十一

 

 小野原は朱兎さんの言うとおり、美しいところだった。暖かい日差しの中、清廉な空気が流れていて、植物はきらきらと光っている。近くの木を見上げると、木漏れ日が葉の色を透かしていて、ひとつとして同じ色の葉はなかった。
「どうですか、姫君。綺麗なところでしょう?」
 朱兎さんが小野原に負けないきらきらした笑顔を私に向ける。
「はい、すごく綺麗。落ち着きます」
 朱兎さんは私の答えに満足げに頷いた。
 こんなに綺麗な場所、初めて来たなと思いながら空を見上げると、小さな雲が水色の空にふわふわと浮かんでいた。
 小川のほとりまで歩いて、そこに腰を下ろすと聖黒さんと朱兎さんは読書を始めた。蒼士さんと輝石君が森林の方に散歩に行くというので、ぼんやりと空を眺めているだけだった私はそれに付いて行くことにした。

 

 さくさくと音を鳴らしながら土の上を歩く。土の温かい匂いがして、とても落ち着く。
「この世界は自然がたくさんあるのね」
 私が感心して呟くと、輝石君が不思議そうな表情を浮かべた。
「姫さまがいらした世界では自然はなかったんですか?」
「うーん……。なかったわけではないけど、少なかったという感じね。もっと人工的なものが多かったから」
 へえ、と輝石君が興味津々に頷く。それから私がいた世界のことを聞きたがったので、蒼士さんと二人で色んな話をした。電話やテレビ、パソコンの話。車や飛行機、何百メートルもあるビル。そういう便利なものがたくさんある反面、自然は少なくなっていること。
 輝石君は飛行機の件で目を輝かせて、飛行機に乗ってみたいと言っていたけれど、自然が少ないというのにはあまり実感が湧かないようだった。
 温かい土の感触を踏みしめながら三人で歩く。この世界に来てから着物を着るようになった私は、この日も着馴れない着物を着ていたのに話に夢中になって歩いていたので、小石に足を取られてうっかり転んでしまった。
「美月様!」
「姫さま!」
 蒼士さんと輝石君が同時に叫んで、二人に一気に起き上がらせてもらう。
「ごめん! 転んでしまいました」
 久しぶりに転んだので、転び方を忘れてしまって顔からダイブした私は、痛みと恥ずかしさで一杯になってしまった。
「大丈夫ですか? 顔は……」
 私が恥ずかしそうにしているのにもお構いなしに、蒼士さんは私の顔に着いた土をさっと手で払ってくれると、怪我がないか慎重に確かめ始めた。
「だ、大丈夫」
 そのあまりの真剣さにさらに恥ずかしくなって、蒼士さんと自分の顔の間に手を挟んで少し距離を取った。
「姫さま! 膝から血が!」
 輝石君が私の膝を手で示すので見てみると、着物に血が染みていた。
「早く手当てを!」
 輝石君が焦りながら必死に言うので、私は少し恥ずかしさが治まって、
「大丈夫、これくらい。多分擦り傷程度だと思う」
 と言った。
「とにかく一旦、小川まで戻りましょう。あそこに手巾を置いてきましたから、傷を洗って手当てしましょう」
 蒼士さんがなおも真剣にそう言って、「歩けますか?」と聞いてくれたので「大丈夫」と頷いて、再び三人で小川まで引き返した。
 道々、二人はとても心配してくれて、おぶると言いだしたり、肩を貸すと言ってくれたりしたけれど、私はすべて丁重にお断りした。

 

「姫君! どうしたんですか!」
 私の着物の血に気づいたらしい朱兎さんが、慌てて本を放り出して駆け寄ってきてくれた。朱兎さんの反応に、再び恥ずかしさを感じながら、私は小さく口を開いた。
「ちょっと転んでしまって」
「美月様、どうなさったんですか?」
 朱兎さんの声を聞きつけてか、離れた場所で読書に耽っていた聖黒さんがこちらに急いで走ってきた。どうしてこうもみんな、大騒ぎで駆け寄ってきてくれるのだろう。心配してくれているのはとても有難いけれど、この年で転んだ私にとってはとても恥ずかしい。
「あれ? 小梅(こうめ)さんと優花(ゆうか)?」
 私が俯いていると、輝石君がぽつりと疑問そうな声を上げた。私はその声につられて顔を上げて、聖黒さんと一緒に走ってくる二人の女の子を見つけた。一人は小柄な美人で、もう一人は私と同じくらいの背丈の可愛らしい女の子だった。その子の方は、どことなく朱兎さんと雰囲気が似ている。
「小梅さんと優花さん?」
 私は小さく名前を復唱するけれど、聖黒さんも朱兎さんも、そしてその二人の女の子にも私の声は届いていないようだった。
「これは酷い。すぐに手当てしなければいけません」
 聖黒さんが真剣にそう言って私を小川のほとりまで連れて行こうとすると、小柄な美人の女の子の方が聖黒さんの手を握って引き止めた。
「まさかご自分で手当てするおつもりですか? 姫様は女性ですよ。殿方がおみ足に触れてはいけません」
 美人の女の子は厳しい調子でそう言うと、聖黒さんの手を私から引き剥がして、代わりに彼女が私の手を取ってほとりまで歩きだした。
「あの、そんなに大した怪我じゃありませんから……」
「いいえ。痕が残ったりしては大変ですから」
 彼女はハンカチをざぶんと小川につけてから、着物を捲ってそっと傷口を拭いてくれる。着物が守ってくれたようで、傷口に汚れはついていなかった。
「よかった。土とかはついてないみたいですね。それに傷も痕にはならないと思います」
 もう一人の可愛い女の子が言いながらハンカチを取り出すと、丁寧に私の傷口を覆ってくれる。そして最後に、二人で着物についた血の染みを濡れたハンカチでぽんぽんと叩いて目立たないようにしてくれた。
「あの、すみません。それとありがとうございます」
 私は二人の女の子に頭を下げてから言う。すると二人はにっこり笑って「大したことがなくてよかったです」と言ってくれた。
「もう手当は済みましたか?」
 二人から締め出された状態となっていた四神の四人は、こちらの様子を窺いながら遠目から声を掛けてきた。
「はい、もう済みました」
 小柄な美人の子の方が四人に向かって告げると、四人ともこちらにやってきた。二人が私の怪我は大したことはないと四人に告げると、四人ともほっとした表情を浮かべた。
「ごめんなさい。本当に大したことないのに大騒ぎになってしまって」
「いいえ。ですが、気をつけてくださいね」
 蒼士さんがふっと息を吐いてから、苦笑を浮かべて言う。私はもう一度頭を下げて「ごめんなさい」と答えた。
 それから私は二人の女の子を見つめて「ところで」と話を切り出した。
「こちらのお二人は?」
「ああ、すみません。紹介がまだでした。こちらは私の妹で北小梅です」
 聖黒さんが小柄な美人の女の子を示してそう言った。
「初めまして、姫様。北小梅と申します」
 小梅さんはそう言うと、丁寧にお辞儀した。
 小梅さんは小柄だったけれど、とてもスタイルがよく、その上とても綺麗な人だった。彼女の美しさは、相手を圧倒するようなものではなくて、見ていると心が穏やかになるような類のものだ。聖黒さんと小梅さんを見比べてみると、漆黒の髪と優しい目元がよく似ている。
「そしてこちらは僕の妹で、南優花です。可愛いでしょう?」
 朱兎さんがにこにこしながら優花さんを紹介した。その紹介に優花さんは少し顔をしかめた。
「姫様、初めまして。南優花です。こちらに姫様がいらっしゃると聞いて、小梅と一緒に参りました。お元気そうで何よりです」
 優花さんはお辞儀してそう言うと最後に、
「どうか兄様のこと、愛想尽かさないでやってくださいね」
 と朱兎さんを見上げて言った。それどういう意味! と朱兎さんが言うのを無視して、優花さんは私を見つめてにこっと笑った。
 優花さんは朱兎さんが自慢するとおり、とても可愛かった。顔立ちは朱兎さんと似ていて、フランス人形のような美術品のような、完璧な美しさだ。
「こちらこそ初めまして。斎野宮美月です。さっきは手当てしてくださってありがとうございます」
 私は居住まいを正してから、二人にお辞儀を返す。その瞬間に、蒼士さんが驚いたように私を見た。きっと私が「斎野宮」と名乗ったことに驚いたのだと思うけれど、蒼士さんはすぐに柔らかい表情に変わった。
「二人は妹さんがいたんですね」
 私が聖黒さんと朱兎さんにそう言うと、聖黒さんが頷きながら言った。
「私には弟もいますよ。もっとも彼は地方に勤めに出ていますから、都にはいませんが」
「名前は奏雲(そううん)って言うんです。奏雲は聖黒とは違ってすごく優しくて、だからこの腹黒い聖黒から離れられて、奏雲は清々したと思います」
 輝石君がすぐさま私に小声で囁くと、聖黒さんはいつもの笑みで輝石君を見つめた。「冗談だよ」と輝石君は言い訳するけれど、聖黒さんは笑みを緩めない。それを見て取った輝石君の行動は早かった。素早く私の後ろに回り込んだ輝石君は、聖黒さんの視線から逃れるように縮こまった。
「姫さま、かくまって!」
「もう、輝石君も言わなきゃいいのに」
 私が呆れて言うと、その様子を見て小梅さんが花のように微笑んだ。
「兄上も輝石には特別世話を焼いているようですから、あれで二人は仲がいいんですよ」
 私は小梅さんの言葉に納得して頷く。確かに聖黒さんは輝石君を見るとき、とても心配しているような、それでいてとても優しい視線を投げ掛けている。まるで弟のように思っているような、そんな温かい気持ちが伝わってくる。
 二人のこの攻防戦は毎日繰り広げられているため、私もだんだんと慣れてきている。蒼士さんも朱兎さんもこのやり取りを特別気にかけている様子はなく、聖黒さんと輝石君以外のみんなは和やかにこのやり取りを見つめていた。けれど当の輝石君は必死で黒い笑みを浮かべる聖黒さんの機嫌を直そうとしていて、周りの和やかな雰囲気に助けを求めていた。

 

 

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