第一部


 

 

「うん。分かってるよ、ちゃんと覚えてる――うん、じゃあね」
 耳に押し当てていた携帯を離して、電源ボタンを押す。自然と綻んでいた口元に気がついて、私は慌てて唇を引き結んだ。
 友達同士での初めての旅行は、ついに明日だ。最終確認を怠るわけにはいかない。
 携帯をベッドの上に置いて、ボストンバッグの中に詰めた荷物を改めて確認する。人差し指を立てて、ひとつひとつ確認していく自分の姿を、ふと客観的に捉える。その行動の幼さに、まるで小学生が遠足に行く前日みたいだな、と自分で思ってしまった私は、今度は苦笑を口元に広げた。
 部屋に差し込む夕日に顔を上げる。空を見上げると、夕暮れのオレンジと宵の黒が美しく混ざり合っていた。
 十六年前の今日、日と夜が交錯するこんな時間帯に私は産まれたそうだ。両親が私と顔を合わせたのは、空に月が輝く頃だったらしい。
 窓の外に広がる空に薄く星が瞬きだしたのを見てから、私は立ち上がった。
 今日から私も十六歳だ。この一年の淡い期待を胸に抱いて、明日の旅行に胸を踊らせて、部屋のドアを開けた。
 軽やかに廊下を歩いて、テンポよく階段を下りる。とんとん、と音を鳴らして階段を一段ずつ下りていると、その音にチャイムの音が混じった。
 はーい、とリビングからお母さんの声が聞こえる。その声に次いでリビングを忙しなく動く気配がする。私は階段から下り立った姿勢のまま、リビングに向かって声をかけた。
「私が出るよ」
 言ってから、サンダルを足に引っ掛けてドアを開ける。かちゃりと音を鳴らしてドアを開いて、ドアの前に姿勢よく立っていた訪問者を見上げた私は、ふっと気が緩んで微笑んでいた。
 ドアから数歩引いたところに立っていたのは、近所に住んでいる六つ年上のお兄さんだった。名前を(あずま)蒼士(そうし)さんといって、街を歩いていれば誰もが思わず振り返って見てしまうくらいの格好よい顔立ちをしている好青年といった感じの人だ。幼い頃から蒼士さんに妹のように可愛がられている私は、周りの女の子たちから嫉妬と羨望の目で見られていたくらい、蒼士さんの人気は凄まじかった。
 蒼士さんはいつも笑顔を絶やさない優しい人だけれど、どこか不思議なところがあって、彼が纏う空気は他の人たちとは違う独特な雰囲気があった。
「蒼士さん」
 名を呼んで、笑顔を送る。いつもなら蒼士さんもここで優しく目を細めて「勝手に門を開けて入ってきてごめん」と、挨拶代わりのそれを返してくれる。けれど今の彼は、私を見下ろしてどこか悲しそうに目を細めていた。
「何? どうかしたの?」
 訪ねて来てくれた蒼士さんを見た私は最初、誕生日のお祝いに来てくれたのかと思った。けれど、目の前に立つ蒼士さんの表情は誕生日を祝うような柔らかいものではないことは明らかだった。思わず口を突いて零れた私の言葉に、蒼士さんは淡々とした表情を取り繕ったように見えた。
美月(みづき)、迎えに来た。一緒に行こう」
「えっと、どこに行くの? 私、これから夕飯の手伝いをしないといけないの」
 そう言って、複雑な表情で私の名を呼ぶ蒼士さんを見上げる。少し首を傾げると、蒼士さんはきゅっと唇を引き結んでから、それを弛めて口を開いた。
「田辺さんも了承してる。十六になるまでの間、美月を育てるという取り決めだったから」
「……え?」
 さらりと宙に飛び出した言葉に、思わず訊き返す。
 十六になるまでの間の、取り決め。
 確かに蒼士さんはそう言ったけれど、私の思考回路は停止してしまったようでその言葉の意味が理解できなかった。
 きっと今の私は、この混乱を顔にありありと出してしまっているのだろう。蒼士さんは悲しそうに眉を寄せてから、少し話そうと言って私の横をすり抜けて中へ入って行った。一瞬、躊躇って玄関で少し考える。
 何かの冗談なのだろうか? いや、冗談に違いない。だって、意味が分からないのだから。
 私はリビングへ消えていった蒼士さんの背中を暫し見つめてからドアを閉めて、その後を追うように中へ入る。開け放たれていたドアをくぐってリビングへ顔を出すと、お父さんとお母さん、そして蒼士さんが私を待っていた。三人とも、揃いも揃って真剣な目で私を見つめている。
「蒼士さん。さっきのどういう意味? よく分からないけど、冗談なんでしょ?」
 じっと自分に向けられる視線の重さに息苦しさを感じて、私は少し早口で言っていた。
「それにお父さんもお母さんも、どうしたの? 改まっちゃって」
 私は二人に視線を向ける。二人はなぜか涙を目に一杯に溜めていた。
「美月、私たちの役目はもう終わったの。あなたは今日、無事に十六歳を迎えられたわ」
 お母さんはそこで言葉を切ると、俯いて涙を拭った。その言葉を引き継ぐようにお父さんが言葉を発した。
「美月。君をご両親の元へ帰す日がやってきた。このことは君を預かった日に決められていたことなんだ。だから君は、帰らないといけない」
 お父さんははっきりと言い切った後、私の視線を避けるように下を向いた。
 俯いた二人を見つめて、私は訳も分からず近くのソファに座りこんだ。なんだか眩暈がしそうな気がする。冗談にしては、あまりにも性質が悪い。それに、わざわざ私の誕生日を選んでする冗談ではない。
「さっきから何のことなの? 冗談にしては、結構辛いよ」
 こめかみに手を当てて、呟く。自分の部屋で旅行の準備をしていたのは、まだほんの数分前のことなのになぜか遠い昔に思えた。どっと困惑が押し寄せてきて、身体が疲労感で一杯だった。
「冗談じゃない」
 静かな部屋に、蒼士さんの低い声が響いた。声に誘われるように蒼士さんの方へ首を巡らせる。目に入ったのはいつもと変わらない真面目な様子の蒼士さんだった。
 冗談ではないのなら、何だと言うのだろうか。
 蒼士さんに無言で問い掛ける。少し待ってもその答えは返ってこず、私は俯いた。私には到底追いつけないスピードで話が進んでいる。考えをまとめようと、少し沈黙する。けれど指の隙間から零れ落ちるように考えはまとまらない。私はすぐに考えることを諦めて、代わりに深呼吸をしてから、口を開いた。
「私、養女だったの? ううん。養女なら両親の元へ帰すなんてないよね――だったら、私は一体何なの?」
 次から次へと疑問はたくさん浮かぶのに、上手く言葉にできない。一生懸命にお父さんとお母さんを見つめるのに、視線は絡み合わない。知らない間に、私は強く拳を握っていた。
「美月、君は田辺さんの実の娘じゃない」
 俯いたままのお父さんとお母さんに代わってか、蒼士さんが私の問いに答える。けれどその言葉を頭が理解する前に、心に最後の一撃を加えられたような気分だった。
 実の娘じゃない。だったら、やっぱり養女なのだろうか? そうだとしたら、どうして私は両親≠フ元へ帰らないといけないのだろうか――。
「じゃあ、私は誰の娘なの?」
 自分から出た言葉がこれほど弱々しいものだったことが、かつてあっただろうか。ぼんやりとそんなことを頭の片隅で思った。
「君は、斎野宮(いつきのみや)家の第一子だ」

 

 

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