十九

 

 闇音は頬杖をついて障子の向こうに見える夕闇と、空に浮かんでぼんやりと白い光を放つ月を眺めていた。
 足音から私がやってきたことを察したらしい彼はちらりとこちらへ視線を移すと、すぐにまた冷たい瞳で空を眺めて言った。
「遅かったな」
「……父と母は、どこですか」
 彼はやっと私の方へ身体を向けると、私の問い掛けには答えずに続けた。
「真咲と芳香はとっくに黒月邸へ戻っているのに」
 気圧されそうな視線に思わず後ずさりして、私は繰り返した。
「両親はどこですか?」
 闇音は不愉快そうな表情を浮かべて私をじっと見据えると、鬱陶しそうに溜め息を吐いた。
「奥にいる」
 彼は言いながら奥の間のある方を手で示した。
「ところで美月。準備はどうなっている」
 闇音はすぐに話を切り替えて、私に座るようにと目で促した。それに大人しく従って彼の前に座った私は、小さな声で返した。
「準備って?」
「嫁入りの準備だ」
 闇音は至極面倒くさそうに答える。
「嫁入り道具や支度品もあるだろう。それはどうなっている」
 私は闇音のその発言にいささか驚いて、口を開いた。
「進んでます」
 まさか闇音がそんなことを気にするなんて思ってもみなかったのだ。
 泉水さんはよく訪ねてきてくれていたけれど、彼と会ったのはこれで三度目だ。と言っても、一度目も二度目も会った≠ニいうと語弊がありそうな出会いだった。私は二度の闇音との邂逅から、闇音は私との結婚についてまったく興味がないのだろうと考えていた。ましてや彼は、私なんかと結婚したくないのだろう、とまで思っていたのだ。
 表情から私が考えていることを的確に読み取ったらしい闇音は、少しだけ目を伏せて冷笑(せせらわら)った。けれど彼の美しい顔立ちが、その笑みを邪悪なものにはしなかった。
「俺はお前を嫁としてもらう」
 闇音は目を上げると、冷たさだけが宿されている視線を私へ向けた。
「前にも言ったが、お前に興味があるわけではない。お前を嫁としてもらうのは、繁栄のためだけだ」
 私はその瞳に負けないように前を向いて、闇音を見つめた。
「闇音」
 彼は、私がいきなり呼び捨てにしたことに少し驚いた様子を見せた。けれどすぐに面白そうな表情に変えて、小首を傾げて私を見遣る。
「闇音≠ゥ。まあいい。俺を呼び捨てにする奴もなかなかいないからな――それで何だ?」
 闇音の威圧的な態度に思わず私が俯き加減になると、彼はそれを許さないように私の近くまで寄ってきて、私の顎を持ってぐいと顔を引き上げた。その行為に嫌味を感じて、私は闇音の手を素早く払いのけた。
「あなたが私を嫁にと望んでも、私があなたを選ばなければ意味がないじゃない」
 敬語を使うのもやめて、強い意志を宿して彼に向って言う。けれど闇音は意に介さない様子で、酷薄な笑みを浮かべる。口元は笑みに形作られているのに、瞳は笑っていなかった。
「それなら心配ない」
 闇音は私に払いのけられた手を冷たく見下ろしながら言った。
「お前は俺を選ぶ」
 闇音は冷たく単調な調子で告げると「何か反論は?」という様子で私を促した。それに思わずかっとなった私は、唇を小さく噛み締めてから口を開く。
「どうしてあなたにそれが分かるの? 私の気持ちも知らないのに」
「知っている。お前は泉水が好きだろう?」
 彼は平静な態度でそう言うと、私を見据えた。急にそんなことを言われた私は狼狽えてしまって、自分でも分かるぐらいに顔を赤くしてしまった。
「だ、だったら尚更。あなたを選ばないわ」
 闇音は面白くなさそうに嘲笑って、私を暗く光る瞳で捉えた。
「だからだ。お前は泉水が好きだから、俺を選ぶ」
「……言っている意味が分からないわ」
 闇音の揺るがない瞳に恐ろしくなって、思わず身体を抱き込むようにする。部屋の空気が急に冷えたように感じられた。
 闇音は立ち上がって私に歩み寄ると、私の耳元に屈みこんでそっと囁いた。
「じきに解かる」
 酷く甘い声で、ぞっと粟立つような艶やかさを伴った言葉。それが私を恐ろしさに包む。闇音が紡いだ理解できない言葉たちとともに、私は呆然とその場に残された。

 

 翌日。闇音の訪問を知ったらしい黒龍の臣下三大が謝罪を兼ねて斎野宮にやって来ていた。
「姫様。本当に申し訳ございません。闇音様は突撃訪問がお好きなようで――」
 真咲さんが申し訳なさそうな顔を上げて言った。
「あの方ってほんと何考えてるの? 姫様のところに行くのなら声を掛けてくれればいいのに」
 真咲さんの言葉を遮りながら、芳香さんが不満げに言った。
「あの方は私たちのこと絶対に信用してない。いつも彰と私は置いてけぼりで、何も知らせてくれないもの」
 芳香さんが眉根を寄せて冷たく言い放つと、彰さんがそれを咎めるように言った。
「信用していなければ、臣下三大として傍に置かないだろう」
「でもいつだって私たち抜きでしょう――真咲は特別だけど」
 声に刺を含ませて芳香さんがそう言うと、真咲さんが申し訳なさそうに芳香さんを見遣った。
 ぴんと緊張した空気が一瞬で真咲さんと芳香さんを包む。芳香さんの突き放すような冷淡な言い方に、私は思わず口を挟んでいた。
「私が知った口を利ける立場じゃないのは分かっています。でもそういう言い方は、真咲さんが……」
 芳香さんは私の言葉もさっと手で遮ると、深呼吸した。
「すみません。言い過ぎました……ごめんなさい。姫様にまでそう言わせてしまって」
 そう言うと芳香さんは頭を掻いて、真咲さんの方を向いた。
「ごめん、真咲」
「いや……」
 真咲さんは芳香さんを見つめると、ほっとした表情で勢いよく首を振る。それから真咲さんは再度私に向き直ったので、私は素早く話し始めた。
「謝らないでくださいね。私は三人に謝られるようなこと誰からもされてませんから」
 実際、彼らに謝ってもらうようなことはされていない。もちろん、闇音に謝られるようなことも。多少不躾ではあったのは確かだけれど、だからと言ってそれが謝罪されるほどのことかと言われれば否である。
 闇音の他人を突き放すような酷薄な態度は、私だけに向けられているものではない。それが彼――黒月闇音という人なのだろうと私は理解し始めていた。
「ですが、闇音様は一体何の御用だったのですか?」
 それまで口を閉ざしていた聖黒さんが疑問そうに私に訊ねた。
「結婚の準備は捗ってるかって訊きに来たの」
「闇音様が、ですか?」
 私の答えを聞くと、怪訝そうな表情を浮かべて朱兎さんが呟いた。
「僕はてっきり、闇音様は結婚に興味がないのかと思っていました」
 朱兎さんが考えるように視線を空中の一点に据えて言った。
「あ。もちろん、姫君に魅力がないとかそういう話ではないですよ」
 私が朱兎さんの意見に同意して頷いていると、朱兎さんは急いでそう付け足してくれた。その様子に私は笑ってお礼を言ってから、考えながら言葉を紡ぐ。
「でも私もそう思ってたの。彼は私との結婚には興味ないんだろうって……」
 言いながら昨日の闇音の言葉を反芻する。
『お前は俺を選ぶ』
 私が泉水さんを好きだと知っていて、どうして闇音を選ぶというんだろう。確かに、私は泉水さんが望んでくれなければ泉水さんを指名するつもりはないけれど。闇音の言葉はそれを指しているのだろうか。
「美月様、何か悩みごとでも?」
 小さく唸りながら考えていると、蒼士さんの優しい声が耳に届く。そちらに目を遣ると、心配そうな表情の蒼士さんがいた。
「ううん。何でもないよ」
 我に返ってそう言ったけれど、私の意識は昨日の闇音の言葉に留まったままだった。
「姫様、闇音様が何か……?」
 彰さんが心配そうな声を出して私の顔を覗き込んだ。
「いいえ。何もありませんでしたよ」
 心配してくれる蒼士さんと彰さんに笑顔を向けて、私は手を振った。
 彰さんは腑に落ちない表情を一瞬だけ浮かべて、けれどすぐに優しい表情に戻った。日の光を遮って立っているために彰さんに後光が差して、なんだかとても神々しく感じられた。
「俺がちゃんと姫さまを居間までお連れしてれば……。一人にさせなければよかったんだ」
 輝石君が悔やむようにそう言った。
「いや、輝石君のせいじゃないよ。勝手に出歩く我が当主殿が悪いんですから」
 やはり刺のある言い方で芳香さんが言う。それに彰さんが苦い視線を送った。
「ねえ、なんだか大事になってるけど。ただ闇音が訪ねてきただけでしょう? 誰も悪くないし、大騒ぎするようなことでもないと思うんだけど……」
 私がそう口を挟むと、全員が一斉にこちらを向いた。突然注目を浴びてしまったことに少し戸惑いながら、私は続ける。
「だって、泉水さんだって適当に訪ねてきてくれるでしょ? それと同じじゃない」
 私が言い終えると、蒼士さんが難しい顔をして私を見下ろす。他の人たちも、蒼士さんの表情を映しているかのように揃って難しそうな顔つきだ。
「どうしたの?」
「美月様がそう仰られるのならよいですが……。ですが、美月様は闇音様とお会いになられると、その……怯えていらっしゃるように感じられるんです」
 蒼士さんの遠慮がちなその言葉で合点がいった。
 私が無意識に感じる闇音への言い知れない恐怖が、彼らに伝わっていたのだ。
 自分ではそれを表に出さないようにと気をつけてはいたけれど、それは失敗していたらしい。実際は私の負の感情が彼らにしっかりと伝わって、異常なほど心配させたり申し訳なくさせたりしていたのだ。
 それが分かった瞬間、私はとてつもなく申し訳ない気持ちになって俯いた。
「ごめんね。そういうつもりじゃなかったんだけど……」
 まだよく知りもしない闇音に一方的に恐怖心を抱いたこと、それによって周りに心配を掛けたことに、罪悪感を抱いた。
「きっとすぐ慣れると思うから。闇音ってそういう人みたいだし。だから、気にしないで」
 私が俯いたまま呟くと、周りのみんなが頷く気配が感じられた。

 

 

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