台所へ移動した私たちは、そこで衝撃的なものを目撃することとなった。
「あの――奥方様」
 朱兎さんが遠慮がちに母に話しかける。けれど母は真剣にフライパンと向き合っていて、朱兎さんの声は届いていないようだった。
「……ああ。また失敗だわ」
 母はお手上げという風にフライパンから手を放して、残念そうな表情を浮かべた。母は張り切って卵焼きを作ってくれると言ったのだけれど、これで卵はすでに二十個無駄になっている。
 母はどうやら、とんでもなく料理音痴だったらしい。卵を焼こうとすれば真っ黒を通り越して炭に、野菜を切ろうと包丁を持てばその手さばきに見ているこっちがハラハラする有様だった。
「あの、素朴な疑問なんですけど」
「なあに?」
 私が母へ向かって静かに訊ねると、母はにっこりと美しい笑みを浮かべて私を見た。
「私が食べてる食事って、誰が作ってるんですか?」
 そっと訊ねた私の言葉に、母は一瞬で美しい微笑みを湛えたまま固まった。
 ここに来てから毎日出される食事は、見た目は美しく味は美味しく、といった感じで完璧なものだった。女中さんにお暇を取ってもらったと聞いていた私は、てっきり母が作っているのだと思い込んでいたのだ。
「えっとね、その……」
 母はぎこちなく言うと俯いて、小さな声でぼそぼそと呟いた。
「令さんが」
 母の小さな呟きに、私は首を傾げる。母はちらりと私を見てから、長く息を吐き出した。
「令さんが作ってくれているの。最初は私が作ったものをあなたに出そうと思っていたのよ? だから令さんに味見してもらったの。そうしたら令さん『とても美味しい』って笑顔で言ってくれてね」
 父のその台詞を聞いた私は、父の母への計り知れない愛の深さを思い知った――きっとそれは、この場にいる四人も同様だろうと思う。
「だけれどね『美月が望んでいるのは母の手料理を食べることではないんじゃないかな』って言われたの。それから『美月が食べる料理は私が作ろう』とも――何だかよく分からなかったけれど、令さんがそう言うならそうしようと思って……」
 母は顔を赤らめながら、蚊の鳴くような声で言った。どうやら父の言葉の意味を、私たちの反応からはっきりと理解したらしい。
「何をしてる?」
 突然後ろから声を掛けられてぱっと振り返ると、その父が立っていた。聖黒さんが簡単に説明すると父は頷いて、母の失敗作品を見遣った。
「有、お前が作る料理は私が食べるよ。これは夫の特権だから、たとえ娘にでも譲れない」
 父は俯いている母に優しい声で告げると、私に頷いてみせた。父の言葉を聞いた母は勢いよく顔を上げて、今度は父の言葉に顔を赤らめて「はい」と答えた。
「私が手伝うから、有は美月の隣に立ってなさい」
 父は上手く母を言い包めると――本当に言い包められたのかは分からないけれど――襷を手に取って着物の袖をたくし上げた。
 父は目を見張るほど、華麗な手さばきで料理を進めていった。その手から生み出される一品一品は、まるで芸術作品のようだ。母はそれに観念した様子で、蒼士さんと聖黒さんのお結び作りを私の隣で羨ましそうに眺めていた。
 朱兎さんと私は、見る見るうちに出来上がっていくおかずを、お弁当箱というには立派すぎるそれに丁寧に詰めていった。
 そして、目を見張るのは父だけではなかった。
 輝石君は立候補してお菓子作りをしていたのだけれど、その手から出来上がる和菓子の繊細さと美しさは、老舗の銘菓で売られているような出来栄えだった。お団子に最中、練り切り、きんとんなど、この短時間でこんなに作れるのだろうかと目を疑うほどの品々が一瞬にして出来上がっていく。
 時間を上手に遣り繰りしながら、てきぱきと台所を動く輝石君を見つめていると、朱兎さんが、輝石君の作るお菓子は味も一級品だと耳打ちしてくれた。私が頷きながら呆気に取られていると、輝石君がそれに気づいたらしく小さく笑った。
「どうかされましたか?」
「あ、ごめん。気になったよね」
 私が言いながら急いで自分の作業に戻ると、輝石君は「いいえ」と言ってくれた。
「家でよく作るんです。姉ちゃんが俺の作る菓子が好きだから」
 輝石君はそう言うと、にっこりと微笑む。お姉さんがいるんだ、と言おうとしたけれど、輝石君が浮かべるその笑顔がどこか寂しそうに見えて、私は反射的に口をつぐんでしまった。輝石君と出会ってまだ日は浅いけれど、いつも明るい輝石君とはかけ離れた寂しい笑顔のように思えたのだ。

 

 

 名残惜しそうな両親に「行ってきます」と告げてから、私たちはたくさんのお弁当とお菓子を五人で分担して持ちながら小野原へと向かった。五人でわいわいしながら一緒に歩くと、さらにうきうきとした気持ちになる。なんだか遠足に行くような気分だった。
 立派な和風の屋敷から外へ出ると、こちらも期待を裏切らない純和風な街並みとなっていた。電信柱やケーブルや、そういう現代的なものは一切ない。ここは平安京のような造りで、規則的な碁盤目の中にすっきりと都が収められているのだと、蒼士さんが教えてくれた。
 満開を少し過ぎたらしい桜並木を歩く。「ここの桜並木は満開の時とても綺麗なんです」という聖黒さんの説明に、朱兎さんが「来年みんなで見に来ましょうね」と穏やかに言った。柔らかい春の日差しの中、とても穏やかな気持ちになって、これから起こるだろう色々なことも乗り越えていけそうに思えた。
 そんな中、私の隣をゆっくりと歩いていた輝石君が唐突に話し始めた。
「俺の姉ちゃん、いわゆる心神喪失状態なんです」
 輝石君は桜を見上げながら、静かに穏やかに言った。私は突然のことに驚いて、輝石君の優しい横顔を穴があくほど見つめた。
「ちょうど一年前に、急に。何がきっかけなのか、何が原因なのか、全然分からなくて」
 静かに語る輝石君の言葉には、彼の絶望感や辛苦さが滲み出ている。私は何と声を掛ければいいのか分からなくて、押し黙ってしまった。
「俺の両親は、俺が生まれてすぐに事故に遭って亡くなったんです。だから俺にとっては姉ちゃんだけが唯一の身内なんです。姉ちゃんは俺の父親で、母親で、姉で、そんな姉ちゃんに俺はずっと頼り切ってました」
 輝石君はそこで言葉を切ると、不意に前を歩く三人を指さした。
「あの三人の名前を聞いて、何か気づいたことありませんか?」
「名前?」
 私はそう言われて、前の三人を見て少し考える。その瞬間、すぐにぴんと来た。表情から私が気づいたことを見て取ったらしい輝石君は、小さく頷くと話を続けた。
「そうです。方角はそれぞれ相当する色を持ってます。北の玄武は黒、南の朱雀は朱、東の青龍は青。だから聖黒は黒の字、朱兎は朱。蒼士の場合は『蒼』と書きますけど、東家の総帥――蒼士の父親は青治(せいじ)さんっていって『青』の字を持ってます。東家の場合は昔から『青』と『蒼』、両方を使ってたみたいです」
 輝石君の説明を聞いて、そうだと改めて思った。みんなそれぞれの方角を表す色を持っている。けれど、輝石君の名前には色がない。
「西の白虎を表す色は白。でも俺には白の字はありません。俺の姉ちゃんが持ってるからです。俺の姉ちゃんは白亜(はくあ)っていって、元々は姉ちゃんが白虎でした」
 輝石君はずっと桜を見上げていたけれど、その目は桜ではない遠くを見つめているようだった。
「元々、西家の後継ぎは姉ちゃんだったんです。天界の家では基本が第一子相続で、第一子が男だろうと女だろうと、その者が家を継ぐ決まりになってます。だけど例外として、第一子が当主の務めを果たせなくなった場合にだけ、第二子が相続するという決まりになってるんです」
 私は相槌を打つことすらいけないことのように感じて、何も言わずにただ頷いて、輝石君の話に耳を傾けた。
「俺は元々、西家の後継ぎじゃなかったから、姉ちゃんが白虎の務めを果たせなくなった時に必死になりました。俺は今までそういう教育は受けてこなかったから、どうすればいいのかもよく分からなくて、だから必死で勉強して――三人の足手まといにならないように、姫さまをちゃんと護らなきゃって思って。でもほんとはそんなの口実で、急に何もできなくなってしまった姉ちゃんを見ると、すごく辛くて、逃げてたんです」
 輝石君はそう言うと、桜から私へと視線を移した。
「だけど今は、ちゃんと向き合おうって思ってます。どんな姉ちゃんでも、俺の大切な姉ちゃんには変わりないって……時々すごく辛くなったり、何で姉ちゃんがって思ったり、そういうことはあるけど、それでも」
 それでも向き合わなきゃいけない時があるんですよね、と輝石君は私を優しい表情で見つめて言うと、明るい笑顔を見せて前を向いた。
「私、今度お姉さんに会いたいな。お見舞いとか……迷惑じゃなければ」
 私はそんなありきたりなことしか言えなかった。けれど輝石君は笑って頷いてくれた。
 明るい笑顔の下の輝石君の葛藤。私には計り知れないほどの辛い思いを、輝石君は受け止めている。その強さが、とても眩しくて美しかった。

 

 

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