたらしい蒼士さんが咎めるような視線を私へ送った。
「御当主も奥方様に負けず劣らず、あなたを心配していらっしゃいました」
 厳しい蒼士さんの声が聞こえて、私は渋々頷いた。
 十六年間、傍で私を守ってきただけのことはある。蒼士さんには私のことは何でもお見通しなのか、と私がそっと思うと、それを見透かしたように蒼士さんがにっこりと笑った。その笑顔は失ったと思っていた、私がよく知る蒼士さんの顔だった。
 その微笑みを見て、私は少し安心する。
 この世界から逃げ出すことは不可能だろう。もうお父さんとお母さんにも二度と会えないだろう。それを受け入れるにはきっと時間がかかるだろうけれど、私がよく知っている蒼士さんは消えていないと思うと、心が慰められて、それから勇気が湧いた。
「では参りましょう」
 蒼士さんが片膝をついて私に手を差し出す。私はそれをしっかり握って、暖かい布団から立ち上がった。

 

 

back  龍月トップへ  next

 

小説置場へ戻る  トップページへ戻る

 

Copyright © TugumiYUI All Rights Reserved.

inserted by FC2 system