十六

 

 輝石君は相変わらず昼寝を続けていて、まったく起きる気配がない。そんな輝石君を尻目に、雪留君はどら焼きを黙々と食べ続けていた。
「雪留君は甘いものが好きなの?」
 空になった雪留君と自分の湯呑みにお茶を淹れて、延々と飽きずに食べ続ける雪留君を見ながら言う。雪留君はもぐもぐと動かしていた口を止めて、どら焼きを見下ろした。
「別に好きなわけではないですよ。ただ、普通は幼い頃に甘いお菓子をたくさん食べるものでしょ? それを取り返しているだけです」
 雪留君は淡々と、無表情に言った。
「でも、輝石の作る菓子は好きですよ。輝石の作る菓子は美味しいだけじゃなくて、優しさが詰まってるから。……普段はいがみ合ってるから、本人にはそんなこと口が裂けても言いませんけどね」
 雪留君は優しげな表情を浮かべた後、すぐに罰が悪そうに険しい表情を浮かべた。
「ほんとに二人は仲良しなのね」
 難しい表情の雪留君と、よく眠る輝石君を交互に見て笑いながら言うと、雪留君はむっとした表情を私へ向けた。
「泉水様もそう言うけど、全然そんなんじゃないです。第一、どこをどう見ればそう見えるんですか」
「どこって、全体的に」
 私がお茶を啜りながら落ち着いて言うと、雪留君は不服そうにどら焼きに食いついた。
「ところで、幼い頃にはあんまりお菓子を食べさせてもらえなかったの?」
 私が何の気なしにそう訊ねて雪留君を見ると、雪留君はどら焼きに食いついたポーズのまま固まっていた。それで咄嗟に悟った私は、「別に話さなくてもいいんだけど」と言った。下手すぎるフォローに自分を恨んだ。
「じゃあ話しません」
 雪留君は私を横目で見て、また淡々と言うと、口を動かしてどら焼きを食べた。私は雪留君を眇め見て、またお茶を啜る。
 途端にしんと静まった雪留君と私の間の沈黙に、少し居心地が悪い。話題を変えようとお茶を飲みながら必死に頭を動かしていると、ぽつりと小さな雪留君の声が思考の合間を縫って届いた。
「……本当に何も聞かないんですか?」
 驚いて雪留君へ目を動かすと、雪留君はどら焼きを手に持ったまま私を真っ直ぐ見つめていた。
「無理に問い質したりする気はないよ」
 私が落ち着いて答えると、雪留君は少し首を傾げた。
「姫。泉水様のこと、どう思ってますか」
 突然の質問に飲んでいたお茶に()せて、せき込みながら雪留君を見つめ返す。それでも雪留君は揺るがない視線を私に据えていた。
「いきなり、何?」
「答えてください。どう思ってますか? 泉水様のことを不幸にしないと誓えますか?」
「どうって……」
 少し離れた場所で聖黒さんと朱兎さんと会話を楽しむ泉水さんをちらりと振り返る。それから雪留君に視線を戻してみると、雪留君は本当に真剣な表情で私を見据えていた。中途半端な答えはこの場では許されないと咄嗟に感じ取って、私は真剣に頭を悩ませた。
「どうって……本当に分からないの。今はまだ何とも言えない。泉水さんのことは好きだよ。惹かれてるとも思う」
 私は考えながら、ゆっくりと雪留君に伝える。
「泉水さんのことを不幸にしないなんて、絶対には言い切れないよ。これから何があるかは分からないから。だけど、泉水さんのことは好きだから、不幸になってもらいたくないとは思ってる」
 雪留君の真剣な視線を受け止めて私は言った。すると雪留君は小さく頷いて「僕もです」と言った。
「僕は泉水様にだけは不幸になってもらいたくない。ここでもし姫が、絶対に幸せにするとか言ったら、絶対に泉水様とは結婚させないと思ったけど、姫はちゃんと分かってるみたいだから、姫になら泉水様を託せると思います」
「……なんか、よく分からない基準というか、ひねくれた基準というか……」
 私が呆れて雪留君を見つめても、雪留君は気にも留めない様子だ。一体話はどこへ向かっているのかと訝しんでいると、雪留君はさらりと告げた。
「僕、両親に捨てられたんです」
 雪留君は私を見据えて、強い眼差しでそう言った。唐突に言われたその言葉に、私は言葉を失った。
「姫には想像もつかないでしょう。下界では血は繋がらないながらも優しい人たちに大切に育てられて、天界では温かな両親に心配されて愛されてる。だけど、世の中にはそういう人間ばかりじゃないってことですね。姫は恵まれているんですよ」
 私はその言葉に何と答えればいいのか分からなくて、ただただ雪留君を見つめた。雪留君にそう指摘されて、私は何も言えない甘い自分を思い知った。
「母は僕が生まれてすぐに余所に男を作って、父と僕を捨てて出て行きました。僕にとってはたった一人の肉親だった父も、僕を愛してはくれなかった。記憶にあるのは、母によく似た面差らしい僕を、憎しみだけがこもった瞳で見下ろしていた男だけ。結局、僕が六歳の時に父は僕を捨てました」
 雪留君は何の感情も宿さない冷たい瞳を浮かべた。
「それからは地獄だった。たった六歳の子供が、大人の庇護なしに暮らすことがどれほど苦しいことか、きっと想像なんてできないでしょう。食べ物はない、寝る場所もない。僕は人のものを盗むことだけはしたくなかったから、すぐに空腹で死にそうになった。同情と侮蔑の籠った視線で僕を興味深げに見てくる奴がいて、それがとても腹立たしかった。時々、食べ物を恵まれたりして、それがとても悲しかった。手を差し伸べてくれる人の瞳の裏には偽善が蔓延(はびこ)っていて、それがとても苦しかった」
 ぎゅっと拳を握って、雪留君は独白のように真っ直ぐ前を見て続ける。
「そんな生活が何ヶ月も続いて、僕はもうぼろぼろで薄汚くなっていました。僕はそんな状態でどこかの大きなお屋敷の前で行き倒れていたんです。どうやってその屋敷の前まで行ったのかは覚えていません。意識朦朧で、僕はとにかく倒れていて――その屋敷に出入りする人はみんな綺麗な高そうな着物を身に纏っていて、薄汚い僕を人間ではないものを見るような目で見下ろしてました。だけどたった一人だけ、たった一人だけ僕に手を差し伸べてくれた人がいたんです」
 それまで暗い色だった雪留君の瞳に突然明るい光が宿って、雪留君は暖かさを取り戻した視線を泉水さんへ向けた。
「在り来たりな話だと姫は思うかもしれませんけど、でもその時、手を差し伸べてくれたあの人は、同情も侮蔑も、裏に見え隠れするはずの偽善も、僕には向けなかったんです。ただ、慈愛と僕を案ずるその気持ちしか向けずにいてくれたんです」
 そう話すと雪留君は固く握っていた拳を緩めて、長く息を吐き出した。
「だから僕は、絶対に泉水様に幸せになってもらいたいんです」
 雪留君は噛み締めるように、大切な言葉を紡ぐようにそう言った。私はそんな雪留君の思いと、汲み取れない程の強い願いを感じて頷いた。
「輝石に対していつも意地悪な態度を取るのはこれが理由です。僕は家族に対する思いなんてまったくない。僕にとっての家族なんて簡単に切り捨てることができるものだから、輝石の思いが理解できない」
 私は雪留君の言葉に輝石君の方へ視線を移す。目に入ったのは、眠っているはずの輝石君が目を開いて、悲しそうに眉根を寄せている姿だった。けれど、雪留君はそんな輝石君には気づかずに続ける。
「理解できないけど、羨ましいと思う。それだけお姉さんを愛せるっていうのは、それだけお姉さんに愛されたってことだから。僕には家族に愛された記憶なんてないから、羨ましいって思うんです」
 雪留君は俯きながら小さな声で言った。
「それに輝石は強い。輝石の境遇だって、僕と同じぐらい悲惨だって言ってもいいぐらいなのに、それでも輝石は前を向いてる。捻ることなく、真っ直ぐ前を向いてる。それが羨ましくて疎ましいんだ……もっとも、ほんとに輝石を疎ましく思ってるわけじゃないけど」
 雪留君は最後に小さくそう付け足すと、手に持っていた食べかけのどら焼きを見つめた。
 私は雪留君を見つめてから、横目でちらりと輝石君を見遣る。輝石君がそっと涙を拭う仕草をしているのが見えた。

 

 

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