「いつきのみや……」
 呟いた言葉に、懐かしさも記憶もない。
 今までの日々は嘘だったのだろうか? ここで私が暮らしていたのは、何もかも現実味のないフィクションだったのだろうか?
 混乱がすべての機能を低下させたみたいに、一瞬で何も考えられなくなってしまった。それでも蒼士さんは言葉を継ぐ。
「美月、田辺さんは君のご両親から君を預けられたんだ。十六になるその日まで、という約束で――」
「どうして?」
 蒼士さんの言葉を私は遮っていた。言葉を挟まずにはいられなかった。
「どうして、その人たちは私を預けたの? どうして今になってその人たちの元へ帰らなくちゃならないの?」
 私はここにいたいのに。その一言を知らない内に堪えていた。きっと何を言ってももうどうにもならないのだと、私の直感が伝えていた。
「十六になるまで下界で暮らさないと、君は死ぬとされていたから」
 まるで慰めるように蒼士さんが言う。でもその言葉は私の胸には響かなかった。
「斎野宮はこの下界とは違う、天界の世界の住人だ。そしてその天界の中でも斎野宮家は由緒正しい名家で、君をこれまで育ててきた田辺家は斎野宮の分家筋に当たる家柄だ」
 蒼士さんは一瞬だけ、お父さんとお母さんに視線を遣った。
「千年前に斎野宮と田辺の両家の間で取り決めがなされた。斎野宮家に女子の第一子が生まれた時には、田辺家がその娘が十六を迎えるまで下界で育てるという取り決めが」
 だから君は帰らないといけない。遠まわしに蒼士さんがそう言っているのが分かった。
「天界って何なの?」
 頭に浮かぶ疑問を、考える間もなくそのまま口に出していく。もう頭の中で考える力すら今の私にはなかった。段々と日常から非日常へ話が進んでいる。私の頭では理解できない事態へ話が向かっている。それだけは分かった。
「天界は君の故郷だ。ここは俺たち天界の人間からすれば下界に当たる」
「俺たち?」
「そう。俺も天界の人間だ。そして君も」
 そこで蒼士さんは言葉を切って、私を見つめた。
「俺は君が下界に降ろされるときに、供として降りてきた。君のご両親から君を護るようにと言い遣っている。そして俺も、君を必ず護り幸せな十六年間を過ごしてもらうと、君のご両親に約束したんだ」
 蒼士さんは私からの言葉を待っているように、少しの間、黙って私の反応を見ていた。それが分かったけれど、何の言葉も浮かんでこなかった私は、そのまま蒼士さんの次の言葉を待った。それを理解したのか、蒼士さんは小さく頷いてから続けた。
「斎野宮家には二百年に一度、第一子として娘が生まれるとされてきた。そして、その娘を天界で育てると十六歳に満たないうちに亡くなってしまうと伝えられてきたんだ。現に、今まで生まれた第一子の娘で、天界で育てられた者は全員が十六に満たないうちに亡くなっている」
 そこで蒼士さんは説明を止め、私が理解できているかを確かめるようにじっと見つめた。
「千年前、第一子の娘は天界では生きられないと気づいた当時の斎野宮当主は、分家筋の田辺家を下界へ降ろすことに決めた。田辺家に代々、斎野宮第一子の娘を育てさせるために。そして俺のように、その娘を護る役目を遣わされた者を娘と共に下界へ降ろし、娘の傍に置くことを決めたんだ」
 蒼士さんは今までになく真剣に私を見つめていた。
「君はその斎野宮家に生まれた第一子の娘だ。君を天界で育てれば、君は十六に満たないうちに亡くなってしまう。だからご両親はしきたりどおりに君を下界へ降ろして、田辺家へ君を預けたんだ」
 こんなに日常や常識からかけ離れた話に、実感なんて湧かない。けれど悲しいことに、それは性質の悪い冗談ではなく、事実なのだと三人の表情から読み取れた。
「私が無事に十六歳になったから、私を天界とやらへ戻すというのね」
 感情も抑揚もない声で私はそう言っていた。
「そうだ」
 蒼士さんは私を悲しそうに見つめて、静かに告げる。その声が胸に突き刺さるようだった。
「私の気持ちは関係ないのね」
 私がそう言うと、蒼士さんは初めて私から目を逸らして「そうだ」と繰り返した。そんな蒼士さんを力なく見つめてから、私は俯いた。何もかもが絶望的なまでに沈みこんでいる気分だった。
「お父さんとお母さんが私を育ててくれたのも、蒼士さんが私の面倒を見てくれたのも、その斎野宮の人の言い付けだったのね」
 ぽつりと何気なく零すと、すぐに蒼士さんの少し荒い声が耳を打った。
「それは違う!」
 驚いて私が顔を上げると、蒼士さんが真摯な態度で私に向き合ってくれていた。それから蒼士さんは、呼吸を整えるように小さく深呼吸してから続けて口を開いた。
「俺は確かに、君のご両親から役目を言い渡された。だけど、それだけで君を護ってきたんじゃない。俺は本当に君を……」
 蒼士さんはぐっと何かを堪えるように急に口をつぐんだ。一瞬の沈黙が流れた後、お父さんが下へ向けていた視線を私に戻して、
「美月。私は君が天界から下ろされた時、本当の娘のように思った。本当に、本当に……」
 とそう言って、けれどその後どう言葉を続ければいいのか分からなくなったのだろう。お父さんは言葉を切ってまた俯いた。お母さんの抑えた嗚咽が聞こえた。
「美月、気持ちの整理がつかないのは分かる。でも、今日中に君を天界へ戻さなくてはいけない。ご両親にはそう伝えてあるから」
 蒼士さんはそう言うと、私に反論の余地を与えないようにか、すぐにお父さんとお母さんの方へ向き直る。
「田辺さん。今まで美月のことを本当の娘のように可愛がってくださったこと、斎野宮の御当主と奥方様が感謝しています。美月を健康な、そして幸せな娘として育ててくださりありがとうございました、と」
 蒼士さんの労わるような声に、お母さんが涙に濡れた顔を上げて、蒼士さんではなく私を見つめながら言った。
「いいえ。私たちの方こそ、美月と一緒に過ごせた十六年間は幸せでした。美月との時間を私たちが取ってしまい、申し訳なく思っております」
 お父さんはお母さんを支えて立ち上がると、蒼士さんに一礼した。その様子をどこか他人事のように見つめていた私に、蒼士さんが近寄ってきて顔を覗き込むようにした。
「美月。天界へ戻るということは、もう二度と下界へは来ることができないということだ。もちろん田辺さんとも、もう二度と会うことはできない」
 その言葉を聞くや否や、思考能力が止まっていた頭が一斉に動き出した。我に返った私は、目を見開いて蒼士さんを見てから、すぐにお父さんとお母さんを見つめる。
「そんな……」
 精一杯の力を出してソファから立ち上がる。二人はその場から動かずに、私を悲しげに見つめるだけだった。
「お父さん、お母さん……私、そんな……」
 頬を何かが伝う感覚だけがあった。それが涙だと認識する前に、私は二人に飛び込むように、ぎゅっと抱きついていた。
 お父さんとお母さんは、私を抱き締め返してくれる。その腕が震えているのが伝わってきた。
「こんなに好きなのに……血が繋がってるとか繋がってないとか、そんなの関係ないのに? 私はお父さんとお母さんの娘なのに、行かなくちゃいけないの? もう会えないの?」
 絞り出した問い掛けに、二人は答えてくれなかった。私にも分かっている。そんなことを訊いても、もう何も変わらないのだろうと。
 二人は私の髪を撫でながら「愛してる、元気でね」と幼い子どもに掛けるような優しい声で私の耳元に囁いた。その言葉に益々涙が止まらなくなる。
 どうして私は本当の子供じゃないんだろう、と涙と一緒に零すと、二人は私をより一層強く抱き締めてから、蒼士さんの方へ私を押しやった。
「美月、元気でね。ずっとあなたのことを思ってる」
 お母さんが真っ赤に腫れた目を私に向けてそう言う。お父さんがその肩を抱いて、
「美月、君は私たちの誇りだ。しっかり天界で生きていきなさい。そしてご両親に親孝行しなさい」
 と言った。
「嫌だよ……」
 抵抗するように私が言っても、二人は悲しそうに私を見つめるだけだ。
 どれほど願っても望んでもどうにもならないことがあると、この時、初めて私は本当の意味で知った。好きだとか、ここにいたいとか、そんな思いだけではどうにもならないものが、この世にはあるのだ。
 私は強く握っていた拳をゆっくりと解いて、涙を拭う。それから、お父さんとお母さんに向かって深々とお辞儀をした。「ありがとう」なんていう言葉では、私の気持ちを伝えきれない。そう思って、あえて何も言わずにただお辞儀をした。けれど、顔は見れなかった。
 蒼士さんの方を向くと、蒼士さんは切なそうな瞳を私に向ける。けれどすぐに毅然とした態度で、私に手を差し伸べた。
「美月様。私、東家(とうけ)の当主青龍(せいりゅう)が斎野宮家までお連れいたします」
 私が迷いながらもその手を取ると、蒼士さんは私を庭へ連れて行った。お父さんとお母さんは私をじっと見つめていて、まるで私を目に焼きつけようとしているようだった。
 庭へ出た蒼士さんは、二人に一礼をしてから私を抱え込む。そして力強く地を蹴って、一気に空へ飛び立った。私は驚いて声が出ずに、ぎゅっと蒼士さんに掴まった。高度は一気に上がって行き、すぐに雲の間をすり抜ける。
 勇気を出して前を見てみると、美しい満月が煌めいていた。綺麗だ、と反射的に思った。

 

 

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